2014年4月30日水曜日

運命によって欠点を直される幸い(与沢翼氏の「ご報告」を読んで)

 与沢翼氏が、自身のブログに掲載した「ご報告」が、主にネットで話題になっている。私も読んでみた。
 本人が公式に言うのだから事実だと思うけれど、どうやら事業の経営に失敗してしまったようだ。それを「反省」しての、今回の発表に至ったらしい。
 
 与沢氏の顔と名前は知っていたけれど、どんな人で、どんな事業をしているのか、私は全然知らない。秒速で何億稼ぐ、みたいな本を出しているのは電車の宙吊り広告で見て知っていたけれど、まったく興味がなかった。だから今回の件に直接、私が言及することは何もない。
 
 ただ私が読んで感銘を受けたのは、与沢氏が「ご報告」の中で引用している、ラ・ロシュフコーの言葉だ。
 
運命は理性の力では直せない数々の欠点を改めさせる」(ラ・ロシュフコー「箴言集」より)
 
 頑として直らない自分の性格的欠点は、人生の中で否応なく起こる不測の、絶体絶命の、悲惨な、過酷な出来事を通してでしか改められない。そういう意味であろう。
 与沢氏にとって今回の経営破綻は、そのどうにも抗えない「運命」となったようだ(その経営破綻が偶然だったとか、運が悪かったからだとかいう意味ではない)。なぜなら同記事の中で、
 
「もはや物や金、見栄、プライドに対する執着を完全に消失しています。
 ロールスロイスを売った時、自分の中で、これまで絶対に正しいと考えていた価値観が雪崩のように崩壊していきました。」
 
 と書いているからだ。今回の件が起きなければ、自身の中のいわゆる物欲は破壊できなかった、という意味だと思う。そしてそれは、「不幸中の幸いなのかもしれません」と本人が言っている通り、決して悪いことではなかったのだろう。
 
 このことは真理を含んでいるように思う。ダビデも詩篇の中で言っている。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119編71節・新改訳)
 私自身、教会(というより牧師)を通して、嬉しからぬ事態に遭遇したことがある。それまでの人生とか信仰の在り方とかが、全て否定されたような経験だった。だから与沢氏の言わんとすることが、何となくわかるつもりでいる。
 そしてその経験は、与沢氏やダビデ王と同様、私にとっても決して悪いことではなかった。
 
 この「運命」に遭遇してもなお、その欠点を改められないとしたら、それこそが真の不幸なのではないだろうか。反省できること、謝れること、自分の間違いを認めて改められることは、良いことだ。とてつもなく良いことだ。そしてそれは人間の素晴らしさの一つだと私は思う。
 
 

2014年4月29日火曜日

教会の「接待」について思うこと・牧師優先篇

 前回は牧師の厚待遇について書いたが、その続き。

 教会に呼ぶゲストを、「神の人」ということで厚待遇する牧師がいる。それは教会にも信徒にも過重な負担を強いるのでなければ、問題ないかもしれない。
 しかしそういう接待が当たり前になってくると、今度は「自分だって神の働き人なのだから、良い待遇を受けるべきだ」と考える牧師が現れるようになる。そして信徒らに、自分をよく接待するよう、明に暗に要求しだすことがある。

 たとえば牧師の住まいの家賃を、教会会計から出す教会がある。教会会計というのは、ほとんどが信徒の献金である。それを使って、ずいぶん立派なところに住む牧師がいる。「来客があるから、みずぼらしいところには住めない」とかいう理由でだ。あるいは車。信徒を訪問することが多いからと、教会に車を買わせる。維持費も払わせる。訪問なら安い中古車でもいいはずだけれど、ずいぶんな高級車を選ぶ。いわく、「世界レベルの神の器を送迎することだってあるのだから、みっともない車には乗れない」

 良いところに住むなとか、良い車に乗るなという話ではない。けれど、それは神の為というより、単に見栄を張っているだけだろう。そこには、どれだけ神に仕えているか、どれだけ神と親しいかを、世俗の価値観に変換しようとする考え方があるからだ。その証拠に、そういう牧師に限って、「自分も若い頃は六畳一間にオンボロ自転車で苦労したものだ」などと苦労自慢し、暮らし向きのレベルを牧師のレベルと混同している。しかしオンボロ自転車で信徒を訪問するから牧師として未熟だとか、まだまだ信仰が足りないとか、そんなことはぜんぜん関係ない。

 あるいはそういう金銭面の話でなくても、自分だけを特別扱いするよう求める牧師がいる。その部屋で一番良いソファに座るのは自分で、一番最初に給仕されるのも自分。室温や調光を決めるのも、休憩のタイミングを決めるのも自分、自分が優先、自分が一番でなければならない。ある時、超教派のミーティングであるにもかかわらず、「この部屋ずいぶん暑いな。室温はメッセージしてる私に合わせろよ」ときつく命令している牧師がいて、実に印象的だった。

 そういう態度は、「普段から牧師として労しているのだからこれくら当たり前だ」みたいな発想から来るのかもしれない。その心境は人間なら当然と言える。自分はこれだけしたのだから、これくら報われて当然だ、という心境だ。しかし聖書はそれを、律法主義と言っている。

 それに仮に、どれだけ労したかで報われ方が変わるとしたら、普段から牧師の指示に文句も言わず従っている信徒たちが、もっとずっと優遇されるべきだ。しかし牧師は言う。「私たちの報いは天にある」
 その言葉、そっくりそのままお返しする。

2014年4月28日月曜日

教会の「接待」について思うこと・牧師の「厚待遇」篇

 前回は教会がゲストを「接待」することについて書いた
 わざわざ来てくれたゲストに対しては感謝を表すべきで、お金をかけるにしてもかけないにしても、その状況にふさわしいやり方で「おもてなし」をするのは礼儀に見合っている。もてなされる側もそれを感謝して受ければいい。ただ、もてなされる側が接待を要求するのはおかしい、というようなことを書いた。

 今度はもう少し突っ込んで、牧師を厚待遇することについて書きたい。

 最近の流行かどうか知らないけれど、ゲストとして呼んだ牧師や宣教師を「神の人」と呼んで、やたら厚待遇する傾向が一部にみられる。空港までわざわざレンタルした高級車で出迎えたり、高級ホテルを取ったり、高級料亭で食事させたり、気の利く信徒を世話役として24時間張り付かせたり、とにかく至れり尽くせりだ。どこの国賓かと思うほどの待遇である。

 そういうことを指示する牧師は、「神の人は最大級に尊ばれなければならない」ということで、いわゆる最高級のおもてなしを(信徒たちを使って)計画する。「神様は最高の方なのだから、その神の働き人には最高のものを用意しなければならない、粗相があってはならない」という訳だ。

 前回も書いたように、来てくれる人を感謝してもてなすのは、人として当然のことだ。極めて常識的である。だからゲストの牧師や宣教師を殊更に厚待遇するのも、決して悪いことではない。しかしその接待の裏で、多くの信徒が時間やお金や労力といった犠牲を強いられ、しかもそれを断れないという事態があるとしたら、その接待は牧師の自己実現でしかない。
 前回は「接待を要求する輩」について書いたけれど、このタイプは、「接待を見せつける輩」だ。自分にはこんな接待ができる、こんな力がある、こんな経済力がある、ということを顕示したいだけだ。そこが規模も献金額も小さい教会であるなら、なお悲惨なことになる。

 確かに神様は最高のお方である。だから最高のおもてなしをしたい、というのは一見理にかなっている。しかしその「最高」というのが、高級車や高級ホテルや高級料亭を意味するのだとしたら、その神様はずいぶん世俗的だ。「最高」というのはもっと別のところにあるのではないだろうか。そしてそれは物でなく、心にあるのではないだろうか。
「心があるから最高のおもてなしをするのだ」という反論があるかもしれない。けれど、それは教会の身の丈に合わない接待を、信徒らに強要する理由には全然ならない

2014年4月27日日曜日

教会の「接待」について思うこと

 教会がゲストを呼ぶ時、当然ながら「接待」という行為が発生する。ゲストとの事前の連絡調整とか、当日の送迎とか、控室のセッティングとか、奉仕後の歓談とか会食とかが、その具体的な内容だろう。

 そういう「おもてなし」は、教会でなくても一般的に、似たような場面で同じように行われている。企業間の接待というと何となく悪いイメージがあるけれど、べつに企業でなくても、町内のイベントで講師を呼ぶとか、ダンスサークルが有名なダンサーを呼ぶとか、献血ルームが献血者を呼びこむとか、そういういろいろな場面で、いろいろな種類の「おもてなし」が存在している。

 教会でゲストを呼ぶ場合、そのゲストの労をねぎらい、気持ちよく奉仕してもらおうという観点からすれば、接待は当然の礼儀でもあると思う。最初から報酬がどうとかいう細かい契約があるなら話は別だろうけれど、人と人とのつながりで来るのであれば、やはりそこには感謝の気持ちがなければならない。そしてそういう気持ちがあるなら、「よく来てくださいました」とかいうセリフも出てくるだろうし、お茶の一杯も出したくなるだろう。それらも立派な「おもてなし」だ。

