信仰に見せかけた非常識について思うこと

2014年4月8日火曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
 信仰に見せかけた「強制」、「自慢」と書いてきた。今度は「非常識」について書きたい。つまり「信仰に見せかけた非常識」についてだ。

 ある教会は、とんでもない時間にミーティングをする。深夜0時を越えても関係ない。必要な人間は問答無用で呼び出される。よっぽどの理由がない限り、断れない(時にはよっぽどな理由があっても断れない)。
 牧師は一応、すまなそうな顔で言う。「神様はスピーディなお方だから、私たちには想像もできない速さで働かれる。私たちはそれに合わせなければならない。だから、こんな時間になってしまうんだ」
 つまり、そんな時間にミーティングを開くのは牧師のせいでなく、神様のせいということだ。

 ある教会は、大音量で礼拝をする。スピーカーから音が出ている限り、信徒は顔をくっつけて話さなければならない。近隣からクレームが入っても、牧師は「宗教行為を邪魔するなら営業妨害で訴えるぞ」と逆ギレする。
 なぜそこまで大音量にこだわるのか? 神様に全力で叫ぶためだ。激しい飢え渇きを、音量にして現しているのだ。
 つまり、大きな音でなければ、耳の遠い神様には届かないということだ。

 ある教会は(というより牧師は)、備品を購入する時、必ず値引き交渉をする。それもかなり激しい交渉だ。決して可愛らしいお願いなどではない。業者の足元をみて、脅したりすかしたり、大幅な値引きか特典を引き出すまで、しつこく食らいつく。牧師に言わせると、「尊い献金を一円も無駄にはできない」らしい。
 しかも納期をあり得ないほど短縮させる。「いついつの集会にこれが絶対必要だ。これがなければ集会の意味がない。だから絶対に間に合わせてくれ」
 神のために値引き交渉し、神のために納期を短縮させる。その是非はともかく、そういう風にたかられる業者は、神や教会に対してどんなイメージを持つだろうか。良い印象を持つことがあるだろうか。

 このような例は挙げたらキリがない。神のために仏壇を廃棄させ、葬式を欠席させ、帰郷よりも礼拝を優先させる。先日村上密先生のブログにも「洗礼が優先か、安全が優先か」という記事が出ていたけれど、まったく同じ種類の非常識だ。洗礼を強行して人を死なせるのは非常識でなくて何だろうか。

 しかしそういう牧師らは、イエス・キリストが宮にいる商売人たちを力ずくで追い出す場面(マルコ11章15~16節)を取り上げて、「このようにイエス様自身も相当過激な方だ。だからクリスチャンも、常識を凌駕する存在でなければならない」というような論理を主張する。けれど聖書全体、特に福音書を読んでみると、イエス・キリストという人物から過激さを感じるには無理がある。むしろその逆の印象を受けるはずだ。

 そういう牧師らは、「常識にとらわれない自由な発想」を良しとする。それだけなら問題ない。けれど彼らの発想は、「自由」をはるかに越えて「理不尽」だ。社会常識を大きく無視した非常識でしかない。しかもそれをイエス・キリストのせいにしようとしている。

 彼らは第一コリント13章5節を、暗記するほど読み直すべきだと私は思う。
「(愛は)礼儀に反することをしない」(新改訳)

QooQ