私はもともとホームスクールという教育形態も(条件つきで)アリだと思っている。けれど最近考えが変わってきたので、思うところを書いてみたい。
アメリカはホームスクーリングが多いらしいけれど、日本でホームスクールをやるのはいろいろ大変だ。公の認可がないから公的な補助も支援もないし、教材とか場所とかも全て親が自前で準備しなければならない。毎日教えるのも親が中心になる。あるいは教えないにしても、進捗状況は監督しなければならない。それに何をいつまでに学ぶのか、カリキュラムを組み立てなければならない。
そういう苦労があっても、教育委員会からは「不登校扱いになります」とか「義務教育違反です」とか言われる。それにどう対処するかも親次第で、上記の団体は助言はくれても、助けてはくれない。
だから文字通り、親が全てこなさなければならない。
また、そこまで苦労しても、子供がどう育つかはわからない。何の保障もない。
「イエス様が必ず我が子を正しく導いてくれます」という信仰は結構だけれど、彼らが期待する結果になるとは限らない。こんなはずじゃなかった、という話にもなりえる。
アメリカはホームスクーリングが多いらしいけれど、日本でホームスクールをやるのはいろいろ大変だ。公の認可がないから公的な補助も支援もないし、教材とか場所とかも全て親が自前で準備しなければならない。毎日教えるのも親が中心になる。あるいは教えないにしても、進捗状況は監督しなければならない。それに何をいつまでに学ぶのか、カリキュラムを組み立てなければならない。
そういう苦労があっても、教育委員会からは「不登校扱いになります」とか「義務教育違反です」とか言われる。それにどう対処するかも親次第で、上記の団体は助言はくれても、助けてはくれない。
だから文字通り、親が全てこなさなければならない。
また、そこまで苦労しても、子供がどう育つかはわからない。何の保障もない。
「イエス様が必ず我が子を正しく導いてくれます」という信仰は結構だけれど、彼らが期待する結果になるとは限らない。こんなはずじゃなかった、という話にもなりえる。
いずれにせよ、日本でホームスクールが本格的に始まって十数年になるから、そろそろ彼らの「結果」が見えてくる頃だろう。
しかしそもそも、ホームスクールを選ぶこと自体が神様の導きだったのだろうか。本当に神様が導いたのだろうか。そのあたりを再考する余裕のあるホームスクーラーがいることを願って、これを書いている。
というのは、上記の機関誌にいつも、気になる主張が見受けられるからだ。何か間違っているような気がしてならない。そういう彼らの主張について、箇条書きにしてみたい。
・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」
しかしそもそも、ホームスクールを選ぶこと自体が神様の導きだったのだろうか。本当に神様が導いたのだろうか。そのあたりを再考する余裕のあるホームスクーラーがいることを願って、これを書いている。
というのは、上記の機関誌にいつも、気になる主張が見受けられるからだ。何か間違っているような気がしてならない。そういう彼らの主張について、箇条書きにしてみたい。
・「ホームスクールは激戦地ですから・・・」
ホームスクーラーはいろいろな困難に直面する。ホームスクールすること自体の苦労もあるし、それに反対する文部科学省や教育委員会、関係者らとの「ストレスフルなやり取り」もたいへんな苦労と言える。確かに「激戦」かもしれない。彼らはホームスクールを「神からの使命」と考えているから、そういう発想にもなるだろう。
けれど、日本が戦後何十年もかけて築き上げてきた(もちろん不足もある)教育制度をまっこうから否定し、教育をイチから(というかゼロから)作り上げようとする訳だから、そりゃ「激戦」みたいな状況にもなる。また法制度に逆らうという意味でも「激戦」であろう。
ところで、「立てられた権威に従いなさい」という聖書の言葉を彼らがどう解釈しているのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。
そこまで苦労してホームスクールをする理由として、「我が子の教育を学校任せにしない」と彼らは言う。けれど、べつに一般の親が全てを学校任せにしている訳ではない。一般の親はあくまで「必要な勉学」を学校にお願いしているだけだし、それは義務教育という法制度に則ることでもある。
だいいち子供が学校で保護されるのは日中だけで、それ以外の大部分は親が保護しなければならない。また子供が学校にいようがいまいが、その子の保護義務が親にあるのは変わらない。親は子供の素行をいつも気にしているだろうし、その安否をいつも気遣っているだろう。そしてたとえば、今日の夕飯どうしようとか、明日の弁当どうしようとか、積立金の支払いどうしようとか、ちゃんと宿題やったかなとか、そういうことをいつも考えている。
だから、子供の教育を誰か(何か)に任せっきりにしている、なんて認識している親はいないと思う。ホームスクーラーでなくても、一般的に考えて、子育ては激戦だ。子育てが楽な親などいない。それに子どもが大きくなればなる程いろいろな困難が生じるし、経済的にも大変になる。そこにホームスクールかどうかの差はない。
子育てにおいて「激戦」とかいう言葉を使うのはいいけれど、それがホームスクールだからとか、「主の教育」だからとか、そういうせいで激戦なのではない。
強いて言うなら、ホームスクールには、義務教育という法制度に逆らうという「激戦」がある。しかその激戦が聖書的なのかどうか、神様の導きなのかどうか、もう一度考えるべきだと私は思う。
もう少し書きたいけれど、長くなるので続きは次回に。
|ところで、「立てられた権威に従いなさい」という聖書の言葉を彼らがどう解釈しているのか、ぜひとも聞いてみたいものだ。|
返信削除この聖書箇所は、はっきり不正を為す場合に適用される内容ではなかったでしょうか。だから、パウロはその後に悪事を為すならば恐れなければならないと言い、また為政者は無駄に剣を帯びているのではないと言っているのです。
具体的にはパウロは義務を果たすことを挙げています。そしてその内容はすなわち納税であるとはっきり述べています。確かに脱税は現代でも悪事ですし、剣にはよりませんが罰せられる内容になっています。
ホームスクールはそういう「悪事」の類としてしまうにはやや性格を異にしたものと私は思います。私自信は日本でホームスクールというのは、余程資質の有る保護者でなければ向いていないと思います。