 その接待にどこまでお金をかけるかは、それぞれ事情がある。まったくお金をかけないということもあるだろう。けれど、大事なのはお金でなく真心であって、ふさわしいやり方というものがある。お金をかけるかどうかは二の次であろう。どうやってもてなすべきか、事前に熟考することも、ここでいう真心だと私は思う(そもそも接待などしないという方針の教会があるなら、それはそれでいいと思う)。

 と、いうのが「もてなす側」の話で(考えると当たり前の話である)、今度は「もてなされる側」の話。

 もてなされる側は、単純に感謝してもてなされればいいと思う。感謝の気持ちには、感謝をもって応えればいい。そして最善のパフォーマンスを発揮するよう、努力するだけではないだろうか。

 しかし残念ながら、そういう感謝の気持ちを利用する輩もいる。接待を感謝して受けるのでなく、逆に接待を要求する輩である。食事はこことか、ホテルはこことか、エスコート役は女性にしろとか、中には露骨で酷いものもある。その態度が聖書に照らし合わせてどうかは言うまでもない。というか、一般常識に照らし合わせてみても問題は小さくないだろう。

追記)
 ゲストが「謝礼」という形で現金を受け取ることもあると思うけれど、これは「気持ち」でなく「収入」として申告するのが本来ではないかと私は思う。

2014年4月25日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第27話

 マジカ牧師の聖会の帰り道、キマジメくんはまだ感動に打ち震えていた。

 日曜の夜の京浜東北線上りは混雑していて、それが逆に良かった。キマジメくんが時折肩を震わせ、顔を両手で覆っても、誰も気にしないからだ。
「恐れないで、進みなさい」そのマジカ先生の言葉を思い出すたび、胸が熱くなる。これはもう進むしかない。キマジメくんにはもはや、それ以外の道は考えられなかった。さっそく溝田牧師にこの奇跡について報告しなければ。そう思うと、電車の中なのに居ても立ってもいられなくなった。

 駅を出ると、まっすぐ教会に向かった。溝田牧師はもう帰っているだろうか。会場ではリッチ兄弟と一緒に行動していたはずだけれど、閉会後の混雑に紛れて、見失ったままだった。
 何としてもこの感動を、牧師に伝えたい。そして喜んでもらいたい。その一心だった。
 教会の前には、一台の高級車が停まっていた。見覚えのある形と色だ。おそらくリッチ兄弟の車だろうとキマジメくんは想像した。であるなら、牧師は教会か、この近くにいるはずだ。
 案の定、車に近づくと、運転席の窓が開いて、リッチ兄弟が顔を出した。「やあ、キマジメくん。今帰ったのかい」
 キマジメくんがハイと返事すると、リッチ兄弟は帰り道が大渋滞だったことや、朝からどういうふうに溝田牧師を接待したかとか、どこで食事したとか、個人的な悩みがありつつ今回の集会に参加してどんな恵みがあったとか、そういう大変そうな何やかやを話し出した。キマジメくんは時々相槌を打ち、「それは大変ですね」とねぎらいつつ、その話が終わるか、溝田牧師が来るのを待った。が、牧師はなかなか現れなかった。
 そんなリッチ兄弟の話に、一つ気になるものがあった。リッチ兄弟は急に小声になって言った。「いやぁ実はね、この車、溝田先生に乗ってもらおうと思って、私が買ったんだよ。ほら、先生は尊い神の人だろう? みずぼらしい車なんかに乗ったら、それこそ教会の名折れだからね。それに、祈りの中で、神様に語られちゃったんだよ、この車を買いなさい、そして牧師に仕えなさいってね。いやぁ、神様に語られたら、断れないからね! 神様に、本気ですかって何度も聞いたんだよ、そしたら、いいから買いなさい、って神様が言うんだよねぇ。参ったなぁ、って思いながらね、うん、でもそれで、この私が、先生のため、ひいては神様のためにね、一肌脱いだって訳さ。あ、この話、あんまり人には言わないでくれよ、変なウワサがたったら、つまらないからね」
 そしてリッチ兄弟は微笑み、「こうやって神様に仕えられるのは、本当、恵みだね」とその内緒話を締めくくった。
「神の人」と言われると、確かにそうだとキマジメくんには思えた。溝田牧師はいつも神様の言葉を聞いているし、語っている。そういう神の器は、やはり尊敬されるべきだし、高待遇を受けるべきだと思える。いつも神様のために骨折っているのだから、地上のあれこれに、悩まされるべきでないのだろう。
 そう考えると、リッチ兄弟のように経済的に牧師を支えることで、神様に仕えるという方法もありなのだと思えた。
 では、自分は自分にできる方法で神様に仕えないと。
 リッチ兄弟の話が続く中、キマジメくんはそう決意を新たにした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年4月23日水曜日

「子どもの信仰を守る」に隠れた信仰の強要

 前回は、「子どもを悪から守る」ために情報統制的な教育に走るクリスチャンについて書いた。今回は、その行動の背景にある「子どもの信仰を守る」という教育スタンスについて書きたい。
 
子どもの信仰を守りたい」という親の気持ちそのものは、よく理解できる。子どもが信仰を失って神様を否定するようになったり、教会に行かなくなったりするのは、信仰熱心な親であれば耐えがたいことだと思う。けれど、そこには親のエゴが少なからず含まれているような気がする。
 
 熱心なクリスチャンの子どもは、まだ分別のつかない幼い頃から、神様とかイエス様とかについて、(ある意味一方的に)親から教え込まれている。もちろん本人たちに選択の余地はない。物心つく前から、「神様はいる」という前提の下で暮らすことになる(それはそれで幸せなことかもしれないけれど)。
 しかしこれは、言葉はとても悪いけれど、生まれつきの洗脳状態みたいなものだ(あくまでキリスト教信仰の是非の問題ではない)。言い換えるなら、地上で最も信頼する自分の親が信じているのだから、真実に違いない、という理由で神様を信じる、ということだ。そういう意味で、子どもは否応なく信仰を持たされると言える。そして特に幼いうちは、それを否定しようなどと思わない。疑うという発想さえない。親はそれを見て、「この子が自ら信仰を持ってくれた」と思うのだろうけれど、それはちょっと違うだろう。
 
 そういう状態の子どもの「信仰を守る」というのには、いつまでも(親に対して)従順な子どもでいてほしい、という親の願いが含まれているように思う。しかしそうだとしたら、それは子どもを思い通りにコントロールし、自主性や選択の自由を奪うことになる。そして事実上、信仰を強要することになる。
 
 もちろん、聖書は「これ(律法)をあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記6章7節・新改訳)と言っているから、子どもに聖書信仰について教えるのは、クリスチャンのなすべきことだと思う。しかしだからと言って、「この子も立派なクリスチャンにならなければダメだ」と信仰を押し付けるのは違う。
 
 ある程度成長した子どもが、「信仰」に疑問を抱き、あるいは反発し、「神様なんていない」とか言い出した時、クリスチャンの親はどう対応するだろうか。
「信仰の継承に失敗した」と悔い改めるだろうか。
「この子は悪魔の攻撃を受けている」と憤って祈るだろうか。
「いつか必ず神様のもとへ帰ってくる、あの放蕩息子のように」と、子どもを勝手に放蕩息子に仕立てあげるだろうか。
 私はむしろ、それは喜んでいいことではないかと思う。何故ならその反発は、子どもが自ら考え、葛藤し、いろいろ模索しはじめた証拠だと思うからだ。もちろん子どもに反抗されたらショックだったり悲しかったり、頭に来たりするけれど、子どもがいつまでも従順を装い、本音を隠したまま成長していくよりは、ずっと良いことではないかと私は思う。

2014年4月22日火曜日

情報統制的教育の矛盾

「子どもをから守る」というのは親として当然だろう。子どもが悲惨な事件・事故に巻き込まれるのはいつの時代も少なくない。子どもに少しでも良い未来を歩ませたいと願うのは、いつの時代のどの親にも共通の心情だと思う。

 しかしこの「子どもをから守る」という台詞を一部のクリスチャンが口にすると、若干事情が異なってくる。もちろんそこには防犯対策的な、一般的な意味合いも含まれるだろうけれど、別の意味も含まれてくる。子どもの信仰を守る、というような意味だ。

 子どもの信仰を守る、という発想そのものに違和感があるけれど、それで一部の親が取る手法は、子どもを学校に行かせないとか、テレビや映画や書籍やネットを規制するとか、交友関係を限定するとか、そういう情報統制的なことが基本となる。つまり俗世間の諸々の悪から自分の子どもを遠ざけ、キリスト教信仰だけを教え込むことで、子どもの信仰を守ろう、ということだ。

 そういう行動になる背景には、ヨハネの福音書10章前半の「羊の囲い」のたとえも影響しているように思う。この囲いの中の羊はクリスチャンで、牧者はキリスト、囲いを乗り越えて入ってくる強盗は悪魔。そして牧者は羊を守るため、命をも捨てる、という話だ。この「囲い」というイメージから、「子どもを囲って守る」という発想が生まれているようにも思う。しかしこれは拡大解釈であろう。

