信仰に見せかけた自慢について思うこと

2014年4月6日日曜日

信仰に見せかけた…

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 前回、「神様に命じられた」という理由で、早朝の祈祷会を強制する牧師らについて書いた。その行為は「信仰に見せかけた強制」というのがふさわしいと思う。
 今回は、それと同じような構造を持った「信仰に見せかけた自慢」について書きたい。

 毎早朝に祈るクリスチャンが、その理由として、「神様にそう命じられたから」と言うことがある。しかし彼らは上記の牧師のように、周囲にそれを強制するのではない。「神様にそう語られちゃったから、仕方ないんだよね」と困ったように言うのだ。しかし、本当に困っている訳ではない。「イヤだったし眠かったけど、神様に頼まれたから朝早く起きて祈ってみたら、逆にすっごい恵まれたんだよ」とか言う。どうも、「神様によく語られる自分」「神様に何かを頼まれる自分」「神様に祝福される自分」をアピールしたいようだ。

 もちろん、毎朝自主的に祈る時間を持つのはすごいことだと思う。相当な自己管理ができるか、あるいはのっぴきならない事情でもなければ、そうそうできるものではない。長く続けることもできない。
 けれどその結果、「神様ったら無茶なこと言うんだから」みたいな、神様に対してやってあげている感丸出しのアピールになるのは、何か大きく勘違いしていると思う。それは神様を引き下げ、自分を高くする行為だ。まるで神様が無力な方で(あるいは欠けがある方で)、人間に何かをやってもらわねばならない頼りない存在かのようだ。

 そういうのは、信仰の表明という皮を被った「リア充自慢」「苦労自慢」でしかない。よく学校や職場でも「こんなひでー目に遭ったんだよ」とか「どうしてもって頼まれて、どこそこで講演する羽目になっちゃったんだよ」とか、いかにも苦労した風に自慢話をする人がいるけれど、それと同じ類だ。

 自分の信仰を証することと、自慢することとは、案外紙一重の関係にある。「こんな苦労をした」「こんな試練に遭った」というのは確かに大変なことだったろうけれど、それで「これだけのものを得た」「こんなキャリアアップができた」という種類の結果を繰り返し強調するのは、自慢にしかならない。それは神様に栄光をお返しするのでなく、栄光を掴んだ自分自身をアピールしているだけだ。

 もし切実に悩み苦しんでいるなら、そんな風に話すことは(普通なら)できない。それに解決できたとしても、間違っても自慢話にはならない。それは本当に意味で神様への感謝になるだろうから。

 そういう信仰の証と単なる自慢とを区別する一つの方法は、その話の中心に誰がいるかを見ることだと思う。自分はこんな苦労をした、自分はこれだけのことをした、自分はこんな犠牲を払った、自分はこれだけのものを得た、という自分軸の話に終始するようなら、それは健全な信仰表明ではない。承認欲求のカタマリみたいな、未熟な人格を晒しているだけだ。

 もちろん人間は皆未熟だし、私も偉そうなことは全然言えないのだけれど、そういう見え見えの自慢話をしておいて最後に「神様感謝します」と締めくくるのがイヤらしいことと気づくかかどうかは、人格以前の問題だと思う。

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