前回のまとめとして、某聖霊派教会が信徒に禁止する項目は次の通り。
・テレビ、ラジオ、ネット等のメディア(新聞、雑誌等も含む)
・一般の音楽
・マンガ、アニメ、キャラクターもの
・日本伝統のお祭り、しきたり、風習や慣習(七夕など)
・酒、タバコ等の嗜好品
・占い、おまじない、願掛け、げんかつぎ、お守り
・おとぎ話、昔話、民話、童話
・サンタクロース、クリスマスツリー
・その他もろもろ(マリアの神格化。他の宗教の匂いのするもの。たとえばマンダラ、ヨガ、中国結びの飾り等。三浦綾子。腕組みしてメッセージを聞くこと。etc...)
まさに「あれもダメ、これもダメ」状態である。しかもそれらはほとんどが「モノ」の禁止であって、一番問題である「それを求める人間の心」が扱われていない。だからこれらの禁止は本質を欠いている。
これはたとえば、ナイフを欲しがる子に対して「危ないから持つな」と禁止するだけで、ナイフの本質やその実際的な必要性、そして何よりそれを欲しがる子の心理を無視するようなものだ。ナイフを禁じられたその子は、単純にナイフに替わる方法を探すだろう。問題は何も解決していない。うわべを取り繕うだけで。
ではそれに対して、彼らは何だったら許可するのだろうか。順番に見てみよう。
■某聖霊派教会で推奨されるもの(これさえあれば信仰的、敬虔、霊的、現代のパウロとか言われるかも?)
・聖書通読
聖書通読そのものは、クリスチャンなら一度はすべきだと私は思う。聖書全体が何を言っているのか、大雑把にでも把握しておかないと、自分が信じる神様が何を言っているのかちゃんと知らない、なんてことになるからだ。
けれど、この教会の人たちが主張する「 聖書だけ読めば何もいらない」は行き過ぎであろう。
もちろん中には不要な書物もある。けれど、多くの一般の図書は無害というより、むしろ多くの知識を提供してくれる。また書物の集積は先人たちの知識の集積でもあり、技術的進歩にも大いに貢献している。彼らが使うスマホだってそういう進歩の産物である。
他にも聖書の時代についての解説本とか、いろいろな聖書解釈の本とか、そういうのもクリスチャンには有用だろう。だいいちこの教会の人たちはハイディ・ベイカーの本を大絶賛しているではないか。「聖書だけ読めば何もいらない」にハッキリ矛盾している。
・ワーシップソングを聴く
これはべつに悪いことではない。けれど問題は、「ワーシップソングだけで十分」という、やはり行き過ぎな主張にある。これは言外に、ワーシップ以外の音楽は有害だ、という主張を含んでいる。じゃあ街を歩いていて、一般のヒットソングが流れてきたらどうするのだろうか。耳を塞ぐのだろうか。
・「異言」で祈る
「異言」の祈りを長くする程いい、と彼らは言う。
けれどそもそも、彼らが言う「異言」がおかしい。気になる方は「異言」ラベルの記事を見ていただきたい。彼らは聖書を完全無視した「異言論」を盲目的に信仰し、そのくせ「こんな異言で祈れる自分って霊的♪」とか思っている。そしてそれを非難する私のような人間は、不信仰か罪か悪魔の手先かということになる。
また、祈りは長ければ長い程いいというのは努力の話であり、能力主義、律法主義、ついでにご利益主義でもある。頑張らなければ神に近づけない、努力しなければ神は答えてくれない、という聖書に反する教理である。
・禁欲、献金
禁欲と献金が一緒に語られるのが興味深い。つまり欲しいものは我慢して、教会に捧げなさい、ということだ。
これも、多く捧げた者は多く祝福される、という出来高制みたいな信仰になってしまっている。
また、「捧げたものが倍以上になって返ってくる」ことを期待して捧げるとしたら、それはもう投資である。献金ではない。
・断食する
断食が長ければ長い程、神様に近づけるという。でもこれもやっぱり能力主義だ。どれだけ我慢できるか、どれだけ通常の在り方を超越できるか、という点が重要になってしまっている。
なんでも、同教会の牧師が40日間断食したと聞いたことがある(その真偽は不明だ)けれど、そこまでしないと語られないとしたら、神様は究極のサディストだ。人間を苦しめて喜んでいるとしか思えない。
・徹夜で祈る
これも長く続けば続く程いいという話で、これまで同様「我慢大会」である。
また、徹夜祈祷は金曜日の夜が特に大切だそうだ。キリストがゲツセマネで祈ったのが金曜の夜だったからか。でもその発想は、映画「13日の金曜日」と同じだ。
「ある日を特別と思うのも思わないのも自由」みたいなことを聖書は言っているから、金曜が特別大切と思うのは勝手だ。けれど、金曜だから特別に語られるとは聖書に書いていない。
・聖会の定期的に参加する
これは仕事より重要だそうだ。聖会の参加は自由のはずだが、ここにはそういう自由はない。
でも聖会って、世界中で相当数行われているはずだけれど、その全部に参加しろってこと? それは物理的に不可能でしょう。
では参加すべき聖会・参加しなくていい聖会は、誰がどうやって決めるのだろうか。その根拠はどこにあるのだろうか。聖霊が語られるから? では、聖霊が参加しなくていいと語った、と言ってもいいのだろうか。
・日曜日は教会へ。その他の日も教会へ!