 この情報統制的な教育(?)の基本は、子どもを「悪」から遠ざけることにある。「悪」に触れさせず、知らせず、信仰だけを教えることで、子どもを純粋無垢に育てる、ということだ。もちろん明らかに有害な情報に、あえて触れさせる必要はない。しかし信仰以外のことを知らせなければ大丈夫だ、純粋に保てる、というのは、自分の子どもだけに性善説を適用しているように思える。子どものうちにある悪を認めたくない心情は理解できるけれど、それで子どもが良い人間になり、立派な信仰者になると考えるのは、いささか短絡的ではないか。

 それに、一般社会を完全なる悪とするのは、行き過ぎだ。世間一般が悪魔の支配下にあり、自分の家庭だけは清く汚れがない、とするのは傲慢でしかない。もしそれが事実なら、神様は全能でなく、まったく悪魔に勝てないということになるからだ。すると、自分の家庭は清い、というのも成立しない。

 私たちはこの世界の中で生きているのであって、そこから分離することはできない。なのにそこから隔絶するように子どもを育てるのは、かえって矛盾した、残酷なことではないかと私は思う。

2014年4月20日日曜日

「もっと欲しい」から捧げる献金、神の為に捧げる献金

「献金」について3回目。

 現代社会は貨幣に完全に依存しているから、私たちが捧げる「献金」の重みは、聖書時代のそれに比べて重い、というようなことを前回書いた。だから私たちが「有り金の全部を捧げる」と言ったら、それは文字通り、私たちの所有している全部を捧げるということになる。言うなれば「捨て身の献金」だ。
 そういう究極的な、極端な、行き過ぎた信仰の在り方は、特にいわゆる「カルト化教会」に多く見られる。それは一見、信仰的・聖書的だけれど、実は聖書に反している。結果的に人を破滅に追いやるからだ。

 そういう教会が主張するのは、「多く捧げた者は多く受ける」という聖書の原則だ。この原則は聖書にいろいろな形でたくさん書かれているから引用しやすい。確かにそれは真理であると思う。しかしそれは金銭だけに限ったことではない。人に対する親切や善行にも当てはまる。あるいは悪事・悪行にも(ネガティブな意味で)当てはまる。

 それに「多く捧げたから多く与えられるはずだ」という動機で、本当に貯金を全額献金する人がいるだろうか。もし仮にいるとして、「もっと多くほしいから」という動機で献金するのは、本当に信仰的なのだろうか。「確証のないことを信じて実行する」という点では素晴らしい「信仰」なのだろうけれど、それはキリスト教の信仰とは言えない気がする。なぜなら「愛がなければ意味がない」(第一コリント13章)と聖書が言っているからだ。そしてそこにあるのは愛ではない。「もっとお金がほしいから先行投資する」というビジネス的マインドでしかない

「聖書の原則を利用して何が悪い、祝福(お金)を求めて何が悪い」と反論されるかもしれない。ではこれについてどう考えるだろうか。私たちの主は、何の為に十字架にかかったのか
 キリストは、よみがえって栄光の座につき、すべての名にまさる名を与えられるために、十字架にかかったのだろうか。もしそうだとしたら、キリストは、「自分が一番になりたいから、汚い人間どものために死んでやるか、仕方ねえ」みたいに考えていたことになる。つまり、自分が得たいもののために、仕方なく犠牲を払った、ということだ。

 しかし私が信じているのは、人類(私)を愛するが故、そして救いたいが為、その全て(私)の罪の罰を代わりに引き受けてくれたキリストだ。その姿にこそ愛があるのではないだろうか。

 であるなら、私たちも、捧げた結果を期待するのでなく、私を愛してくれたキリストを私も愛したい、何かしたい、という動機で捧げるべきではないだろうか。キリストが犠牲を払ったのと同じ心で、幾ばくかの犠牲を払うべきではないだろうか。

 それに、神様はお金など必要としていない。私たちの時間も労働も、全能の神様の前には無に等しい。むしろそれらを欲するのは神様でなく、「カルト化教会」のリーダーたちだ。

 最後にキリストの言葉を引用したい。
「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」(マタイの福音書9章13節・口語訳)

2014年4月19日土曜日

献金すべきか貯金すべきか、というジレンマについて思うこと

 引き続き「献金」について。

 教会生活の長い、年輩のクリスチャンの方が、「(ずっと捧げてきたので)自分の蓄えはほとんどありません。けれど主がおられますから、さほど心配していません」と話すのを聞いたことがある。大変立派な信仰者だと思った。その「蓄えはほとんどない」というのが、実際どれくらい「ない」のかわからないけれど、とにかく貯金できたはずの分を神様に捧げきた、その事実は神様に覚えられていると思う。それがクリスチャンの信仰だろう。

 しかし同時に、私は他人事ながら心配でもあった。将来のために蓄えることなく、献金に励むことは、果たしてどれほど信仰的なことなのだろうか。

 前回も取り上げたマタイの福音書6章の後半をみると、「衣食住の心配は必要ない。神様を第一とすれば、与えらえるから」となっている。
 では与えられるはずだから、私たちは現金を持たなくていいかと言うと、そんなことはない。たとえば今日、財布の中に一円もなかったら、ほとんどの人は今日か明日には何も食べられなくなる。そのうち着ることも住むこともできなくなる。
 確かに同じ箇所を見てみると、32節には、「あなたがたの父は、これらのもの(衣食住)が、ことごとくあなたがたに必要であるとご存知である(口語訳)」と書いてある。だから神様も認めている通り、私たちには幾ばくかの現金が必要だ。

 では、毎月の生活費の余った分についてはどう考えるべきだろうか。貯金に回すべきだろうか。あるいは当面必要ないお金だから、献金してしまうべきだろうか。

 こういうお金の話でよく引き合いに出されるのが、ルカの福音書21章2~4節の「貧しいやもめ」である。やもめはレプタ2枚を献金した。それを見ていたイエス・キリストが、「この人は誰よりも多く捧げた。生活費全部を捧げたから」と言った。
 前回登場した「信徒に強制的に献金させるリーダー」であれば、この箇所を引用して、「だから持っているもの全部を捧げるのは、大いなる祝福なのだ」と主張することだろう。

 しかし現代の私たちがこれに倣って、毎月の給料を全て献金することができるだろうか。現実的に不可能だろう。あるいは余剰分をすべて献金できるだろうか。今月は良くても、来月に予想外の出費があるかもしれない。そう考えると、余剰だからと言って本当に必要ないとは言えない。

 これについて考えるには、「貧しいやもめ」の時代と、私たちが暮らす現代とで、生活における貨幣の占める割合が変わっているのを考慮しなければならないと思う。新約聖書の時代はまだまだ自給自足が基本だったようだから、貨幣依存度は今ほどは高くなかっただろう。だから現金が一円もないからと言って、すぐさま食に困るということはなかったはずだ。しかし現代の私たちの貨幣依存度は、それに比べてはるかに高い。100%と言っていいかもしれない。自給自足など普通ならできないし、何でもお金で払わなければならないからだ。
 税制だった違う。私たちは穀物で納税しない。私たちは土地を持っていたら、固定資産税をお金で払わなければならない。何でもかんでもお金が必要なのだ。私たちにとって「支払い」とは「お金」のことであって、それ以外のオプション(穀物とか家畜とか物とか)はない。
 そういう私たちの「生活費全部」と、貧しいやもめの「生活費全部」は、意味が違うのではないだろうか。

 そういうことを考えてみると、「献金してきたから貯金はほとんどない」という状況について(それはそれで素晴らし信仰だと思うけれど)も、再考が必要ではないかと私は思う。
 たとえば、私たちの老後はどうなるのだろうか。年金は毎月どれくらいもらえて、その時どれくらいのお金が生活に必要なのだろうか。まったく蓄えがないままで、大丈夫なのだろうか。

 主に信頼していれば、お金のことは全て解決なのだろうか。もし心からそう信じるなら、今ある貯金も、この先発生する余剰金も、全て献金してしまうことができるはずだろう。

追記)
 結論のない話だけれど、要は貯金もできて献金もできる、というのがバランスの取れた信仰なのかもしれない。

2014年4月18日金曜日

捧げる献金、捧げさせられる献金

 クリスチャンが教会に「献金」するのは、ごく自然なことと言える。神様のために犠牲を払うという意味で、礼拝行為の一つでもある。中には熱心に多額の献金をする人もいる。もちろんそれは強制ではない(はずだ)。献金額は完全に個人の自由であるべきだし、そうでなければ「献金」とは言えない。そしてそこには、その人の信仰の在り方が、少なからず反映されている。

 しかし「献金しないと祝福を逃す」というふうに、捧げること、それも多く捧げることを強調する教会がある。そこでは多く捧げる人が信仰深いとされる。捧げないのは不信仰だ、という雰囲気がある。明言はされないけれど。

 それがひどくなると、信徒が自分の将来のために蓄えるのも憚られるようになる。教会会計が苦しかったり、教会に何かの必要があったりする時、特にその傾向が強まる。「神の教会が大変な時に捧げないのは自己中心ではないか」みたいな事実上の脅しが、説教中に公然と語られたりする。真面目で経済的に余裕のある人は(あるいは余裕がなくても)、捧げずにいられない心境になる。

