始めたはいいものの、結局なんだかんだで続けられない、ということがある。
たとえば毎日日記をつけようとか、ダイエットをがんばろうとか、英会話を始めようとかいう決心が長続きしなかった、という経験は、誰にもあるのではないだろうか。
そういう趣味レベルの決心は、断念したって特に問題ない。むしろよくあることだ。
けれど、たとえばそれが学校や仕事となると、いささか問題であろう。せっかく入学したのに早々に退学してしまったとか、就職したのにすぐ辞めてしまったとか、そういう話は身近にもけっこう聞く。それぞれ事情があるのだろうけれど、もったいない気がしてならない。そもそも何故始めたのだろうか、と思ってしまう。
もちろん、入ってみたらブラック企業みたいな職場だった、という予測不能な事態は起こり得る。そういうところでも何がなんでも働き続けるべきだ、とは私は思わない。むしろ早々に撤退した方がダメージが少ないし、次に行きやすい。そういうケースはある。
またブラック企業だけでなく、それはイロイロな分野にも言える。自分にとってストレス過ぎる環境を我慢してしまうと、結果的にロクなことにならない。早々に離れて自分を守るべきだ。ただしそれが「甘え」となって何事からも逃げてばかり、というのも良くないけれど。
ただそういう極端なケースのことでなく、一般的な話として、「続けること」の大切さを私は常々意識している。
始めることに比べて、続けることには多くのエネルギーがいる。体力もいるし、忍耐とか、妥協とか、失望感を乗り越える意思とか、そういう精神力もいる。そのほとんどが、自分自身との戦いと言ってもいい。
かくいう私も当ブログの「ほぼ毎日更新」を目指して、1年半になる。全然まだまだだし、大変なこともあるけれど、続けられて良かったと今は思っている。
続けることでしか得られない可能性の広がりとか、見えてこない地平とか、そいういうものは確かにある。おそらく楽器の演奏とかダンスとか、伝統芸とか専門職とか、そういう熟練度がモノを言う職人の世界の方々には、リアルに実感できる話ではないかと思う。
そこに至るには、やはり「継続」以外にない。
そういう視点でキリスト教界を見てみると、いろいろと残念なことがある。
「地域に仕えます。それが御心だから」と言って教会が始めた福祉事業が早々に頓挫したり、利用者を裏切ることになったり、結局「金儲けがしたかったんでしょ」と言われても仕方ない有様になったりする。
また、「私たちはこれで神様を賛美していきます」と言ってデビューした「クリスチャンバンド」が、アルバム一枚で消えてしまったり、そんなこと何もなかったみたいに礼拝で賛美していたり、結局「目立ちたかっただけでしょ」と言われても仕方ない有様になったりする。
他にも、「神様のために」「〇〇のために」「示されたから」「導かれたから」「道が開かれたから」と言って始めたものの、いつの間にか立ち消えている「働き」が、沢山ある。
前述の日記や英会話が続かないのは、全然問題ない。けれどそういうクリスチャンらの途中退場は、「御心だから」と言っている分タチが悪い。御心ならなぜ辞めた? そう聞くと、「わからないけれど、それも御心だから仕方ない」みたいな答えが返ってくることがある。
御心だから始めた、御心だから辞めた、という訳だ。なるほど、都合がいい。自分はあくまで「従順な僕」で、神様の方が気まぐれなんだ、と言いたい訳だ。
はっきり書くけれど、その態度は神様を利用し、貶めている。「従順」なんてとんでもない。
クリスチャンや教会が何か言い出したり、始めたりした時は、長いスパンで見ることをお勧めする。初めは何でも勢いがいいものだ。その勢いが尽き、いろいろトラブルがあり、続けるのが困難になった時にこそ、はじめの決心の真価が問われる。
本当に神様を愛し、神様の為にこれをどうしてもしたい、しなければならない、と思っている人は、トラブルがあっても辞めない。一人になっても辞めない。困難になっても「道が閉ざされた」なんて言わない。それが本当の「働き」だと、私は思う。
追記)
「道が閉ざされた」というような事態がまったくない、ということではない。ただ、それを辞める方便として使うのはムシが良すぎる。
こういうものは二種類あると思うのです。
返信削除ひとつは自分たちの側から言い出してやった場合、もう一つはカリスマ的な人が個人預言と称して「あなたは○○のたまものがある。」とやって、その道に進むように促した場合です。
前者の場合は、教会や当事者が笑いものになるだけですむことがほとんどです。傷もさほど深いものにならないでしょう。
しかし後者の場合は治らない傷になってしまうことがおうおうにしてあります。
死体を「○○さんは生きています。これは定説です。」のライフスペースの高橋浩二を覚えているでしょうか?彼はセミナーを受けた受講生に、「あなたは○○になるべき。」と勝手に人のいく道を決めていました。たとえば今まで商売の経験の全くない一介の会社員に「あなたは花屋になれ。それが定説です。」と指導し、その人は会社をやめて花屋を開業しましたが、ろくな経験のない人に花屋の経営などうまくいくはずがなく・・・。ちなみにグル高橋が「この方面にいくように。」という職業は、花屋とかフードコーディネーターとかいうものばかりでした。実際に彼が書店で「フードコーディネーターになるには」というタイトルの本を立ち読みしていたという証言があります。しかしグルはお金持ちなのですから、本くらい立ち読みしないで買えばいいのにと思いましたが(笑)。
新興宗教系のプロテスタントでもライフスペースと同じ話がいくらでもあります。グル高橋が海外からよんできた怪しい教祖様にかわっただけで、「あなたは○○のたまものがある。」としょっちゅうやっているではありませんか。平凡な女性に向かって「音楽のたまものがある。」と個人預言をし、彼女は会社を辞めてアメリカでゴスペルミュージックを学んで帰国したのですが、音楽関係の仕事などたくさん舞い込むはずもなく、これでは生活していけないということで、今は非正規雇用の不安定な仕事に就きながら、生きていくだけで必死な状況になっているそうです。
怪しい教祖様の個人預言によって、新興宗教系のプロテスタントでは、多くの信者(とくにこれからの世代)が人生を大いに狂わされているという悲惨な現実がいくらでもあります。
新興宗教系のプロテスタントの中には、十字架をかかげた創価学会と似たような教会がいくらでもあります。よって池田本仏論も当然あります。学会員に「池田は仏ではない。」といっても通じるでしょうか?池田と学会員は職務が違うだけでみな平等という理屈が、新興宗教系の団体で通用するはずがありません。
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