このところ、ジェンダーに関する記事を見る機会が多くなっている。
http://blogos.com/article/97847/
ジェンダーの話題に関心が高まっているのか、私がたまたま見るだけなのか、よくわからない。けれどリンク記事を読むと、LGBTの方々の苦悩は、実体験としてわからなくても、決して小さくないと想像できる。だから世間の関心が高まるのは、良いことなのではないかと思う。もちろん、その関心が今後どうなっていくかはわからないけれど。
「男らしくしろ」「女らしくしろ」というのは、私が子どもの頃は平気で言われる言葉だった。そして社会全体が、それを良しとしていたように思う。
男性は「男らしく」あることが当然で、女性は「女らしく」あることが当然で、そこから逸脱する者は容赦なく責められる。「それでも男(女)か!」みたいに言われて、自分の自然なありようを否定される。
社会がそういう風だと、言われた方は「自分が悪い」「自分がおかしい」「自分が間違っている」と思ってしまう。大勢からNOを突き付けられる状況で、YESを貫くのは大変だ。相当タフでないとできない。
かくいう私は小学校の頃、いわゆる「男子的な遊び」に興味がなく、野球のルールなんか全然知らなかったり、座って絵を描くのが好きだったりで、「それでも男か」と男子からも女子からもバカにされることが多かった。
また(ジェンダーとは関係ないけれど)左利きなのを「おかしい」「右で書けなきゃ恥ずかしい」「ギッチョだ」と責められることも多かった。
リンク記事の方のことを考えたら「その程度か」という話だろうけれど、自分のありようを真向から否定されて、私は私でけっこう辛かった。そして私も、「自分がおかしいんだ」と考えるようになった。
そういう背景もあってのことだろうけれど、私はジェンダー・ハラスメントなどあってはならないと思う。というか、あらゆる種類のハラスメントがあってはならないと思う。
そういう「いじめ」をする輩は、他者を理解しようとする力がおそろしく欠落している。自分も一度、そういう目に遭ってみたらいいだろう。
ジェンダー問題のごく一部分だけれど、「同性愛」について、このブログでも何度か書いてきた。同性愛に関する私の意見を簡単に書くとこうなる。同性愛嗜好は、異性愛嗜好と同じく変更不能な性向であって、責めるとか問題視するとかいう種類の話ではない。同性愛を否定するなら、同様に異性愛をも否定しなければならない。異性愛そのものが罪でないように、同性愛そのものも罪でない。
ひるがえってキリスト教界を見てみると、(教派によるだろうけれど)「同性愛=罪」みたいな単純すぎる図式がいまだに蔓延しているように思う。「同性愛」と聞くだけで、彼らは「それは罪だよ」「過去の傷によるものだよ」「それは癒されなければならないな」などと平気で言う。人の気持ちをまったく考えていない。あるいは、考えが途中で止まってしまっている。
もちろん、全ての教会がそうなのではないだろうけれど。
ジェンダー問題に関心が高まり、人権擁護の声が高まる昨今、キリスト教会がそんな旧態依然のままでは、「この世に良い影響を与える」などできる訳がない。「聖書の真理に古いも新しいもない」とか反論されそうだけれど、その「聖書の真理」とやらが手前勝手な思い込みでないと、どうして証明できるだろうか。
あるがままのその人を愛せないくせに、よく「キリストの愛」とか言えるものだ。盲目にもほどがある。
「あるがままのその人を愛する」という表現は、実は内容が多岐に渡ります。また、どの定義によるかで実践や評価も分かれます。ですから、愛せないくせにと言われても、どの辺りを視野に入れておられるかが不明なままになる場合が有ります。fuminaru kさんの「あるがままのその人を愛する」はどんなことかが詳しく、もしくは明確になさると良いのではないかと思いました。
返信削除匿名様
返信削除コメントありがとうございます。
「あるがままのその人を愛する」の意味は、この文脈的には一つしかないので、これ以上説明のしようがありません。頭が悪いもので恐縮です。
逆に、「あるがままを愛する」にどんな種類の定義があって、どんな実践があって、どんな評価があって、どういう視野があるのか、浅はかな私は不思議に思うばかりです。
べつに説明していただかなくて結構ですけれど。