 信徒に多く献金させたがる牧師やリーダーが持ち出す聖書箇所は、マタイ6章の終わりの方だ。要約すると、神様を第一としていれば衣食住の心配は無用だ、必要なものは神から与えられるから、という感じになる。しかしこれを取り上げて、「だから将来のために蓄える必要はない、主が面倒を見てくださるのを信頼すべきだ、それが信仰だ」という話に持っていかれてしまう。他にも、「受けるよりも与える方が幸いだ」とか、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしい」とか、「神と富との両方に仕えることはできない」とかいった箇所から、金銭を持つことは御心でないみたいなメッセージが強く発信される。

 けれどこれらの箇所は、金銭そのものを否定している訳ではない。貯金を禁じているのでもない。ただ、金銭を所有することより神様ご自身を求めなさい、と言っているだけだ。

 たとえば計画的な貯金は、べつに贅沢でも何でもない。かえって自分の将来についてしっかり考えている証だ。将来誰かに迷惑をかけたくないという配慮でもある。神様を信頼しないこととは、そもそも何の関係もない。
 あるいは教会会計が苦しい時、信徒の側から、皆で一致して教会を支えよう、という機運が生まれるのはあると思う。けれどリーダーの方から、捧げなければ不信仰だ、祝福がない、と信仰面の脅しをかけるのはフェアでない。そういうリーダーの方こそ、苦しい会計の原因(無茶な使い方や、ずさんな管理がないかどうか等)をしっかり考えるべきだ。

 もちろん、だから献金しなくていいという話ではない。貯金を優先しろという話でもない。献金そのものは大切だ。ただそれは自ら納得して捧げるべきであって、悪意ある誘導によって捧げさせられるものではない、という話だ。 

2014年4月17日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第26話

 舞台につながる長い行列の最後尾に、キマジメくんは立った。彼の後にも、続々と人が連なっていく。全会衆が舞台に上がるのではないかという勢いだ。舞台上は人でビッシリで、何重もの列になって、マジカ先生に祈られるのを待っている。その列の間を、アッシャーと呼ばれる奉仕者たちが忙しそうに移動している。

 これでは舞台に上がるまで相当時間がかかると思われた。が、意外に人の捌けが良かった。見ると、マジカ先生の個別の祈りは短いようだ。ほとんど頭に手を置かれるだけで終わる人もいる。祈られ終わった人はすぐさま袖に誘導され、舞台から降りていく。それと同じペースで新しい人が、舞台に上がっていく。
 キマジメくんもずんずん進んでいく。気づくともう舞台の目の前だった。

 こんな大きな舞台に上がるのも、有名な先生に祈られるのも、初めてだ。いったいどんなことになるだろうか。溝田牧師からは、この手の預言的な祈りの場合、祈り手の信仰も必要だが、祈られる側の準備も必要だと聞いている。自分の準備は大丈夫だろうか。しかしこういう場合の準備とは何なのだろうか。そういえば細かいところは聞いていない。舞台に上がるステップに足を掛けながら、どうぞお語り下さい、と心の中で祈ってみた。

 舞台に上がったとたん、誰かに腕を引っ張られた。「こっちこっち」
 アッシャーのようだった。返事をする間もなく、列の端に引かれていく。列に並ぶ人々は、手を挙げたり、ぶつぶつ祈ったり、溜息を吐いたり、眉間に皺を寄せて怖い顔をしていたりする。キマジメくんはとりあえず目を閉じてみた。その時ふと思い出した。ボイスレコーダーだ。
 預言的に祈られる時は、連続していろいろ語られるので、誰かにメモを取ってもらうとか、録音しておくとかした方がいい、と言われたことがあった。「主から語られたことを聞き漏らすのは、恵みをザルのように漏らすことだ」と溝田牧師も怖い顔で言っていた。キマジメくんはスマホのレコーダーを立ち上げて、いつでも録音できるように準備しておいた。

 その時はあっという間にやってきた。3、4人先のところにマジカ先生がやってきたので、キマジメくんは録音ボタンを押した。そして顔を上げると、突然額に手を置かれた。マジカ先生だった。熱い手だった。荒い吐息が顔にかかる。しばらくの沈黙のあと、先生が英語で何か言った。通訳者がすぐに通訳してくれた。「恐れないで進みなさい、と主は言われる」
 キマジメくんは胸が熱くなるのを感じた。主が語られた! 隣の人々は何も語られていなかったけれど、自分は語られた。それは神様の特別な憐れみであるはずだった。
 マジカ先生はその後もしばらく手を置いていた。まだ何か語られるのか。しかし、その手はキマジメくんの額からゆっくり離れていった。先生は熱い空気と一緒に、隣に移っていった。

 感極まってしゃがみこみそうだった。主からの励ましだと思った。キマジメくんはレコーダーのことを思い出して、スマホの画面を見た。停止ボタンを押した。録音時間が表示される。19秒。
 19秒?
 どこかで見た数字だった。すぐに思い当たった。ヨシュア記1章9節だ!
 キマジメくんは声を上げていた。涙がこぼれ落ちた。主はここでも確認も与えて下さった。以前から語られていた箇所を、こんな形でもう一度示して下さったのだ。これが神様からでなくて何だろう。
 キマジメくんはアッシャーに引かれて舞台を降りながらも、「主よ、主よ」と口走っていた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年4月16日水曜日

「小説・冲方春男牧師」紹介

「小説・冲方春男(うぶかたはるお)牧師」という短編小説がある。「伊那谷牧師の雑考」というブログで連載されていて、最近完結した(全10話)。「アーメン」の意味も知らず、説教は全て他人のコピペ、そんなトンデモ牧師がどうして誕生したか、書かれている。教団や神学校の都合、「大物牧師」の思惑など、事実ならとても表に出せないようなキリスト教界の裏側(?)が興味深い。ほとんどブラックジョークの域である。どこまで事実か知らないけれど。


 これが事実なら本当に勘弁してほしい事態だけれど、似たようなことは少なからず起きていると思う。たとえば、海外の神学校やその類を卒業した日本人牧師は少なくないと思う。それ自体は全然問題ない。けれど、そこでどんな勉強をしたのか、どんな単位を取得したのか(あるいはしなかったか)というような経緯については、場所が海外だけに、ほとんど、本人の言うことをアテにするしかない。実際フタを開けてみると、牧師養成としては(日本でなら)全然不十分なカリキュラムを終えただけで、「現地ではこの学びで皆牧師になっている」という理屈で、帰国後すぐ牧師になるというケースもある(それが絶対的に悪いとは思わないけれど)。
 またあるケースでは、英語を全然しゃべれない状態で英語圏の神学校に入った日本人が、いろいろ贔屓してもらってなんとか卒業まで漕ぎ着け、帰国して牧師になっている。その人は最初の一年程、自分がどんな勉強をしているのか、ほとんど把握できていなかったという。

 もちろん、学びが不十分だから牧師失格だ、とするのは短絡的だと思う。牧師になった後だって日々学習だろうし、そもそも在学中に全てを完璧に修得するなど不可能だからだ。けれど、そういう不十分さにも限度がある。この小説中の神学校みたいに、コピペ論文がノーチェックで通ったり、神学校の都合でほとんど無審査で入学できたり、というザル過ぎる状態でもし牧師が排出されるとしたら、それは度が過ぎている。
 それで一番迷惑を被るのは、そういう牧師の下で導かれる信徒たちである。

 問題は筆者が指摘する通り、教会や神学校の過度の閉鎖性、隠匿性にあると思う。問題があっても内々に片付けられ、発覚しても誰も責任を負わない。その結果量産される被害者たちは、ほとんど「やられ損」である。

 私は教団事情にも神学校事情にも明るくないので、この小説を通してそれらを垣間見ることができて興味深かった。もちろんこれはほんの一例だろうし、脚色されているだろうけど、それでも十分リアリティがあると私は思う。

追記)
 趣旨を誤解されても困るので追記しておくと、海外の神学校がどうとか言っているのではない。ここで紹介している小説が「本当にありそうだな」と私が個人的に思っただけである。

2014年4月14日月曜日

「神の御業」の乱用・ムリヤリ編

「神の御業」の乱用が起きている。前回は「決めつけ」について書いたけれど、今回は「ムリヤリ」について書きたい。

 例を挙げる。ある牧師が、某所の某施設を購入しようとしている。「そこを得るように」と神に「語られた」からだ。牧師は教会内外にその施設の必要性を熱弁し、広報し、献金を募った。いくらかの反応はあった。牧師はすでにそこに入所するつもりで、スタッフに準備を始めさせていた。
 そんな中、その牧師に、神から次の「語りかけ」があった。
「来月末までに購入し、入所しなさい」
 その語りかけの真偽はここでは問わない。とにかく牧師はそう主張し、さらに熱心に広報し、献金を募った。多くの犠牲が払われ、献金が貯まっていった。しかし翌月の中旬を過ぎても、必要額には全然達していない。期日は迫ってくる。牧師は信仰を「働かせて」、その月末にその施設で集会を開くことに決めた。月末までに絶対にそこを購入して、入所すると「信仰によって」決意していたからだ。
 さて、月末になった。結局お金は揃わなかった。牧師はその施設のオーナーと「賃貸契約」を結び、施設を借りることにした。そして急いで入所して、集会の準備をして、なんとか開催した。牧師はそこで言った。「ハレルヤ! 主の言われた通り、私たちはこの地を得ることができました!」

