教会の「被災地支援」に見る、「隣人愛」という大義名分

2014年11月24日月曜日

キリスト教信仰 時事問題

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 去る11月22日、長野県北部で最大震度6の地震があった。負傷者39人、うち7人は重症とのこと。家屋の倒壊もあったと聞く。被災された方の1日も早い回復を願うばかりである。
 
 地震と聞くと、3年前の東日本大震災、あるいは1995年の兵庫県南部地震を思い出す人が多いと思う。私は両方とも思い出す世代だ(ちなみに95年は地下鉄サリン事件もあって大変な年だった)。
 そして地震と聞いて私がもう1つ思い出すのが、教会による被災地支援ボランティア活動だ。

 ある牧師は先の2つの大震災で、被災地支援ボランティアに行った。兵庫の方は数日間だったと記憶している。けれど東日本の方は、教会を総動員して、何ヵ月にも渡るボランティア活動を展開した。私も参加させてもらい、炊き出しとか瓦礫撤去とかさせてもらった。もちろん一教会の活動だから成果はタカが知れているけれど。

 けれど、それはそれでわずかながら意義があったと思う。キリスト教的に言うなら「隣人愛」を実践できたと思うし、いろいろな出会いもあった。またわずかとはいえ人の役に立てたことは、素直に嬉しかった。

 けれど問題はその後だ。その牧師が至るところで、その活動をアピールするようになった。それも現地の必要を訴えて協力を求める為とか、そういう全うな理由からではない。
「うちはあの震災の翌日には、もう現地入りしましたから」
「おそらくキリスト教会ではウチが一番か二番に活動を始めましたから」
「どうです、ウチはこれだけの効果を上げましたから」
 とか、そんな感じだ。自教会の礼拝ではもちろん、呼ばれた先でも、海外の牧師相手にも、そんな調子のボランティア活動自慢を繰り広げた。

 ちなみに書いておくと、「震災の翌日に現地入りした」というのはウソだ。記録があるから間違いない。震災が起きたのは3月11日(金)で、教会が現地入りしたのは13日(日)だった。それと、現地入りしたのが1番か2番だったというのは、何の確証もない。そんな感じがしただけの話だ。

 いずれにせよ、隣人愛は他人に自慢するものではない。それは崇高なキリスト教精神をかぶった偽善だ。いくら「被災地のために」なんて大義名分を掲げても、結局自分が称賛してほしくて被災者を利用しただけだろうと言われてしまう。それは愛による行為とは言えない。

 もちろん、自慢する為だけに被災地支援を何ヶ月もした訳ではないだろうから、動機はそれだけではないはずだけれど。

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 こういう教会が行う被災地支援のもう一つの問題点は、ちょっと深刻だ。

 実際に東日本大震災で被災地支援を行った教会は相当数あるだろうけれど、いくつかの大々的に活動した教会には特に、日本中(あるいは世界中)から義援金が集まった。それもバカにできない金額だった。そしてそういう教会の周辺で、「義援金の用途が不明」とか「義援金の会計報告がない」とかいう話が出た。単に会計管理がずさんだったとか、そういう常識がなかったとか、それならまだ可愛い。けれど私の知るところによると、義援金を被災地支援でなく、故意に教会の必要とか、その関連の必要に回した、というケースがあった。

 そういう操作を指示する牧師に言わせると、「被災地支援も教会が立ち行かなければ続けられない。だから教会のために義援金を使うのは、結果的に被災地の為になる」という理屈になる。だったら、義援金を捧げたくれた人たちにそう言ってみろ、という話だ。だいいち、教会の備品を高価なものに買い替えるのは、教会が立ち行かなくなるかどうかの話とは関係ない。
 それは捧げた人の善意を完全に裏切る行為ではないか。

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 今回の長野県北部の地震で、牧師や教会がボランティアに行ったという話はまだ聞いていない。おそらく地元の方ではそういう動きもあるのではないかと思う。ぜひ頑張ってほしい。

 ところで上記のような問題教会・牧師がボランティアに行くとしたら、要注意である。その善意と憐れみに満ちた行動の裏に何が隠れているのか、じっくり観察する必要があるだろうと思う。

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