ホームスクーリングに関する疑問

2014年11月25日火曜日

キリスト教信仰 教育

t f B! P L
 日本のホームスクーリング団体の機関誌を、時々読んでいる。
 私はもともとホームスクールという教育形態も(条件つきで)アリだと思っている。けれど最近考えが変わってきたので、思うところを書いてみたい。

 アメリカはホームスクーリングが多いらしいけれど、日本でホームスクールをやるのはいろいろ大変だ。公の認可がないから公的な補助も支援もないし、教材とか場所とかも全て親が自前で準備しなければならない。毎日教えるのも親が中心になる。あるいは教えないにしても、進捗状況は監督しなければならない。それに何をいつまでに学ぶのか、カリキュラムを組み立てなければならない。

 そういう苦労があっても、教育委員会からは「不登校扱いになります」とか「義務教育違反です」とか言われる。それにどう対処するかも親次第で、上記の団体は助言はくれても、助けてはくれない。
 だから文字通り、親が全てこなさなければならない。

 また、そこまで苦労しても、子供がどう育つかはわからない。何の保障もない。
イエス様が必ず我が子を正しく導いてくれます」という信仰は結構だけれど、彼らが期待する結果になるとは限らない。こんなはずじゃなかった、という話にもなりえる。
 いずれにせよ、日本でホームスクールが本格的に始まって十数年になるから、そろそろ彼らの「結果」が見えてくる頃だろう。

 しかしそもそも、ホームスクールを選ぶこと自体が神様の導きだったのだろうか。本当に神様が導いたのだろうか。そのあたりを再考する余裕のあるホームスクーラーがいることを願って、これを書いている。
 というのは、上記の機関誌にいつも、気になる主張が見受けられるからだ。何か間違っているような気がしてならない。そういう彼らの主張について、箇条書きにしてみたい。

・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」

 ホームスクーラーはいろいろな困難に直面する。ホームスクールすること自体の苦労もあるし、それに反対する文部科学省や教育委員会、関係者らとの「ストレスフルなやり取り」もたいへんな苦労と言える。確かに「激戦」かもしれない。彼らはホームスクールを「神からの使命」と考えているから、そういう発想にもなるだろう。

 けれど、日本が戦後何十年もかけて築き上げてきた(もちろん不足もある)教育制度をまっこうから否定し、教育をイチから(というかゼロから)作り上げようとする訳だから、そりゃ「激戦」みたいな状況にもなる。また法制度に逆らうという意味でも「激戦」であろう。
 ところで、「立てられた権威に従いなさい」という聖書の言葉を彼らがどう解釈しているのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。

 そこまで苦労してホームスクールをする理由として、「我が子の教育を学校任せにしない」と彼らは言う。けれど、べつに一般の親が全てを学校任せにしている訳ではない。一般の親はあくまで「必要な勉学」を学校にお願いしているだけだし、それは義務教育という法制度に則ることでもある。

 だいいち子供が学校で保護されるのは日中だけで、それ以外の大部分は親が保護しなければならない。また子供が学校にいようがいまいが、その子の保護義務が親にあるのは変わらない。親は子供の素行をいつも気にしているだろうし、その安否をいつも気遣っているだろう。そしてたとえば、今日の夕飯どうしようとか、明日の弁当どうしようとか、積立金の支払いどうしようとか、ちゃんと宿題やったかなとか、そういうことをいつも考えている。

 だから、子供の教育を誰か(何か)に任せっきりにしている、なんて認識している親はいないと思う。ホームスクーラーでなくても、一般的に考えて、子育ては激戦だ。子育てが楽な親などいない。それに子どもが大きくなればなる程いろいろな困難が生じるし、経済的にも大変になる。そこにホームスクールかどうかの差はない。

 子育てにおいて「激戦」とかいう言葉を使うのはいいけれど、それがホームスクールだからとか、「主の教育」だからとか、そういうせいで激戦なのではない。
 強いて言うなら、ホームスクールには、義務教育という法制度に逆らうという「激戦」がある。しかその激戦が聖書的なのかどうか、神様の導きなのかどうか、もう一度考えるべきだと私は思う。

 もう少し書きたいけれど、長くなるので続きは次回に。

QooQ