 これは果たして「神の御業」だろうか。

 このケースには2つの考えるべき点がある。
 1つ目は、この話に登場する「神」が、人に無理難題をふっかける横暴な存在である点だ。「私の荷は負いやすい」とイエス・キリストご自身が言っているけれど、この「神」が押し付ける荷は、なんと重いことだろうか。期日指定で、何千万円も準備しなければならないからだ。どこかからポンと与えられるなら「奇跡だ」と言えるけれど、そうでないなら自分たちで揃えなければならない。信徒全員でアルバイトするとか、連日徹夜で祈るとか、借金するとか、何人かの定期預金を解約させるとか、そういう究極的なところまで追いつめられることになる。その「神」とは、本当に聖書の言う神だろうか。人に命令だけしておいて、自分は指一本動かさない、それが天地万物を創造した神のすることだろうか

 2つ目は、その「語りかけ」に対する牧師の態度にある。神が期日指定で「その地を得なさい」と言われたのが事実だとして、結局、賃貸契約で済ますのは、神の御心に反している。「機転を利かせたのだ」と牧師は言うかもしれない。けれど前回も書いた通り、ある事柄が神の御業・御心であるかどうかは、それが寸分違わず実現されたかどうかを見ればわかる。神が言った通りになっていないなら、それは初めから神の御心ではない。別の何かだ。この施設のケースで言えば、「神の御業」が実現したかのように、ムリヤリ見せているに過ぎない。
 これも、痛々しい信仰ゴッコでしかない。

2014年4月13日日曜日

「神の御業」の乱用・決めつけ篇

「神の御業」の乱用が起きている。一部のクリスチャンだけの話だと思うけれど、何でもかんでも神の御業にしようとしている。

 ある事柄が示されている(気になっている)クリスチャンAがいるとする。その事柄が神からのものなのかどうか、Aはいまいち確信できていない。それで、「これが神様からのものなら、別の誰かからも同じ事柄を聞かせて下さい」と祈る。すると数日後、別のクリスチャンBが、その事柄について話してきた。Aは、「ハレルヤ、やっぱりこれは神様からだった」と確信する。

 後日、Aは「神様からこんなふうに確信をいただきました。だからこの事柄は間違いなく神様からのメッセージです」と自信満々で言う。けれど果たして、これは本当に神様からのものだろうか。

 ここでAに対して、「それは本当ですか」と疑念を向けるだけで、「不信仰だ」というような反応が返ってくる。しかしそれは聖書的ではない。以前にも書いたけれど、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と聖書が命じているからだ。それに、疑うことは信じる為の一つのステップでもある。そういうステップを一切否定し、「信じなければ不信仰だ」と決めつけるのは、一方的な押し付けでしかない。

 話を上記のケースに戻す。Aが祈った通り、Bが話しかけてきた。だからそれは神からのメッセージだ、というのは本当だろうか。話を単純化すると、神に願ったことが起こった、というケースについてだ。
 そこには少なくとも4つの可能性がある。1つ目は単なる偶然。2つ目は神様からのメッセージという可能性。3つ目は悪魔がそう仕向けたという可能性。4つ目はAの事情を知る誰かが気を利かせたという可能性。もちろんAが誰にも話していなければ、4つ目の可能性はない。しかしそれでも3つの可能性が残る。神からという可能性は、4分の1あるいは3分の1でしかない。それを「神からだ」と決めつけるのは、いわゆるギャンブルである。

 別の問題もある。その事柄そのものについてだ。その事柄というのが、たとえば「今年、私は大きく祝福される」みたいな曖昧な内容だとしたら、起こったかどうか、どうにも判定できない。祝福されたかどうかは、気の持ちようみたいなところがあるからだ。わずかなことに感謝できる人なら、ほんの些細なことでも「大きな祝福」だろう。逆に、仮に宝くじが高額当選したとしても、それが「大きな祝福」かどうかはわからない。
 内容が曖昧である限り、上記の3分の1の可能性の答えは、永遠に出ない。それを「神様からだ」と喜ぶのは能天気すぎる。

 逆に、その事柄が非常に具体的だったとする。たとえば何年何月何日の何時何分に、何々山が噴火して、どこそこ地域が壊滅する、という内容だったとする。それが本当に神様からのメッセージかどうかは、どうしたらわかるだろうか。たとえBが事前に全く同じ内容のことを言ったとしても、そこには依然として幾つかの可能性が残っている。偶然か、神からか、悪魔からか、あるいは人為か。
 それが間違いなく神からだったと確認できるのは、その事柄が、事前に言っていたのと寸分違わず起こったからだ。それ以外に、それが神の御業かどうかを判別する方法はない。

 もちろん自信があるなら、事前に「これは間違いなく神様からのものです」と言ったらいい。しかしその場合、その事柄は具体的でなければならない。曖昧ではいけない。起こったかどうかが間違いなく判別できる内容でなければ、「神様からのものです」と言っても何の説得力もないからだ。

 しかしそういう判別ができない内容で、かついろいろな可能性が考えられることを、「神からだ」と決めつけてしまうことがある。それは痛々しい信仰ゴッコでしかない。
 

2014年4月12日土曜日

「主の戦略」を主張して自分たちの主を否定する、本末転倒な人たち

 祈ることによって、「主からの具体的な戦略」が与えられると主張する牧師がいる。

 どんな戦略かと言うと、たとえば、ある地域でクリスチャンが増えなくて困っているとする。牧師が行って祈ってみると、その地域は過去に、何かの争いがあったように示される。それで地域の文献等を調べてみると、案の定、近隣地域との血で血を洗う戦いがあったことがわかる。そうやって多くの血を流した罪が「地の呪い」となって、現在に至るまで祝福を妨げている、ということがわかる。それでその呪いを断ち切るために祈るのだけれど、祈る場所にも指定がある。一番争いが激しかった、因縁の場所というのがあるのだ。

 と、いう具合に、主の祝福が止められている場所が祝福されるように、祈るべき内容や祈るべき場所が事細かに示される。そういうのをひっくるめて「主からの戦略」と言うらしい。「霊の戦い」と共通するところがある。そういうのに熱心な牧師の教会は、信徒総出でその手に祈りに励む。自分たちのことを、「主の特別な戦略を教えられる神の軍隊だ」と思っている。

 その手の方法論は見方によっては信仰深く、また斬新で、エキサイティングに見えるかもしれない。実際そう見える人が多いから、そういう教会も増えているのだろう。
 けれどその活動の結果を追っていくと、結局のところ、何の変化ももたらしていないことに気づく。たとえば上記の例のように「地の呪い」が判明し、「断ち切る」ことで解決したとして、それで終わりではないのだ。今度はもっと古い時代の因縁が持ち出されたり、別の問題が示されたり、江戸時代の徳川某将軍が結界を張っていたとか言い出したりする。それで新たに「断ち切り」をすることになったり、祈るべき場所を探し回ったり、そういうことが延々と繰り返されるからだ。すべてが徒労に終わるだけで(もちろん信徒らはそんなふうに思っていない)、何も得るものがない。何の御業も見られない。牧師は「一歩ずつ確実に前進している」と言うけれど、冷静に見てみると、状況が1ミリも変化していないことがわかるはずだ。

 あるいは何かが変化したと言うかもしれない。けれど、その変化が、人が集まって頑張ればできる種類のもの(注1)なのか、神様でなければ絶対にできない種類のものなのか、見てみたらいい。前者である限り、神様が働かれたと断言することはできない。

 その手の「戦略」が神様から啓示されて、何か特別な祈りをすることが、絶対にないとは言えない。しかし、神様の祝福を阻む「呪い」が何重にも張り巡らされ、それを「断ち切る」ことのできるクリスチャンが現れなければその地は永遠に祝福されない、良いことが起こらない、とするなら、イエス・キリストの十字架は完全に無効になってしまう。すると私たちの主は、完全に無駄死にしたことになる。人間が「神」という「啓示マシーン」を利用して、霊的な事柄を判別すればそれで良いからだ。

 しかしそれは、もはやキリスト教とは言わない。

(注1)
 教会活動そのものは、そもそも神様が存在しておられなければ、そしてそれを信じる人々が存在していなければ、成立しない。しかし教会活動のほとんどは、実は、人が集まって頑張ればできることばかりだ。そういう意味で、神の御業を真に見極めるのは難しいと言える(神の御業を否定するという意味ではない)。

2014年4月10日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第25話

 献金袋の配布と回収の最中に、また賛美が始まった。「主は道をつくられる」という曲で、キマジメくんもよく知っている歌だった。袋を回収しながら、何となく口ずさんだ。すると、歌の一節が強く印象に残った。

 主は道を日々つくられる
 何もないように思える時にも

 ある言葉が深く印象に残るというのは、神様によって語られた証拠だと溝田牧師から聞いたことがある。ではこれは神様からの語りかけなのだろうか。今は道が見えないところに、道がつくられるということだろうか。キマジメくんは献身について迷っていることを思い出した。今は献身のための道筋が何もないように思える。けれど、神様はそこに道をつくって下さるのだろうか。
 これはもしかしたら、財布の中身を全額献金した、その答えなのかもしれない。

