教会の「接待」について思うこと・牧師優先篇

2014年4月29日火曜日

キリスト教信仰

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 前回は牧師の厚待遇について書いたが、その続き。

 教会に呼ぶゲストを、「神の人」ということで厚待遇する牧師がいる。それは教会にも信徒にも過重な負担を強いるのでなければ、問題ないかもしれない。
 しかしそういう接待が当たり前になってくると、今度は「自分だって神の働き人なのだから、良い待遇を受けるべきだ」と考える牧師が現れるようになる。そして信徒らに、自分をよく接待するよう、明に暗に要求しだすことがある。

 たとえば牧師の住まいの家賃を、教会会計から出す教会がある。教会会計というのは、ほとんどが信徒の献金である。それを使って、ずいぶん立派なところに住む牧師がいる。「来客があるから、みずぼらしいところには住めない」とかいう理由でだ。あるいは車。信徒を訪問することが多いからと、教会に車を買わせる。維持費も払わせる。訪問なら安い中古車でもいいはずだけれど、ずいぶんな高級車を選ぶ。いわく、「世界レベルの神の器を送迎することだってあるのだから、みっともない車には乗れない」

 良いところに住むなとか、良い車に乗るなという話ではない。けれど、それは神の為というより、単に見栄を張っているだけだろう。そこには、どれだけ神に仕えているか、どれだけ神と親しいかを、世俗の価値観に変換しようとする考え方があるからだ。その証拠に、そういう牧師に限って、「自分も若い頃は六畳一間にオンボロ自転車で苦労したものだ」などと苦労自慢し、暮らし向きのレベルを牧師のレベルと混同している。しかしオンボロ自転車で信徒を訪問するから牧師として未熟だとか、まだまだ信仰が足りないとか、そんなことはぜんぜん関係ない。

 あるいはそういう金銭面の話でなくても、自分だけを特別扱いするよう求める牧師がいる。その部屋で一番良いソファに座るのは自分で、一番最初に給仕されるのも自分。室温や調光を決めるのも、休憩のタイミングを決めるのも自分、自分が優先、自分が一番でなければならない。ある時、超教派のミーティングであるにもかかわらず、「この部屋ずいぶん暑いな。室温はメッセージしてる私に合わせろよ」ときつく命令している牧師がいて、実に印象的だった。

 そういう態度は、「普段から牧師として労しているのだからこれくら当たり前だ」みたいな発想から来るのかもしれない。その心境は人間なら当然と言える。自分はこれだけしたのだから、これくら報われて当然だ、という心境だ。しかし聖書はそれを、律法主義と言っている。

 それに仮に、どれだけ労したかで報われ方が変わるとしたら、普段から牧師の指示に文句も言わず従っている信徒たちが、もっとずっと優遇されるべきだ。しかし牧師は言う。「私たちの報いは天にある」
 その言葉、そっくりそのままお返しする。

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