ところで「スピリチュアル・ハラスメント」という言葉は私が勝手に書いてみただけで、要は今まで「信仰の虐待」と表現してきた事柄を指している。実際にこういう言葉があるのかな、と思って少し調べてみたら、けっこう使われている。キリスト教に限らず、いろいろな分野でそういうことが起こってるようだ。気をつけないといけない。
余談だけれど、カルト的教会から苦労して離れた人が、今度はちゃんとした教会を探そうと思いつつ、結局また同じような教会を選んでしまう、ということがある。もちろん本人は注意しているし、信仰について真剣に考えている。なのに何故だろうか。よくわからないけれど、その教会なり牧師なりの本質はちょっと関わっただけではわからない、というのはあると思う。
・「長時間祈れ」の長時間の内訳
本題。
「長時間、集中して祈らないと〇〇できない」と主張する牧師がいる。言い方はいろいろあって、「身を引き締めて祈らなければ・・・」とか、「心を尽くして祈らなければ・・・」とか、まあ聖書っぽい言葉を使う。一応牧師だから当然か。
けれど前回も書いた通り、「〇〇して下さい」と祈っていたらとても2時間持たない。そこで、「異言」が彼らの武器(?)となる。「異言が語れるようになったら、何時間でも祈れるようになりました。ハレルヤ!」とかいう訳で、意味不明の単語を2時間連発し続ける。途中で静まったり、激しくなったり、単語が変わったりと、多少の変化はあるけれど。
「異言」については過去に書いたので、興味のある方は「異言」ラベルで見てほしい。
ここで簡単に書くと、「異言」は自分が話したことのない、理解できない外国語を流暢に話す現象として聖書に登場する。それも練習なし、準備なしでいきなり話し出している(使徒2章)。だから現代の「異言」使用者が言うような、「初めは人の真似をすればいい」とか「だんだん種類が増えていく」とかいう種類のものではない。しかも聖書の異言が「完璧な外国語」であるのに対して、彼らのは全く意味不明な単語の連発である。
そういうのを「異言」と信じ込んでいる人には、使徒2章をよーく目を開いて読んでみて、先輩たちから言われたことと、聖書が単純に言っていることとの違いを、よく比較してもらいたい。誰にでもすぐわかる、明白で決定的な違いが、簡単にわかるはずだ。
で、「長時間祈れ」牧師によると、祈りにはプロセスがあるという。
彼らは祈り出すと、すぐに悪魔の攻撃を受ける、という。だから初めは「霊的に重たい」「非常に圧迫される」「頭痛など身体に攻撃を受ける」などと言う。
だから初めの方は、「悪魔との戦い」に祈りが費やされるそうだ。
しかしその重苦しいプロセスを抜けると、いわゆる「打ち破り」が起こり、一気に楽になるという。
そして「主を讃える祈り」に入る。本当に賛美し出したりもする。
続いて「主を尋ね求める祈り」に入る。「主は熱心に探す者に現れる」と彼らは言う。だから一心不乱に、主に何かを語られるまで、祈り続ける。すると「主は必ず語って下さる」とのこと。
そして最後に、「語られる」段階に入る。「主がモーセに顔と顔とを合わせて語ったように、いやそれ以上の親密さで、主が語られる」そうだ。このプロセスに入ると、彼らは恍惚とした表情で、「おお主よ」とか、「うーん」とか、気持ち悪い声を上げる(一部の牧師によると、それは「霊的エクスタシー」とか言うそうだ。勝手に感じてろ)。
とにかくそれらのプロセスを「異言」で通るので、(かけようと思えば)1時間でも2時間でも、かけられる。
そしてそういう祈りができる人が、「霊的権威者」なのだという。
けれど、かなり早い段階のところで否定するけれど、祈りは「悪魔との戦い」ではない。神への語りかけだ。「祈ると悪魔が攻撃してくる。それを打ち破って、神との会話の道を開かなければならない」というは、ストーリーとしてはわかりやすいけれど、そんなこと聖書のどこにも書いていない。だいいち「頑張って祈らなければ神と会話できない」というは、前回書いた通り、能力主義であり、律法主義だ。
彼らはよく、
「私たちの神との関係はreligion(宗教)ではない。relation(人間関係)だ」
などと言う。なかなか気の利いた言葉だと(彼らは)思っているようだ。
けれど彼らの「努力して神に近づく」行為は、まさに「宗教」だ。「人間関係」ではない。努力して祈れば、献金すれば、奉仕すれば、その結果として神と親しい関係になれる、というのが彼らの主張であって、つまり「関係」を振りかざした「宗教」でしかない。
