【雑記】携挙騒動のその後・癒しについて

2014年11月12日水曜日

雑記

t f B! P L
・去る10月まで「もうすぐ携挙」と主張していた人のその後
 
 結局携挙の「き」の字も起きなくて、その「預言」は完全に外れたことになった。てことはニセ預言者確定? と思いきや、本人いわく「神様が思い直された」「信仰を試すためだったと神様に語られた」ということで、完全なる責任回避。というかもう「逆ギレ」のレベルで、「私が個人的に語られたことを私がどう書こうと勝手でしょ」みたいな話になっている。
 
 村上密先生が最近のブログ記事で、この件に言及している。それによると、上記の言い分は「主を嘘つきだと言っている」ことになる。私も全く同感だ。「自分は神様に語られたことを書いただけ。神様がいろいろ振り回しているんだ」
 書きたいように書いておいて、最後は神様に責任をなすり付ける。非常に悪質ではないだろうか。このままでは許されないと私は思う。
 
 ちなみに村上先生は「嘘を信じた方が悪いのではない」と言っていて、騙された人々を擁護している。私も基本的に同意見だけれど、信じた人に全く責任がない、とも思えない。騙された人々が被害者であるのは間違いないけれど、何かしら反省すべき点もある、とも思う。
 厳しいかもしれないけれど、何かしら反省がないと、また同じような目に遭ってしまう。
 
 で、当のニセ預言者は携挙の話なんて全くなかったみたいに、のうのうと信仰ゴッコを続けている。ブログの更新はこのところ滞っているようだけれど。
 
・「癒し」について
 
 聖書に書かれているような奇跡的な「癒し」が今日も起こるのかどうか、という議論があると思う。そして聖霊派とかペンテコステ派とかには「起こる」と信じる人が多いようだ。彼らの間では「瞬間的な癒し」の数々が「証」として語られている。
 
 けれど私が知る限り、その「証」は文字通り、語り伝えられるだけで、一切の検証なしに信じられている。疑うのは不信仰、ということだろう。それでいいのかと私などは思うのだけれど、彼らはそれでいいらしい。
 
 その「証」の真偽は、外部の人間には確かめようがない。だからあえてここでは取り上げない。
 けれどそういう人たちが「癒し」について言っていることには若干疑問がある。
 彼らは「癒し」に「いくつかの種類がある」と言う。一つは「瞬間的な癒し」、もう一つは「徐々に治っていく癒し」、もう一つは「治らないという癒し
 
 けれどこの「徐々に治っていく」というのは、病気がしかるべき時間を経て治った、というだけの気がする。慢性疾患とか重篤な病気(ガンとか)でなければ、大抵の病気は、時間とともに治っていくのだけれど。
 
 ある牧師が日曜礼拝の朝に発熱して、風邪だったらしいけれど、礼拝中も自分の「癒し」のために祈っていた。けれど何も起こらなくて、終わったら早々に帰宅した。数日したらすっかり治っていて、「主が癒された」と言っていた。いやいや、風邪なら数日もあれば治るでしょうよ。
 また「治らないという癒し」というのは、祈ったのに癒されなかった時に使う詭弁のような気がする。
 
 ある牧師はこう言う。
「病気がなくても不平不満ばかり言う人がいます。でも病気があるからこそ気づくことがあり、感謝できることもあります。その場合、病気が治らないことも癒しなのです」
 しかしこれは、病気の「癒し」の話でなく、精神論の話であろう。
 
 またある時、末期ガンの信徒がいて、余命わずかな状態だった。もう意識もほとんどなく、しゃべることもできない。その病床へ、「癒し」を信じる牧師が祈りに行った。
 ずいぶん長い間「異言」の祈りをして、「癒し」を宣言しまくった。けれど、何も起こらなかった。その信徒は数日後に息を引き取った。
 その牧師いわく、「召されることが御心だったのだ」
 
 なんだか腑に落ちない言い分である。「必ず癒される」と言っていたのは、いったい何だったのだろうか。

QooQ