 献金の時間が終わり、これで会場係としての仕事は終わったようなものだった。キマジメくんが席につくと同時に、司会者が言った。「では、いよいよ本日のゲストの先生を講壇にお呼びしましょう。なんとアフリカで千人もの死者を生き返らせた、マジカ先生です! 皆さん、盛大な拍手でお迎えしましょう!」
 割れんばかりの拍手の中、二人の男が袖から現れた。黒人と日本人だ。黒人の方がマジカ先生だろうとキマジメくんは判断した。意外と小柄で、こう言っては何だが、どこにでもいそうな中年男に見えた。日本人の方は通訳者のはずだった。
 拍手が終わるのを待ち、マジカ先生が英語で話しだした。

 先生の話は、アフリカでの死者のよみがえりに終始した。死者のよみがえりはリバイバルの始まりだという。アフリカでは死者のよみがえった地域で必ずリバイバルが起きていて、毎日何千人もの人々が救われているらしい。そして死者がよみがえる地域も増えているという。だから日本でも死者のよみがえりが必要だ、というのが、マジカ先生の結論だった。
「死者がよみがえります!」とマジカ先生は最後に繰り返した。「死者に向かって、よみがえるように命じなさい! それが日本の打ち破りにつながります! 日本は世界の国々から、リバイバルの国と呼ばれるようになるでしょう!」
 会衆は総立ちになって、口々にアーメンと言う。大歓声はやがて大きな祈りのうねりとなった。キマジメくんは圧倒され、その祈りの渦にのみこまれた。気づくと自分も、大声で祈っていた。

 祈りが静まったところで、マジカ先生がまたマイクを取った。
「今、主が、日本のリバイバルのために働く器を求めておられます。主がはっきり語られました。主はあなたを求めておられます! 主の為に働きたいと願う人は、壇上に上がりなさい!」
 とたん、壇上へとつながる長い行列ができた。人々はどんどん舞台に上がっていく。行列は次から次へとつながっていく。キマジメくんは自分も上がりたいと思った。けれど、会場係の手前、勝手に持ち場を動いていいものかどうか迷った。そのとき強く背中を叩かれた。見ると溝田牧師だった。
「キマジメくん、何してる。なぜ上がらないんだ?」
「は、あの、会場係なので…」
「君が願っていた献身のチャンスだろう!」牧師は怖い顔で怒鳴る。「今応答しないで、君、いったいいつ応答するんだ? そんなんじゃ一生献身できないぞ!」
「は、はい…」
 キマジメくんは言われるまま舞台へ向かうことになった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年4月9日水曜日

歴史に学ぶ賢者でありたいと願いながら思うこと

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」

 というのはドイツ帝国初代首相、ビスマルクの言葉だ。
 自分が失敗して学ぶより、他人の失敗から学んで同じ失敗を避けた方がいい、という意味のようだ。その意味で、この「歴史」というのは、「先の人々の失敗の数々」を意味していると思う。
 
 この言葉は私にリアルに迫ってくる。自分のキリスト教信仰の在り方について、ずいぶん長い間、勘違いしていたと思うからだ。そこには多くの反省があるし、今もどうあるべきか模索している。
 
 しかし私がそれに気づいたのは、私自身が大きく失敗したからだった。他者の失敗の歴史から学べたのではない。だから上記のビスマルクの言葉の実践が、いかに難しいものかよくわかる。もし今の私が、教会員として頑張っていた頃の私自身に会いに行けたとして、彼が私の忠告に耳を貸すとは思えない。むしろ逆上して、自分の正当性を主張するだろう。私のことを悪魔とか不信仰の輩とか思うかもしれない。
 
 ビスマルクの言葉は的を射ていると思うけれど、実行するのは容易なことではない。殊に宗教に関してそうかもしれない。基本的に、誰もが自分の行いを正しいと思っているからだ(そもそも間違っていると思うなら、自ら変えているだろう)。
 だから他人の失敗を見ても、自分とは違う、自分は関係ない、自分は大丈夫だと思ってしまうのだと思う。
 
 しかし私が経験した信仰の回り道(と私は思っている)の長さ、無駄さを思うなら、同じような境遇にある人には何としても気づいてほしいと願う。今まで書いてきた「信仰に見せかけた何か」を信仰と信じて歩んでしまうとしたら、それは自分自身にとって損失になるばかりでなく、周囲にも迷惑をかけてしまうからだ。
 
 この問題に関して一つ言えるとしたら、とかく私たちは、先人に対する敬意を欠きやすいということだ。
 信仰の先輩方がどう歩み、どう苦労し、どう難しい判断をしてきたか、私たちは知らなさすぎると思う(かくいう私も知らないのだけれど)。そして目に見える現在の状況の中でしか、生きられなくなっていると思う 。それはそれで無理もないことかもしれない。けれど、自分たちの世代が古い時代より勝っている、進んでいる、新しい、だから歴史に学ぶ必要などない、と思い込んでいるとしたら、それはひどい視野狭窄の傲慢でしかない。何の根拠もない。
 
 それは「私たちの時代になって新しい真理が開かれた」という考え方にも結び付く。これは新しい真理だから、昔の時代にはなかった、古い人々にはわからない、という論理だ。そういうことはあるかもしれないけれど、それで先人たちを軽視することになるのは違う。
 
 それに真理云々に関係なく、たとえば近年で言えば、戦前戦中を生きた日本のクリスチャンらの歩みは、今日の私たちには想像もできない苦労の連続だったはずだ。その困難を生き抜いた人々を、「信仰的にはまだまだ進んでいなかった」などと誰が言えるだろうか。少なくとも私には言えない。むしろ歴史的に見るなら、現代の私たちの方が、かつてない程ヌルい歩みをしているような気がする。

2014年4月8日火曜日

信仰に見せかけた非常識について思うこと

 信仰に見せかけた「強制」、「自慢」と書いてきた。今度は「非常識」について書きたい。つまり「信仰に見せかけた非常識」についてだ。

 ある教会は、とんでもない時間にミーティングをする。深夜0時を越えても関係ない。必要な人間は問答無用で呼び出される。よっぽどの理由がない限り、断れない(時にはよっぽどな理由があっても断れない)。
 牧師は一応、すまなそうな顔で言う。「神様はスピーディなお方だから、私たちには想像もできない速さで働かれる。私たちはそれに合わせなければならない。だから、こんな時間になってしまうんだ」
 つまり、そんな時間にミーティングを開くのは牧師のせいでなく、神様のせいということだ。

 ある教会は、大音量で礼拝をする。スピーカーから音が出ている限り、信徒は顔をくっつけて話さなければならない。近隣からクレームが入っても、牧師は「宗教行為を邪魔するなら営業妨害で訴えるぞ」と逆ギレする。
 なぜそこまで大音量にこだわるのか? 神様に全力で叫ぶためだ。激しい飢え渇きを、音量にして現しているのだ。
 つまり、大きな音でなければ、耳の遠い神様には届かないということだ。

 ある教会は(というより牧師は)、備品を購入する時、必ず値引き交渉をする。それもかなり激しい交渉だ。決して可愛らしいお願いなどではない。業者の足元をみて、脅したりすかしたり、大幅な値引きか特典を引き出すまで、しつこく食らいつく。牧師に言わせると、「尊い献金を一円も無駄にはできない」らしい。
 しかも納期をあり得ないほど短縮させる。「いついつの集会にこれが絶対必要だ。これがなければ集会の意味がない。だから絶対に間に合わせてくれ」
 神のために値引き交渉し、神のために納期を短縮させる。その是非はともかく、そういう風にたかられる業者は、神や教会に対してどんなイメージを持つだろうか。良い印象を持つことがあるだろうか。

 このような例は挙げたらキリがない。神のために仏壇を廃棄させ、葬式を欠席させ、帰郷よりも礼拝を優先させる。先日村上密先生のブログにも「洗礼が優先か、安全が優先か」という記事が出ていたけれど、まったく同じ種類の非常識だ。洗礼を強行して人を死なせるのは非常識でなくて何だろうか。

 しかしそういう牧師らは、イエス・キリストが宮にいる商売人たちを力ずくで追い出す場面(マルコ11章15~16節)を取り上げて、「このようにイエス様自身も相当過激な方だ。だからクリスチャンも、常識を凌駕する存在でなければならない」というような論理を主張する。けれど聖書全体、特に福音書を読んでみると、イエス・キリストという人物から過激さを感じるには無理がある。むしろその逆の印象を受けるはずだ。

 そういう牧師らは、「常識にとらわれない自由な発想」を良しとする。それだけなら問題ない。けれど彼らの発想は、「自由」をはるかに越えて「理不尽」だ。社会常識を大きく無視した非常識でしかない。しかもそれをイエス・キリストのせいにしようとしている。

 彼らは第一コリント13章5節を、暗記するほど読み直すべきだと私は思う。
「(愛は)礼儀に反することをしない」(新改訳)

2014年4月6日日曜日

信仰に見せかけた自慢について思うこと

 前回、「神様に命じられた」という理由で、早朝の祈祷会を強制する牧師らについて書いた。その行為は「信仰に見せかけた強制」というのがふさわしいと思う。
 今回は、それと同じような構造を持った「信仰に見せかけた自慢」について書きたい。

