捧げる献金、捧げさせられる献金

2014年4月18日金曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンが教会に「献金」するのは、ごく自然なことと言える。神様のために犠牲を払うという意味で、礼拝行為の一つでもある。中には熱心に多額の献金をする人もいる。もちろんそれは強制ではない(はずだ)。献金額は完全に個人の自由であるべきだし、そうでなければ「献金」とは言えない。そしてそこには、その人の信仰の在り方が、少なからず反映されている。

 しかし「献金しないと祝福を逃す」というふうに、捧げること、それも多く捧げることを強調する教会がある。そこでは多く捧げる人が信仰深いとされる。捧げないのは不信仰だ、という雰囲気がある。明言はされないけれど。

 それがひどくなると、信徒が自分の将来のために蓄えるのも憚られるようになる。教会会計が苦しかったり、教会に何かの必要があったりする時、特にその傾向が強まる。「神の教会が大変な時に捧げないのは自己中心ではないか」みたいな事実上の脅しが、説教中に公然と語られたりする。真面目で経済的に余裕のある人は(あるいは余裕がなくても)、捧げずにいられない心境になる。

 信徒に多く献金させたがる牧師やリーダーが持ち出す聖書箇所は、マタイ6章の終わりの方だ。要約すると、神様を第一としていれば衣食住の心配は無用だ、必要なものは神から与えられるから、という感じになる。しかしこれを取り上げて、「だから将来のために蓄える必要はない、主が面倒を見てくださるのを信頼すべきだ、それが信仰だ」という話に持っていかれてしまう。他にも、「受けるよりも与える方が幸いだ」とか、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしい」とか、「神と富との両方に仕えることはできない」とかいった箇所から、金銭を持つことは御心でないみたいなメッセージが強く発信される。

 けれどこれらの箇所は、金銭そのものを否定している訳ではない。貯金を禁じているのでもない。ただ、金銭を所有することより神様ご自身を求めなさい、と言っているだけだ。

 たとえば計画的な貯金は、べつに贅沢でも何でもない。かえって自分の将来についてしっかり考えている証だ。将来誰かに迷惑をかけたくないという配慮でもある。神様を信頼しないこととは、そもそも何の関係もない。
 あるいは教会会計が苦しい時、信徒の側から、皆で一致して教会を支えよう、という機運が生まれるのはあると思う。けれどリーダーの方から、捧げなければ不信仰だ、祝福がない、と信仰面の脅しをかけるのはフェアでない。そういうリーダーの方こそ、苦しい会計の原因(無茶な使い方や、ずさんな管理がないかどうか等)をしっかり考えるべきだ。

 もちろん、だから献金しなくていいという話ではない。貯金を優先しろという話でもない。献金そのものは大切だ。ただそれは自ら納得して捧げるべきであって、悪意ある誘導によって捧げさせられるものではない、という話だ。 

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