「長時間祈れ」など、その好例であろう。
けれど前回も書いた通り、「〇〇して下さい」と祈っていたらとても2時間持たない。そこで、「異言」が彼らの武器(?)となる。「異言が語れるようになったら、何時間でも祈れるようになりました。ハレルヤ!」とかいう訳で、意味不明の単語を2時間連発し続ける。途中で静まったり、激しくなったり、単語が変わったりと、多少の変化はあるけれど。
「異言」については過去に書いたので、興味のある方は「異言」ラベルで見てほしい。
ここで簡単に書くと、「異言」は自分が話したことのない、理解できない外国語を流暢に話す現象として聖書に登場する。それも練習なし、準備なしでいきなり話し出している(使徒2章)。だから現代の「異言」使用者が言うような、「初めは人の真似をすればいい」とか「だんだん種類が増えていく」とかいう種類のものではない。しかも聖書の異言が「完璧な外国語」であるのに対して、彼らのは全く意味不明な単語の連発である。
そういうのを「異言」と信じ込んでいる人には、使徒2章をよーく目を開いて読んでみて、先輩たちから言われたことと、聖書が単純に言っていることとの違いを、よく比較してもらいたい。誰にでもすぐわかる、明白で決定的な違いが、簡単にわかるはずだ。
で、「長時間祈れ」牧師によると、祈りにはプロセスがあるという。
彼らは祈り出すと、すぐに悪魔の攻撃を受ける、という。だから初めは「霊的に重たい」「非常に圧迫される」「頭痛など身体に攻撃を受ける」などと言う。
だから初めの方は、「悪魔との戦い」に祈りが費やされるそうだ。
しかしその重苦しいプロセスを抜けると、いわゆる「打ち破り」が起こり、一気に楽になるという。
そして「主を讃える祈り」に入る。本当に賛美し出したりもする。
続いて「主を尋ね求める祈り」に入る。「主は熱心に探す者に現れる」と彼らは言う。だから一心不乱に、主に何かを語られるまで、祈り続ける。すると「主は必ず語って下さる」とのこと。
そして最後に、「語られる」段階に入る。「主がモーセに顔と顔とを合わせて語ったように、いやそれ以上の親密さで、主が語られる」そうだ。このプロセスに入ると、彼らは恍惚とした表情で、「おお主よ」とか、「うーん」とか、気持ち悪い声を上げる(一部の牧師によると、それは「霊的エクスタシー」とか言うそうだ。勝手に感じてろ)。
とにかくそれらのプロセスを「異言」で通るので、(かけようと思えば)1時間でも2時間でも、かけられる。
そしてそういう祈りができる人が、「霊的権威者」なのだという。
けれど、かなり早い段階のところで否定するけれど、祈りは「悪魔との戦い」ではない。神への語りかけだ。「祈ると悪魔が攻撃してくる。それを打ち破って、神との会話の道を開かなければならない」というは、ストーリーとしてはわかりやすいけれど、そんなこと聖書のどこにも書いていない。だいいち「頑張って祈らなければ神と会話できない」というは、前回書いた通り、能力主義であり、律法主義だ。
彼らはよく、
「私たちの神との関係はreligion(宗教)ではない。relation(人間関係)だ」
などと言う。なかなか気の利いた言葉だと(彼らは)思っているようだ。
けれど彼らの「努力して神に近づく」行為は、まさに「宗教」だ。「人間関係」ではない。努力して祈れば、献金すれば、奉仕すれば、その結果として神と親しい関係になれる、というのが彼らの主張であって、つまり「関係」を振りかざした「宗教」でしかない。
「長時間祈れ」など、その好例であろう。
|余談だけれど、カルト的教会から苦労して離れた人が、今度はちゃんとした教会を探そうと思いつつ、結局また同じような教会を選んでしまう、ということがある。もちろん本人は注意しているし、信仰について真剣に考えている。なのに何故だろうか。よくわからないけれど、その教会なり牧師なりの本質はちょっと関わっただけではわからない、というのはあると思う。
返信削除余談にツッコむのもアレですが(笑)
カルトの場合は、どこでもお初には大歓迎をします。
ラブシャワーというヤツですが。
初めての都会でとりあえず友人のほしい、
いや、なんかのとっかかりでもいい、
いやいや、初めての街はポッと出でわけがわからん、
という大学新入生とか新社会人とかが、
カルトに声かけられてご縁ができてしまうわけで、
向こうを出る前に、さんざん街の怖さや誘惑とかは聞かされてはいたけど、
