「小説・冲方春男牧師」紹介

2014年4月16日水曜日

キリスト教信仰

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「小説・冲方春男(うぶかたはるお)牧師」という短編小説がある。「伊那谷牧師の雑考」というブログで連載されていて、最近完結した(全10話)。「アーメン」の意味も知らず、説教は全て他人のコピペ、そんなトンデモ牧師がどうして誕生したか、書かれている。教団や神学校の都合、「大物牧師」の思惑など、事実ならとても表に出せないようなキリスト教界の裏側(?)が興味深い。ほとんどブラックジョークの域である。どこまで事実か知らないけれど。


 これが事実なら本当に勘弁してほしい事態だけれど、似たようなことは少なからず起きていると思う。たとえば、海外の神学校やその類を卒業した日本人牧師は少なくないと思う。それ自体は全然問題ない。けれど、そこでどんな勉強をしたのか、どんな単位を取得したのか(あるいはしなかったか)というような経緯については、場所が海外だけに、ほとんど、本人の言うことをアテにするしかない。実際フタを開けてみると、牧師養成としては(日本でなら)全然不十分なカリキュラムを終えただけで、「現地ではこの学びで皆牧師になっている」という理屈で、帰国後すぐ牧師になるというケースもある(それが絶対的に悪いとは思わないけれど)。
 またあるケースでは、英語を全然しゃべれない状態で英語圏の神学校に入った日本人が、いろいろ贔屓してもらってなんとか卒業まで漕ぎ着け、帰国して牧師になっている。その人は最初の一年程、自分がどんな勉強をしているのか、ほとんど把握できていなかったという。

 もちろん、学びが不十分だから牧師失格だ、とするのは短絡的だと思う。牧師になった後だって日々学習だろうし、そもそも在学中に全てを完璧に修得するなど不可能だからだ。けれど、そういう不十分さにも限度がある。この小説中の神学校みたいに、コピペ論文がノーチェックで通ったり、神学校の都合でほとんど無審査で入学できたり、というザル過ぎる状態でもし牧師が排出されるとしたら、それは度が過ぎている。
 それで一番迷惑を被るのは、そういう牧師の下で導かれる信徒たちである。

 問題は筆者が指摘する通り、教会や神学校の過度の閉鎖性、隠匿性にあると思う。問題があっても内々に片付けられ、発覚しても誰も責任を負わない。その結果量産される被害者たちは、ほとんど「やられ損」である。

 私は教団事情にも神学校事情にも明るくないので、この小説を通してそれらを垣間見ることができて興味深かった。もちろんこれはほんの一例だろうし、脚色されているだろうけど、それでも十分リアリティがあると私は思う。

追記)
 趣旨を誤解されても困るので追記しておくと、海外の神学校がどうとか言っているのではない。ここで紹介している小説が「本当にありそうだな」と私が個人的に思っただけである。

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