教会の「接待」について思うこと

2014年4月27日日曜日

キリスト教信仰

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 教会がゲストを呼ぶ時、当然ながら「接待」という行為が発生する。ゲストとの事前の連絡調整とか、当日の送迎とか、控室のセッティングとか、奉仕後の歓談とか会食とかが、その具体的な内容だろう。

 そういう「おもてなし」は、教会でなくても一般的に、似たような場面で同じように行われている。企業間の接待というと何となく悪いイメージがあるけれど、べつに企業でなくても、町内のイベントで講師を呼ぶとか、ダンスサークルが有名なダンサーを呼ぶとか、献血ルームが献血者を呼びこむとか、そういういろいろな場面で、いろいろな種類の「おもてなし」が存在している。

 教会でゲストを呼ぶ場合、そのゲストの労をねぎらい、気持ちよく奉仕してもらおうという観点からすれば、接待は当然の礼儀でもあると思う。最初から報酬がどうとかいう細かい契約があるなら話は別だろうけれど、人と人とのつながりで来るのであれば、やはりそこには感謝の気持ちがなければならない。そしてそういう気持ちがあるなら、「よく来てくださいました」とかいうセリフも出てくるだろうし、お茶の一杯も出したくなるだろう。それらも立派な「おもてなし」だ。

 その接待にどこまでお金をかけるかは、それぞれ事情がある。まったくお金をかけないということもあるだろう。けれど、大事なのはお金でなく真心であって、ふさわしいやり方というものがある。お金をかけるかどうかは二の次であろう。どうやってもてなすべきか、事前に熟考することも、ここでいう真心だと私は思う(そもそも接待などしないという方針の教会があるなら、それはそれでいいと思う)。

 と、いうのが「もてなす側」の話で(考えると当たり前の話である)、今度は「もてなされる側」の話。

 もてなされる側は、単純に感謝してもてなされればいいと思う。感謝の気持ちには、感謝をもって応えればいい。そして最善のパフォーマンスを発揮するよう、努力するだけではないだろうか。

 しかし残念ながら、そういう感謝の気持ちを利用する輩もいる。接待を感謝して受けるのでなく、逆に接待を要求する輩である。食事はこことか、ホテルはこことか、エスコート役は女性にしろとか、中には露骨で酷いものもある。その態度が聖書に照らし合わせてどうかは言うまでもない。というか、一般常識に照らし合わせてみても問題は小さくないだろう。

追記)
 ゲストが「謝礼」という形で現金を受け取ることもあると思うけれど、これは「気持ち」でなく「収入」として申告するのが本来ではないかと私は思う。

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