 毎早朝に祈るクリスチャンが、その理由として、「神様にそう命じられたから」と言うことがある。しかし彼らは上記の牧師のように、周囲にそれを強制するのではない。「神様にそう語られちゃったから、仕方ないんだよね」と困ったように言うのだ。しかし、本当に困っている訳ではない。「イヤだったし眠かったけど、神様に頼まれたから朝早く起きて祈ってみたら、逆にすっごい恵まれたんだよ」とか言う。どうも、「神様によく語られる自分」「神様に何かを頼まれる自分」「神様に祝福される自分」をアピールしたいようだ。

 もちろん、毎朝自主的に祈る時間を持つのはすごいことだと思う。相当な自己管理ができるか、あるいはのっぴきならない事情でもなければ、そうそうできるものではない。長く続けることもできない。
 けれどその結果、「神様ったら無茶なこと言うんだから」みたいな、神様に対してやってあげている感丸出しのアピールになるのは、何か大きく勘違いしていると思う。それは神様を引き下げ、自分を高くする行為だ。まるで神様が無力な方で(あるいは欠けがある方で)、人間に何かをやってもらわねばならない頼りない存在かのようだ。

 そういうのは、信仰の表明という皮を被った「リア充自慢」「苦労自慢」でしかない。よく学校や職場でも「こんなひでー目に遭ったんだよ」とか「どうしてもって頼まれて、どこそこで講演する羽目になっちゃったんだよ」とか、いかにも苦労した風に自慢話をする人がいるけれど、それと同じ類だ。

 自分の信仰を証することと、自慢することとは、案外紙一重の関係にある。「こんな苦労をした」「こんな試練に遭った」というのは確かに大変なことだったろうけれど、それで「これだけのものを得た」「こんなキャリアアップができた」という種類の結果を繰り返し強調するのは、自慢にしかならない。それは神様に栄光をお返しするのでなく、栄光を掴んだ自分自身をアピールしているだけだ。

 もし切実に悩み苦しんでいるなら、そんな風に話すことは(普通なら)できない。それに解決できたとしても、間違っても自慢話にはならない。それは本当に意味で神様への感謝になるだろうから。

 そういう信仰の証と単なる自慢とを区別する一つの方法は、その話の中心に誰がいるかを見ることだと思う。自分はこんな苦労をした、自分はこれだけのことをした、自分はこんな犠牲を払った、自分はこれだけのものを得た、という自分軸の話に終始するようなら、それは健全な信仰表明ではない。承認欲求のカタマリみたいな、未熟な人格を晒しているだけだ。

 もちろん人間は皆未熟だし、私も偉そうなことは全然言えないのだけれど、そういう見え見えの自慢話をしておいて最後に「神様感謝します」と締めくくるのがイヤらしいことと気づくかかどうかは、人格以前の問題だと思う。

2014年4月5日土曜日

信仰に見せかけた強制について思うこと

 早朝に祈る時間を持つクリスチャン、あるいは教会がある。
 朝の5時か6時から2時間くらい、賛美したり祈ったりというのが多いようだ。それを毎日、何年も続けているというケースも少なくない。非常に熱心だし、本当に頭が下がる。
 
 しかしその始めたキッカケを聞いてみると、「神様に早朝に祈るように命じられたから」と答える人がいる。どういうふうに語られたかはわからないけれど。
 私の見方がひねくれているかもしれないが、そういうのを聞くと、本当だろうかと疑ってしまう。その命令が本当だとしたら、神様が強制収容所の所長みたいな方に見えるからだ。人に強制するだけで、選択の余地を与えない。それがアダムとエバに99%の選択の自由を与えた方と、同一人物とは考えにくい。
 
 そう主張するのが牧師やリーダーである場合、信徒は神様に語られてというより、半ば強制されて、早朝に祈らされることになる。「早朝に祈るのは神様のオーダーなのだから、従わないと祝福を逃してしまう。だから辛くてもやらなければならない」という完全に破綻した論理によって。聖書的でも何でもない。けれどそういう話をけっこう聞く。
 
 一度寝坊しただけで電話で呼び出されたり、説教されたり暴力を振るわれたりする。なんで朝早くに祈るのかとか、祈った結果どうなったのかとかより、信徒がいかに牧師(教会)に従っているかしか、評価対象にならない。そういう強制された祈りに、どういう意味があるのだろうか。神様はどう思われているのだろうか。私には神様を無視した「早朝訓練会」にしか見えない。
 
 であるなら、やはり最初の「語られ方」に問題があるはずだ。
神様に早朝に祈るように命じられたから」という文脈で登場する「神様」は、聖書の示す神様だろうか。神様は人に何かを強制される方だろうか。
 
 確かに聖書を読むと、神様がある状況で、人にかなり具体的な指示を出す場面が出てくる。たとえば、コルネリオは「ヨッパに人をやって、シモンと呼ばれるペテロを招きなさい。この人は誰某の家に泊まっていて、その家は海辺にあります」(使徒10章5~6節・筆者要約)と語られる。それに従った結果、コルネリオは聖霊体験をした異邦人第一号となった。
 
 こういうような例を取り上げて、「だから神様のオーダーに従わなければならない」と上記の牧師らは言う。しかしそれは根本的に話がすり替えられている。神様は確かに指示されたけれど、何も強制されていないからだ。コルネリオには、その語りかけを無視するという選択肢もあった。そして彼が無視していたら、きっと聖書の内容は若干変わっていただろうと思う。しかしそれで、彼が祝福のチャンスを永遠に逃したということにはならない。でないと神様が愛と憐れみの方でなくなってしまう。
 
 神様が何かを力づくで人にさせようとするなら、そもそも人に自由意思など必要ない。そしてそうであるなら、神様は人間など造らず、いわゆるロボットを造ったのではないだろうか。
 しかしそういう「召使ロボット」を必要とするのは、神様でなく、上記のような牧師たちだろう。
 
 あなたにとって神様は、「従わなければ祝福してくれない方」だろうか。あるいは「従わなくても祝福しようとしてくれる方」だろうか。あなたの信仰があなたの神を形作る。私は後者の神様を信じたい。
 
追記)
「信仰に見せかけた強制」について書いたけれど、だから神様に従わなくていい、という結論ではない。何かを強制してくる牧師に従う必要はない、と私は思うけれど。
 

2014年4月3日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第24話

 唐突に始まった「悔い改めの祈り」は唐突に終わり、会衆は促されるまま着席した。非常な熱気に包まれていた。賛美礼拝は30分程だったろうか。キマジメくんは熱に浮かされたようだった。座ってみて、疲労感に気づく。司会者が何か話していたが、何一つ頭に入ってこない。周囲からも溜息みたいなものが聞こえてくる。おそらく皆自分と同じような感覚なのだろうと思った。

 しかし座って一息つく間もなく、舞台で動きがあった。派手な衣装をまとった十数人の男女が、袖から走り出てきたのだ。会場からにわかに拍手が起こる。すぐにリズミカルなBGMが始まり、男女が踊り出した。ダンサーたちだった。会場のあちこちから歓声が起こる。口笛が吹き鳴らされる。まだ悔い改めについて考えていたキマジメくんは、どうもうまく切り替えることができなかった。そんな彼の葛藤をよそに、壇上ではハワイアンの系統と思われる激しいダンスが繰り広げられた。

 そのダンサーたちが袖に戻ると同時に、また別の、今度は若干地味な衣装の男女が舞台に現れた。彼らは遠目にも若く見えた。十代後半から、二十代前半だろうか。キマジメくんと同年代だ。
 彼らのBGMは最初のダンサーたちとは正反対の、メロディアスなものだった。そしてゆっくりした動きの、荘厳な印象を受けるダンスを踊った。キマジメくんはダンスの知識が全くなく、何と表現したら良いかわからなかったけれど。
 曲が盛り上がり、クライマックスを迎えた頃(とキマジメくんは判断した)、隣の男性が手を挙げて「ハレルヤ」と呟いた。何度か鼻をすすっている。どうやら泣いているらしかった。ふと目を上げると、会場のそこここにも、手を挙げている人たちがいる。「ハレルヤ」とか「アーメン」とかいう声もする。ただダンスを眺めていたキマジメくんは、なんだか居づらくなってしまった。ああいうダンスは礼拝の心で見なければならないんだ、とキマジメくんは察した。今更遅いような気もしたけれど、手を挙げてみた。少し恥ずかしかった。

 それに続いて、さらに若い子たちが数名、舞台に現れた。皆10歳前後に見える。おそろいのTシャツを着て、恥ずかしそうに体を左右に揺すりながら、並んで立っている。その両脇に大人が一人ずついて、一人はギター、一人はタンバリンを持っている。ギターの方が合図を送り、子どもたちが歌いだした。不揃いな歌声だった。けれど歌い終えると、今までの三組の中では一番大きな拍手が起こった。子どもたちが足早に退散すると同時に司会者が登壇し、「ハレルヤ!」と大声で叫ぶ。「皆さん、彼らは日本の未来ですよ。子どもたちに、もう一度盛大な拍手を!」
 割れんばかりの拍手が起こった。