じゃあいつ仕事とか家事とかしたらいいですか?
→結論
以上の推奨項目をまとめるとこうなる。
理想のクリスチャンは毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。「汚れた」一般社会とは、一切接点を持たない。
そういう素敵なクリスチャン生活を送りたい方は、是非この教会へ!(もしいればの話だけれど)
ちなみにこの教会に行くと、病気でも日曜礼拝に参加するように言われる。「礼拝に来たら癒されるから、来なさい」
それで無理して行っても、癒されなかった。すると何と言われるか、わかるだろうか。
「あなたの信仰が足りないのです」
合掌。
■某聖霊派教会で推奨されるもの(これさえあれば信仰的、敬虔、霊的、現代のパウロとか言われるかも?)
・聖書通読
聖書通読そのものは、クリスチャンなら一度はすべきだと私は思う。聖書全体が何を言っているのか、大雑把にでも把握しておかないと、自分が信じる神様が何を言っているのかちゃんと知らない、なんてことになるからだ。
けれど、この教会の人たちが主張する「 聖書だけ読めば何もいらない」は行き過ぎであろう。
もちろん中には不要な書物もある。けれど、多くの一般の図書は無害というより、むしろ多くの知識を提供してくれる。また書物の集積は先人たちの知識の集積でもあり、技術的進歩にも大いに貢献している。彼らが使うスマホだってそういう進歩の産物である。
他にも聖書の時代についての解説本とか、いろいろな聖書解釈の本とか、そういうのもクリスチャンには有用だろう。だいいちこの教会の人たちはハイディ・ベイカーの本を大絶賛しているではないか。「聖書だけ読めば何もいらない」にハッキリ矛盾している。
・ワーシップソングを聴く
これはべつに悪いことではない。けれど問題は、「ワーシップソングだけで十分」という、やはり行き過ぎな主張にある。これは言外に、ワーシップ以外の音楽は有害だ、という主張を含んでいる。じゃあ街を歩いていて、一般のヒットソングが流れてきたらどうするのだろうか。耳を塞ぐのだろうか。
・「異言」で祈る
「異言」の祈りを長くする程いい、と彼らは言う。
けれどそもそも、彼らが言う「異言」がおかしい。気になる方は「異言」ラベルの記事を見ていただきたい。彼らは聖書を完全無視した「異言論」を盲目的に信仰し、そのくせ「こんな異言で祈れる自分って霊的♪」とか思っている。そしてそれを非難する私のような人間は、不信仰か罪か悪魔の手先かということになる。
また、祈りは長ければ長い程いいというのは努力の話であり、能力主義、律法主義、ついでにご利益主義でもある。頑張らなければ神に近づけない、努力しなければ神は答えてくれない、という聖書に反する教理である。
・禁欲、献金
禁欲と献金が一緒に語られるのが興味深い。つまり欲しいものは我慢して、教会に捧げなさい、ということだ。
これも、多く捧げた者は多く祝福される、という出来高制みたいな信仰になってしまっている。
また、「捧げたものが倍以上になって返ってくる」ことを期待して捧げるとしたら、それはもう投資である。献金ではない。
・断食する
断食が長ければ長い程、神様に近づけるという。でもこれもやっぱり能力主義だ。どれだけ我慢できるか、どれだけ通常の在り方を超越できるか、という点が重要になってしまっている。
なんでも、同教会の牧師が40日間断食したと聞いたことがある(その真偽は不明だ)けれど、そこまでしないと語られないとしたら、神様は究極のサディストだ。人間を苦しめて喜んでいるとしか思えない。
・徹夜で祈る
これも長く続けば続く程いいという話で、これまで同様「我慢大会」である。
また、徹夜祈祷は金曜日の夜が特に大切だそうだ。キリストがゲツセマネで祈ったのが金曜の夜だったからか。でもその発想は、映画「13日の金曜日」と同じだ。
「ある日を特別と思うのも思わないのも自由」みたいなことを聖書は言っているから、金曜が特別大切と思うのは勝手だ。けれど、金曜だから特別に語られるとは聖書に書いていない。
・聖会の定期的に参加する
これは仕事より重要だそうだ。聖会の参加は自由のはずだが、ここにはそういう自由はない。
でも聖会って、世界中で相当数行われているはずだけれど、その全部に参加しろってこと? それは物理的に不可能でしょう。
では参加すべき聖会・参加しなくていい聖会は、誰がどうやって決めるのだろうか。その根拠はどこにあるのだろうか。聖霊が語られるから? では、聖霊が参加しなくていいと語った、と言ってもいいのだろうか。
・日曜日は教会へ。その他の日も教会へ!
