子が親を愛するべきか、親が子を愛するべきか、という話

2014年11月24日月曜日

キリスト教信仰 教育

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 牧師の平良愛香氏がつくった賛美に「わたしはおやを」というのがある。

「わたしは親を愛せない・愛さない。でもイエスがわたしとともに生きている」という歌詞が印象的である。

 教会に行くと、「両親を敬え」と頭ごなしに言われる。けれど、自分を虐待してきた親をどうしても許せない、愛せない。でもそんな自分でも、神様が共にいて下さる。そういう気持ちを歌にしているようだ。

「どんな親でも敬うのが聖書の命令だ」というのは、いかにもカルト化牧師が言いそうなセリフだ。彼らは聖書の字面だけ読んで、その意味を深く考えない。あるいは考えたうえで、あえて字面だけ利用する。たとえば「許しなさい」という言葉だけ使って、露見した自分の罪を許させようとする。聖書を都合よく利用する彼らの罪は決して軽くない。

 村上密先生も最近のブログ記事「父と母を敬え」で、同様の事柄を扱っている。いわく、子が敬うべきなのは「神を信じて生活している父と母」であって、そうでない父母、あるいは子を虐待するような父母を敬えとは聖書は言っていない。私も同感である。

 ところで、虐待とかいう極端なケースでなくても、「親を愛せない」という子は、最近多いように思う。

 戦前戦後を背景としたドラマや映画を観ると、子が親を尊敬し敬うというのは、割と日本人の美徳として定着していたように思える。けれど戦後、特に高度経済成長期以降、そういう美徳は急速に失われたような気がする。親が仕事に取られてしまい、子との関係が希薄になってしまった、というのが少なからず影響しているだろう。

 もちろん、全ての子が親を尊敬していない訳ではない。積極的に親を憎もうとする訳でもない。けれど、「(親が)いつも仕事で家にいないから会話がない」「親とどう接したらいいかわからない」「親が何を考えているかわからない」というような理由で、親を尊敬する根拠を見つけれらない子が増えているのではないだろうか。これは無論、母親より父親に対して顕著であろう。

 愛情にしても憎悪にしても、何らかの関係があるから生じる感情であって、関係がない状態では生まれようがない。だから現代の親子関係の問題点は、もちろん虐待等の深刻な問題もあるけれど、むしろ「無関係」「無関心」という断絶にあるように私は思う。

 だからもっと親と子が関係を持つようにしよう、というのはあまりに短絡的な提案であろう。それが簡単にできるなら、初めから問題になっていない。

 理由はどうであれ、「親を愛せない」と子どもが葛藤する姿は、見ていて不憫だ。確かに聖書には「父と母を敬え」と書いてあるけれど、そもそも、子がさほど葛藤なく親を敬えるようにしてあげるのが、両親の役目ではないだろうか。子が努力して親を愛するというより、親がまず子を愛するべきだ。子が自分を犠牲にする以前に、親が子のために自分を犠牲にすべきだ。そしてその結果として、成長した子が親をおのずと尊敬できるようになる、というのが本来だと私は思う。

 もちろん、親の犠牲がいつもダイレクトに子に伝わる訳ではないし、むしろ伝わらないことの方が多いと思う。親とは辛いものだ。けれど子を葛藤させるよりは、まず親が自ら葛藤すべきではないだろうか。

 また、子が努力して親を愛そうとするのは、人間が努力して神に近づこう、喜ばれようとするのに似ている。神の方が歩み寄ってくれているのに、そんなこと全然気づかないで、なんとか神に近づこうとする。「そんなことしなくていい」と神様が言っているのに、全然聞いていない。そんな感じだ。

 だから基本、子どもは親の気持ちがわからないのだと思う。親の気も知らず、それでいて何でもわかった気になっていて、いろいろ偉そうに言う。けれどそれは、仕方のないことだ。なぜなら子どもなのだから。親はそれを理解し、忍耐しなければならない。全然通じなくても、愛し続けなければならない。

 もっとも、昨今の幼児虐待件数の増加を見ると、そういう覚悟のない親が多いように思えてならない。だから余計に子どもが葛藤することになるのだと思う。負の連鎖が続く。

 ここで冒頭の賛美「わたしはおやを」に戻るけれど、そんな負の連鎖に明確な答えを出せないキリスト教には、あるいは現在のキリスト教界には、どんな存在意義があるのだろうか。

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