ホームスクーリングに関する疑問・その2

2014年11月27日木曜日

キリスト教信仰 教育

t f B! P L
 ホームスクーリングに関する疑問。2回目。
 今回もホームスクーラーの気になる主張について考えてみたい。

・「ホームスクールに終わりはない」

 子供が18歳なり22歳なりでいわゆる「勉強」が終わると、そこで「ホームスクール」という形態も事実上終わる、というのは自然なことであろう。子供が就職したり留学したりでとにかく「自立」する訳だから、それまでのように親が家庭で子供のあれもこれも世話をする、という必要はなくなる。

 けれど、それでもホームスクールは終わった訳でなく、子供の今後の成長や信仰を導いていく必要が親にある、という意味合いで、「ホームスクールに終わりはない」のだろう。

 それを大変重要なポイントとして語るホームスクーラーがいるけれど、そんなの当たり前である。ホームスクールとか関係なく、親にとって子供はいくつになっても子供であって、40だろうが50だろうが、自分の子であることに変わりはない。そして自分の子である以上、いくら自立していても、親は子に「する」立場であって、「される」立場ではない。たとえ高齢で動けなくなっても、その気持ちは続くだろう(認知症とかで精神状態に変化があれば別だけれど)。
 事実、子供に面倒みられたくない、という親は統計的にも多いと聞く。
 だからホームスクールが特別に続くのではない。親子関係に終わりがないだけである。

・「ティーンとの関わりが難しい。だからもっと一緒に過ごさないと」

 子供は年齢が上がれば上がるほど、関わりが難しくなる。それはおそらく普遍的な現象で、多くの親が同様の苦労をしている。もちろんずっと仲の良い親子もいるけれど、全体から見たら稀だ。私の周りを見ても「子供が何を考えているかわからない」という人は多い(同様に、親のことがわからない、という子も多い)。

 そこで、じゃあもっと多くの時間を子供と過ごせばいい、という発想になるのはわかる。一緒に過ごせば相手のことがわかる、というのはある程度有効だからだ。けれどそれが有効なのは主に友人とか同僚とか、上司とか部下とかの「他人」に対してであろう。十数年を共に過ごしてきた親子関係でそれがどれだけ有効か、私は甚だ疑問である。

 みんな自分の親子関係に置き換えてみればわかると思うけれど、たとえば四六時中一緒にいても、意識して相手を理解しようとしても、すぐに限界がくるのではないだろうか。あるいはどうしても理解できないという壁にぶつかるのではないだろうか。またあるいは、そもそも長時間一緒にいるなんて耐えられないという人もいるかもしれない。
 親子揃ってカウンセリングを受けるとか、そういう特殊な状況でもない限り、親子が時間を共有することで相互理解を得るのは、難しいと私は思う。

 それでもホームスクーラーがティーンの子供と一緒に過ごそうとするのは、ある意味で、それが可能だからだ。
 
 ティーンにもなると、一般的に親と一緒に何かするのを嫌がるようになる。その傾向は特に女子より男子に強い。けれどホームスクールで育ってきた子は、親と過ごすことにあまり抵抗がない。それが彼らの人生だったからだ。
 だから親がしようと思えば、子といつまでも一緒に過ごせるだろう。けれどそれで両者の理解が進むとしたら、それはいったいどういう理解なのだろうか。

 この問題は、「子供の自立」と関係があると思う。
 親に何でも話す、親との間に葛藤がない、親に何でも頼ることができる、というのは素晴らしいことかもしれない。けれどそれは、家族以外の他者とそういう関係を持てないとか、自分だけで物事を決定できないとか、そういう自立に関する問題をも含んでいる。聖書に「男はその父母を離れ、妻と結び合い・・・」という言葉があるけれど、いわゆる親離れができていないような気もする。

 また、根本的なところに話を戻すけれど、そもそも子供のことを全て理解する必要があるのだろうか。それは本当に必要だろうか。
 子供の全てを把握しよう、理解しようという姿勢には、背後の過干渉とか過保護とかが隠れている。子供は伸び伸びと自由にやらせてやるべきで(もちろん一定のルール等は必要だと思うけれど)、縛り付けるべきでない。親から見てわからないこととか、理解できないことがあっても、何ら問題ない。むしろ自然なことだ。

 全くの放任主義とか放置、ネグレクトの類は問題だけれど、その逆の過保護もまた問題だ。そしてホームスクールは、容易に後者に流れてしまいやすい。
子供を理解しようとするのは親なら当然だけれど、子供も一人の人間であって、ズカズカとその心に入り込んでいい対象でないのを、忘れてはならない。

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