2014年11月27日木曜日

ホームスクーリングに関する疑問・その3

 ホームスクーリングに関する疑問の3回目。これでひとまず最終回。
 今回もホームスクーラー(クリスチャン)の気になる主張について、考えてみる。

・「親だからこそできる教育がある・・・」

 親だからこそ、その子に必要な内容・教え方・ペースで教育ができる、という意味である。これはホームスクーリングの最大の利点だと思う。いわゆる「個別対応」、あるいは「超個別対応」である。

 その子供に完全に個別に対応できるから、苦手分野はゆっくり、丁寧に、何度も復習することができる。逆に得意分野はどんどん伸ばして、いわゆる飛び級みたいに進めることもできる。
 他にも、ホームスクーリングなら時間の制限もないから、たとえば本物の自然観察に泊りがけで行くとか、早朝や夜間の天体観測に行くとか、子供の興味に合わせていくらでもアレンジできる。そのフレキシブルさは、公教育の比ではない。

 公教育の課題もここにあって、一度落ちこぼれると付いていけなくなる、というのがある。それを救済するのは、たとえば親身になって個人的に補講をしてくれる教師とか、塾とかのインフォーマルなサポートであろう。つまり、どうしても個別対応が必要になる。

 けれど、個別対応が本当に必要なのはそういう緊急事態とか特殊な事情がある場合であって、「全てにおいて個別対応」というホームスクーリングは、ちょっと事情が違う。基本的にホームスクールとは、その子だけのオーダーメイドな教育である。だからそういう子は、周りの全てが自分に合わせてくれる、という感覚を当然のことと思いやすい。

 これは小規模なチャーチスクールの子にも当てはまることだけれど、個別対応してくれる環境に慣れてしまうと、その子は多くの場合、周りの都合や事情に自分を合わせなくなってしまう
 くわえて「神様が自分を愛してくれている」「自分は尊い存在だ」というようなメッセージをいつも聞かされているから、自分自身をやたら特別視してしまう。結果、自分の希望が通るのは当たり前、周りが自分に合わせるのは当たり前、みたいに態度になってしまう。あるいはなりやすい。

 たとえば、昨夜遅くまで(自分の都合で)起きていたから、翌朝起きられない。だからその日に朝から予定があっても、自分は眠いんだから当然寝てていいでしょ、みたいなことになる。ホームスクールならそれでも通用するかもしれない。けれど一般の学校や職場ではもちろん通用しない。けれど彼らからすると、それは通用しない方がおかしい、という話になる。

 あるホームスクールの子らは定期的に集まってスポーツをしているけれど、練習風景を見ると、そういう態度が見えてくる。自分から挨拶できない、時間を守れない、コーチの話を黙って聞けない、勝手に隅で関係ないことを始める、とかだ。それはそれは自由奔放である。集団行動をしたことがないのだから、仕方がないのだけれど。

 もちろん全員がそんな感じな訳ではない。けれどその傾向は強い。ホームスクーラーのコンベンションが代々木のオリンピックセンターで毎年行われているから、興味のある方はチラッと様子を見に行ったらいいと思う。彼らの独特な雰囲気が、わかるのではないだろうか。
 一般にももちろん自己中心的過ぎる子はいるけれど、ホームスクールの子らは、言うなれば「悪びれのない自己中心」である。前述の通り、それを当然、あるいは正しいとさえ思っている。

 と、いうようなことを「親だからこそできる教育」と言っているのだけれど、上記のような「結果」を見る限り、それがうまく機能しているとは考えにくい。

「親だからこそできる教育」はもちろんあるけれど、それは勉強を教えるとか一緒に遊びに行くとかいうことよりは、どちらかと言うと、自分の背中を見せることではないかと私は思う。親の等身大の生き方を見せることが、良くも悪くも、子供に影響を与える。そしてその影響は、親が思う以上に大きいと思う。

 また、「親だからこそできる教育」が必要なのと同じくらい、「他人だからこそできる教育」も必要であろう。
 おそらくみんな、肉親でないからこそ聞ける、言える、ということがある。知り合いの子たちを見ても、「親の言うことだから聞けなくて」も、他の大人に言われるとすんなり聞ける、ということがある。「厳しさ」においてもそうで、同じ「しっかりやれ」を親から言われるのと部活の顧問から言われるのとでは、ずいぶん響き方が違う(もちろん厳しい顧問も優しい顧問もいるだろうけれど)。