いざとなったらそンなのは機能しないと。
それも受験でたっぷり勉強したはずの頭のいい生徒にかぎって、
あえなくくもの糸にひっかかると。
そンな試練も周りの力でようやく克服して、
「正統派の(藁)」教会に人生出直しのつもりで足を運んだとしても、
リベラルの場合はお初といっても距離をおいて接するのが普通で、
2,3回の出席でようやく話しかけるのがでるわけですが、
礼拝のやり方もふくめて、なンとなく教会全体に熱意がないように感じる、
という意見がありました。
カルトのラブシャワーに比べると、確かに淡白でものたりない、
ハッキリ薄情なひとたちにみえるのかもしれません。
そういうひとなら、福音派聖霊派の大半の教会の、
熱気の点でカルトとあまり大差がないような礼拝や人間関係に、
これが当たり前だと、これこそ本物に出会えたのだと、
二度目の失敗とは言いませんが、
またひっかかってしまうのです(苦笑)
や、性格的な甘えとは違います。
知恵のない人という言い方もできません。
要するに、好きなひとであると、
選ばれし者であると、
考えて接する必要があるというわけで。
生暖かい目で見守りましょう。
カルトからは足を洗っているのだから。
カルト教会から離れた人が・・・の部分を読んでいて思い出したことがあります。ちょっと気になる話でしたね。それは聖神中央教会にいた信者たちのことです。
返信削除彼らの中には棄教してしまった人もいますが、別のところを探して通っている人もいます。前者はまあいいとして、問題は後者なのです。
実は見聞するところでは、聖神中央教会の元信者たちは全員やはり新興宗教系のプロテスタントに通っているということでしたよ。正教会やカトリックはおろか、プロテスタントでも伝統宗教系に通っている人は一人もいないのだそうです。
別に新興宗教系のプロテスタントが悪いといっているわけではありません。確かに現在通っているところは金保教祖のようにセクハラや暴力や什一献金を要求はしないところだとは思いますし、そのようなところだと信じていたい気持ちはあります。
ただ聖神のようなひどいカルト教会にいっていた人は、どうも伝統宗教系で教会生活をやり直すという発想自体がないように感じられるのですが・・・。つまり聖神をやめたあとで「ならこれを機会に西方教会の本家カトリックにしばらく通って勉強してみようか。」とか、「今まで西方教会だったから、この際思い切って東方教会に行ってみるのもいいかな。」というふうに、なぜ考えが至らなかったのかと思ってしまうのですよ。
カルト教会をやめた人の話でよく聞かれるのは、新興宗教系のプロテスタントの中をジプシーしている人も珍しくはないという話ですね。なんだか新興宗教系のプロテスタントが一度入ったら二度と出られない北朝鮮の収容所の完全統制区域のような印象さえ最近では抱いてしまう・・・。
以前読んだ元カルト教会信徒のブログの記事では、カルト教会に引っかかる素地が有った自分の心の在り方を悔い改めるべきだという指摘がなされていました。「もっと良くなりたい。」とか「一番良い教派にいる自分でなければならない。」というような自己尊厳重視の心が潜んでいると引っかかりやすいという指摘を含んでいた指摘であったように記憶しています。
返信削除以前 この記事を読んで私の教会がカルト化していることにきずきました。全くこのような霊的訓練と称してこのような教えを5年間学んだ。本当に一生分見たという程、霊的学びで異言 預言なるものを学んではきたが 何一つ実になっていない。私はそこで育ったので、他の教会に移ろうと思う時、とても不安だった。他の教会が一切の霊的なことをしないのではないかと思ったからだ。
返信削除たまたま 行った教会がアメリカ人の教会で、日本語通訳のある教会で、御言葉と聖書の教えをとても研究する教会だった。今になっておもうことは 霊的なことをしてきた人程 相反するものを知る事って大切だと思う。御言葉に根付くことが どれだけ私の中の毒麦をみることか。
私はここで御言葉に根付きたいと思う。今私はここで毒麦を抜く作業をしているところだ。
私のような人に進めたい。教会難民になる前に 相反する御言葉の健全な教会を進める。
決して、退屈なんかではない。
あなたのやってきた霊的戦いと相反する教会と言う意味です。御言葉に相反するではないのであしからず。
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