信仰に見せかけた強制について思うこと

2014年4月5日土曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
 早朝に祈る時間を持つクリスチャン、あるいは教会がある。
 朝の5時か6時から2時間くらい、賛美したり祈ったりというのが多いようだ。それを毎日、何年も続けているというケースも少なくない。非常に熱心だし、本当に頭が下がる。
 
 しかしその始めたキッカケを聞いてみると、「神様に早朝に祈るように命じられたから」と答える人がいる。どういうふうに語られたかはわからないけれど。
 私の見方がひねくれているかもしれないが、そういうのを聞くと、本当だろうかと疑ってしまう。その命令が本当だとしたら、神様が強制収容所の所長みたいな方に見えるからだ。人に強制するだけで、選択の余地を与えない。それがアダムとエバに99%の選択の自由を与えた方と、同一人物とは考えにくい。
 
 そう主張するのが牧師やリーダーである場合、信徒は神様に語られてというより、半ば強制されて、早朝に祈らされることになる。「早朝に祈るのは神様のオーダーなのだから、従わないと祝福を逃してしまう。だから辛くてもやらなければならない」という完全に破綻した論理によって。聖書的でも何でもない。けれどそういう話をけっこう聞く。
 
 一度寝坊しただけで電話で呼び出されたり、説教されたり暴力を振るわれたりする。なんで朝早くに祈るのかとか、祈った結果どうなったのかとかより、信徒がいかに牧師(教会)に従っているかしか、評価対象にならない。そういう強制された祈りに、どういう意味があるのだろうか。神様はどう思われているのだろうか。私には神様を無視した「早朝訓練会」にしか見えない。
 
 であるなら、やはり最初の「語られ方」に問題があるはずだ。
神様に早朝に祈るように命じられたから」という文脈で登場する「神様」は、聖書の示す神様だろうか。神様は人に何かを強制される方だろうか。
 
 確かに聖書を読むと、神様がある状況で、人にかなり具体的な指示を出す場面が出てくる。たとえば、コルネリオは「ヨッパに人をやって、シモンと呼ばれるペテロを招きなさい。この人は誰某の家に泊まっていて、その家は海辺にあります」(使徒10章5~6節・筆者要約)と語られる。それに従った結果、コルネリオは聖霊体験をした異邦人第一号となった。
 
 こういうような例を取り上げて、「だから神様のオーダーに従わなければならない」と上記の牧師らは言う。しかしそれは根本的に話がすり替えられている。神様は確かに指示されたけれど、何も強制されていないからだ。コルネリオには、その語りかけを無視するという選択肢もあった。そして彼が無視していたら、きっと聖書の内容は若干変わっていただろうと思う。しかしそれで、彼が祝福のチャンスを永遠に逃したということにはならない。でないと神様が愛と憐れみの方でなくなってしまう。
 
 神様が何かを力づくで人にさせようとするなら、そもそも人に自由意思など必要ない。そしてそうであるなら、神様は人間など造らず、いわゆるロボットを造ったのではないだろうか。
 しかしそういう「召使ロボット」を必要とするのは、神様でなく、上記のような牧師たちだろう。
 
 あなたにとって神様は、「従わなければ祝福してくれない方」だろうか。あるいは「従わなくても祝福しようとしてくれる方」だろうか。あなたの信仰があなたの神を形作る。私は後者の神様を信じたい。
 
追記)
「信仰に見せかけた強制」について書いたけれど、だから神様に従わなくていい、という結論ではない。何かを強制してくる牧師に従う必要はない、と私は思うけれど。
 

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