 そういう風に他人から全く言われず、教えられずに育つことは、その子にとって大きな損失ではないだろうか。子供の頃の教育が、人生に大きな影響を与える。としたら、その子の人生はどうなってしまうのだろうか。

 以上、教育について思うところを書いたけれど、だからホームスクールが全て悪いとか、公教育が全て良いとか、そうは思っていない。
 ただクリスチャンが行っているホームスクールが、結果として上記のような結果になっているのは事実で、やはり彼らは考え直すべきことが多いと私は思っている。

 また3回に分けて書いてきたように、その主張にもいささか見当違いなところがある。彼らは四六時中、我が子を見ている訳だから、子供のことは自分が一番よくわかっていると思っているだろう。けれどその距離があまりに近すぎて、逆に見えなくなっていることにおそらく気づいていない。あるいはその可能性を考慮していない(だからこそそういう主張になるのだろう)。
 そういう意味では、昼間は学校に子供を預けてちょっと距離を置いた方が、案外よく見えることもあると私は思う。

おまけ)ホームスクーラーのおかしな主張のまとめ

・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」
 いえいえ、子育てそのものが激戦です。

・「ホームスクールにおわりはない」
 いえいえ、子育てには終わりはありません。

・「ティーンとの関わりが難しい。だからもっと一緒に過ごさないと」
 ティーンとは難しいものです。どれだけ一緒に過ごしても。また、理解することが解決ではありません。

・「親だからこそできる教育がある・・・」
 他人だからこそできる教育も大切です。全てを親だけで教えることはできません。

1 件のコメント:

  1. 親だからこそできることと、親だからこそできないことがあるということを、ホームスクールをやっている人は全然わかっていないと思います。
    宗教教育において優れていると自負しているようですが、それなら変な話ですが、ホームスクールは全寮制の学校のようなことだってやればできるはずなのです。あれほど偉そうなことを人前で主張するのであれば、防衛大学なみの徹底管理教育をすべきではないでしょうか。
    チャーチスクールとちがって全生活を管理できるのですから、起床ラッパでぱっと起きて、手早くベッドメーキングをして身支度をして寝室の外に出て直立不動の姿勢をとり、親から厳しいチェックをされ、そのあとは徹底的に清掃をするという生活をさせるべきではないかと思います。(もちろん制服を着せます)
    外に出てランニングをしている間に、せっかく整えたベッドをめちゃくちゃにされて(マットレスが外に投げ出されているほどの)、部屋に戻ったら短時間でまた整え直すとか、食事と風呂を○分ですませさせるとかの無理難題を毎日のようにふっかけて、娑婆っ気を完全に抜くくらいのことをすべきなのです。娑婆と同じ感覚を持ってもらっては困るというのがホームスクールの教育理念なのですから、食事と風呂とベッドメーキングを十分ですませろくらいのめちゃくちゃな教育をして、早飯早糞早小便からまず叩き込んでみたらいいのです。

    ホームスクールやチャーチスクールを支持するような論調の報道が、ときおりクリスチャン系のマスコミの記事にあります。もちろん新興宗教系のキリスト教の出版社ですが。でもそのような会社では、ホームスクールの人はおろかチャーチスクールの人すら採用しないのが本当のところなのです。これは朝日新聞等の大手マスコミが登校拒否をしてフリースクールに通っている人たちを好意的に描くドキュメンタリーをやりながら、採用するのは東京大学を筆頭に有名大学を出た人だけというのとそっくりなのです。
    新興宗教系のキリスト教はよく「朝日新聞はだめだ」といい、大手のマスコミの姿勢をしばしば批判しますが、彼らが一番嫌っている朝日新聞のような採用方針なのです。フリースクールで学んだ登校拒否者を好意的に描きながら、なぜか彼らのような人たちを絶対に採用しない大手マスコミと、クリスチャン系のマスコミはいったいどこが違うのでしょう?

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