じゃあいつ仕事とか家事とかしたらいいですか?
→結論
以上の推奨項目をまとめるとこうなる。
理想のクリスチャンは毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。「汚れた」一般社会とは、一切接点を持たない。
そういう素敵なクリスチャン生活を送りたい方は、是非この教会へ!(もしいればの話だけれど)
ちなみにこの教会に行くと、病気でも日曜礼拝に参加するように言われる。「礼拝に来たら癒されるから、来なさい」
それで無理して行っても、癒されなかった。すると何と言われるか、わかるだろうか。
「あなたの信仰が足りないのです」
合掌。
本当にこのようなキリスト教の教会は、イエスがおっしゃった言葉の意味が、何も分かっていないのです。
返信削除イエスが神が人となられた方ですから、古い契約は全て終わり、新しい契約になったはずです。
それを律法紛いの「規則」として、聖書に明確でない事どもを、あたかも正しいかの如くに次々と打ち立てて、それを守らせて洗脳する。
完全にマインドコントロールです。
皆さん。早く辞めましょう!
彼等は、マタイ伝の6:5~8、7:3~5等を読んだことが無いのでしょう。
その他の、都合の良い箇所は何度も何度も使いますが。
やはり、御都合主義です!
これは某聖霊派の教会の話ということですが、まだましな方なのかもしれません。
返信削除もっとひどいところになると、病気になっても病院に行かずに宗教で治せという、ひどい指導が入る教会もあるのですから。
創価学会や真光と同じように医療を拒否する新興宗教系のキリスト教会が目立つのは事実です。学会でも婦人部のおばちゃんが「題目あげて治した」とか真光系の信者が「手かざしでがんが消えた」といっていますが、新興宗教系のキリスト教会のホームページをみても、ときどきそれと同じような話が「信者Aさんの証」として出ていることがあるのです。新興宗教は仏教でも神道でもキリスト教でも、どうしてみんな一様に同じことを発表するのでしょう?(ちなみにガンを消せるほどの霊験あらたかな「お宗教様」でありながら、ガンより軽微な虫歯を消したという霊験譚はなぜかありません。)
新興宗教系で禁止されているのは本音を口に出すことで、奨励されていることは人生を棒に振ることだと思います。学会で「財務して聖教新聞を一人で七部もとって朝晩勤行したが全然問題は解決しなかった。」といえば「それはお前の信心が足りないからだ!」と叱られるだけでしょうし、「学会の活動を仕事より優先させたら会社を解雇された。」となれば「この人こそ本物の闘志だ!」と英雄視されるでしょう。
やはり福音派や単立、各個教会主義は危険です。特に初心者はカトリック、日本福音ルーテル、聖公会のように儀式を重んじて、牧師が教祖様にならないところがいいです。人生とお金と人格を大切に!
返信削除|やはり福音派や単立、各個教会主義は危険です。特に初心者はカトリック、日本福音ルーテル、聖公会のように儀式を重んじて、牧師が教祖様にならないところ
削除オーソドックス(正教会)も忘れないでやって!
そうですね♪(#^.^#)
削除宗教として、淡々とこなして行く姿勢が必要と思います。
だって、一度きりの人生(だと思います!)。せいぜい楽しく愉快に、リラックスして生きて行きたいではないですか(*´∀`)
|■某聖霊派教会で推奨されるもの(これさえあれば信仰的、敬虔、霊的、現代のパウロとか言われるかも?)
返信削除|・聖書通読
| 聖書通読そのものは、クリスチャンなら一度はすべきだと私は思う。聖書全体が何を言っているのか、大雑把にでも把握しておかないと、自分が信じる神様が何を言っているのかちゃんと知らない、なんてことになるからだ。
| けれど、この教会の人たちが主張する「 聖書だけ読めば何もいらない」は行き過ぎであろう。
聖書といっても、日本聖書協会発行の新共同訳や口語訳ではダメダメ、フランシスコ会訳、正教訳、文語訳でもまだまだ、
新日本聖書刊行会翻訳いのちのことば社発行の「新改訳聖書」を用いるべし(笑)と。<ぶどうのマークが目印!藁>
新改訳聖書以外の聖書を出すと、ヤツらは、えー、リベラルの訳なのー!とか抜かすし。
彼等は、それが正道だと、それしかないと思っています。
削除聖書学的に見ても、あの翻訳は????(・o・)
なのに。
まあ、せいぜい楽しく愉快にやったら良いのです!(*^^*)
そんなひどいカルト教会は実名をさらすべき。実名知りたいです。
返信削除そんな教会の存在じたいが恥さらし。福音派が全部あぶない、というのは無知。
福音派でない教会も、あぶないのがいっぱいある。