「では次に、捧げものの時間を持ちましょう」司会者は急に厳粛な面持ちになって言う。「これは主への尊い捧げものです。同時に、この大会の運営を支えるためのものでもあります」
 キマジメくんは周囲を見回した。朝のミーティングの時、献金の時は会場係が献金袋を回すようにと言われていたからだ。献金袋は何の変哲もないA4サイズの封筒で、すでに会場係の席の下に、所定の枚数が用意されている。キマジメくんは袋を手に取り、他の会場係たちがどう動くか見た。まだ、誰も動いていない。

「献金の前に、一つ、私のお証を短くさせていただきます」司会者はさらに神妙になって話し始めた。短いという割に、長い話だった。
 司会者は宣教師として、フィリピンで長く活動していたという。宣教を始めて数か月で教会が建ち、信徒の数も急激に増えていった。現地で救われた人々を献身に導き、教会のいろいろな奉仕を委ねていった。一年後にはもう一つの教会堂を建てることになった。しかしその建設費を払う時になって、ある信徒に、教会会計を持ち逃げされてしまった。必死になってお金を取り返そうとしたけれど、その信徒を見つけることはできなかった。支払の期日は数日後に迫っていた。宣教師は涙して祈った。熱心な信徒らも一緒に祈ってくれた。そして、自分たちにあるだけのものを捧げようという話になった。集まった全員で捧げた。けれど、支払額にはぜんぜん満たなかった。
 そして支払当日の朝、ポストに行って郵便物を確かめた宣教師は、そこに分厚い封筒を見つけた。中を見ると、札束が入っていた。数えてみると、支払額ぴったりの額だった。
「主に不可能はありません!」司会者は証をそう締めくくった。「主は全てを捧げる者に、必ず報いて下さるのです! もし、あなたが今日、財布の中身を全て捧げるなら、主はその幾倍をもあなたに返して下さるでしょう! ハレルヤ! もしそうでなくても、天であなたが受ける報いは、とてつもなく大きいのです! アーメン!」

 キマジメくんはすっかり感動して、自分も献金しなければと思った。他の会場係たちは立って、それぞれの担当場所に、封筒を配って回っている。キマジメくんも行かねばならなかった。彼は急いで自分の財布を取り出し、中の札束を全て取り出して封筒に入れると、立って封筒を配り始めた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年4月2日水曜日

「人の思惑たっぷりの啓示」に見られる忍耐力の欠如

「啓示」に関する問題は、とにもかくにも人間の勝手な思惑が根っこにある。こうしたい、こうであったらいいのに、という思惑が、結果的に「啓示の捏造」を生み出している。そしてそれは牧師などのリーダーだけの問題ではない。普通の信徒の思考にも同様の構造があって、私たちは日常的に、何らかの意思を加えた「啓示」を生み出しているように思う。
人間とは、本来そういうものなのかもしれないけれど。

 現代のクリスチャンである私たちが見落としやすいのは、「啓示」はすでに聖書に書かれているという点だと思う。だから預言も異言も奇跡も癒しもない、と言うつもりはないけれど、それらの必要性が、聖書が完成する以前と以後ではだいぶ様子が違うのは、考えればわかるはずだ。だからペンテコステ後の使徒たちのような、「啓示されまくり」な活動と同じようなことを現代でもしようとするのは、根本的に方向性が違っていると私は思う(そういうのに憧れる気持ちはよくわかるけれど)。

 もちろん、神様からの直接的な啓示は、今日もあると私は信じている。ただ上記のような「ニセ啓示」が多い中にあっては、よくよく注意し、疑ってかかるくらいでなければいけないと思う。でないと、騙されて痛い目に遭いかねない。

 私たち現代人は、もしかしたら忍耐力を大きく欠いているのかもしれない。神様からの完璧な啓示である聖書に徹底的に向き合うことができず、インスタントな答えを求めてしまっているのではないだろうか。何か新しいこと、面白いこと、ワクワクすること、自分が用いられることを求めるあまり、聖書の基本を無視して、「人の思惑たっぷりの啓示」に走るのではないだろうか。
ベレヤの町の人々のような、素直さと探究心が私たちには必要だと思う(使徒の働き17章11節・新改訳)。

 クリスチャンとして活躍したい、みんなを救いたい、教会を大きくしたい、という願望はよく理解できる。その願望も神様が起こしたものだと思う。けれど、そのやり方や方向性には注意が必要だ。自分の勝手な思惑が初めから入っていたり、ある時点で入ったりするからだ。そういう人たちに対して私が強調したいのは、聖書にも多く登場する「忍耐の人々」の姿だ。たとえばモーセが神様に用いられたのは、80歳になってからだった。それまでの40年間、彼は荒野でひたすら羊を飼っていた。シメオンは「死ぬまでにキリストを見る」と預言されていたけれど、そこに至るまでの生涯を、宮の(おそらく地味な)奉仕に捧げた。その他の人々は、名前さえ出てこない。ただ神を求め続けて、その生涯を終えた人々が大勢いたはずだ。マラキ書が書かれてからマタイの福音書に至るまでの400年間、神様は完全に沈黙していた(と考えられる)。その時代の人々は、いくら神に祈っても、何の啓示もなかったはずだ。

 そういうことを、「毎日毎日主の啓示に溢れている」と主張する人々は考えたことがあるだろうか。

「啓示」を求めるのは良いことだと思うけれど、まずは聖書についてよく学ぶべきだと思う(神学校や副読書はピンキリだから何とも言えないけれど)。それに啓示を求める以前に、私たちは日々の仕事や学業に、地道に取り組むべきだと思う。

 人間が啓示を求めてあれこれ捏造しだすのと、忍耐して地道に学んだり働いたりするのと、神様はどちらを願っておられるだろうか。答えは明らかだと思うけれど。

2014年4月1日火曜日

ぜんぜん特別でない「特別な啓示」について

「神様の特別な啓示を受けた」と言うクリスチャンがいる。

 何が特別に「啓示」されたかというと、集会を開くこととか、事業を始めることとか、土地を所有することとか、「終末」に向けて備えることとか、人(教会)それぞれだ。啓示のされ方もいろいろで、夢で見たとか、心に強く感じた(?)とか、神様の肉声を聞いたとか、その他諸々ある。

 神様から啓示されることは、基本的に良いことだし、しっかり心に留めるべきことだ。読んだ聖書の箇所を心に留めるのと同じだ。しかしいろいろ見たり聞いたりしていると、それが本当に神様からの特別な啓示なのか、疑わしいケースがある。
 ここで、3種類の疑わしい「特別な啓示」について考えてみたい。

・自己実現=「特別な啓示」
 これは端的に言うと、自分がしたいことを始める理由(あるいは言い訳)として、「特別な啓示」を利用するということだ。だからそもそものはじめから神様は関係していない。関係あるかのように、カモフラージュされているだけだ。
 これを牧師が使うと、教会全体が巻き込まれることになる。牧師の願望に、信徒が付き合わされるような形だ。もちろん信徒らは、純粋にそれを神様からのオーダーだと信じている。
 これを普通の信徒が使う分には、そこまで大きな影響はない。たとえば「神様に導かれたので留学に行きます」と勢いよく言い、その割に短期間で帰ってきたので理由を聞くと、「神様から帰国するように示されました」と言う。その真偽についてはさておき、周囲に迷惑をかけないという点ではまだ良い(親や家族は迷惑かもしれないけれど)。

・単純な想像=「特別な啓示」
 これは「終末」予想の「生体埋込チップ」の話でも書いたけれど、ある事象から容易に想像できる範囲のことを「特別に示された」と言うことだ。たとえば礼拝中に「天使の羽」が降ってきたとして、それがいつもの白でなく赤だったとする。「なぜ赤なのかと祈っていたら、それは十字架の血潮を表しているのだよってダディ(神様のこと)が教えてくれました」とか言う。しかしその程度なら祈り求めるまでもない。クリスチャンなら、赤色から十字架を連想するのは当たり前だからだ。それに、だから何だというのだろうか
 その他にも「夢の解き明かしができる」とか、「個人預言ができる」とか自慢気に言う人がいるけれど、事例を聞いてみるとガッカリするほど当たり前な連想しかしていない。あれならちょっと聖書の知識があれば誰にでもできる。それが神様の特別な啓示というなら、その「神様」とはずいぶんスケールの小さい存在だ。
もちろん、それが絶対に神様からの啓示ではないと言うつもりはない。しかし「特別」にしては平凡過ぎる。本当に特別な啓示であるなら、旧約聖書のダニエルに与えられたような、絶対に人間では予測不可能な内容であるべきだと私は思う(ダニエル書 4章)。でないと、神様が礼拝されるにふさわしい方とは言えない。

・単なる思い込み=「特別な啓示」
 これは以前も書いたことがあるけれど、たとえばホテルの泊まった部屋がたまたま「316」号室だったとして、「これはヨハネ3章16節が示されているという意味だ」と、勝手にこじつけることだ。何の根拠もない。そのうち、偶然の数列に足し算とか引き算とかの操作をくわえて、自分にとって都合のいい数列に変換するようになる。もはや、独りよがりの啓示の捏造でしかない。

 神様からの啓示は素晴らしいものであるはずだけれど、上記のようなケースが多いのが現実だと思う。それははっきり言って、神様を貶めることだ。しかしそんなこと考えず、自分は神様から特別な啓示を受けている、自分は熱心で真実なクリスチャンだ、と信じ込んでいるとしたら、後々痛い思いをするのではないかと私は思う。