歴史に学ぶ賢者でありたいと願いながら思うこと

2014年4月9日水曜日

キリスト教信仰

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「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」

 というのはドイツ帝国初代首相、ビスマルクの言葉だ。
 自分が失敗して学ぶより、他人の失敗から学んで同じ失敗を避けた方がいい、という意味のようだ。その意味で、この「歴史」というのは、「先の人々の失敗の数々」を意味していると思う。
 
 この言葉は私にリアルに迫ってくる。自分のキリスト教信仰の在り方について、ずいぶん長い間、勘違いしていたと思うからだ。そこには多くの反省があるし、今もどうあるべきか模索している。
 
 しかし私がそれに気づいたのは、私自身が大きく失敗したからだった。他者の失敗の歴史から学べたのではない。だから上記のビスマルクの言葉の実践が、いかに難しいものかよくわかる。もし今の私が、教会員として頑張っていた頃の私自身に会いに行けたとして、彼が私の忠告に耳を貸すとは思えない。むしろ逆上して、自分の正当性を主張するだろう。私のことを悪魔とか不信仰の輩とか思うかもしれない。
 
 ビスマルクの言葉は的を射ていると思うけれど、実行するのは容易なことではない。殊に宗教に関してそうかもしれない。基本的に、誰もが自分の行いを正しいと思っているからだ(そもそも間違っていると思うなら、自ら変えているだろう)。
 だから他人の失敗を見ても、自分とは違う、自分は関係ない、自分は大丈夫だと思ってしまうのだと思う。
 
 しかし私が経験した信仰の回り道(と私は思っている)の長さ、無駄さを思うなら、同じような境遇にある人には何としても気づいてほしいと願う。今まで書いてきた「信仰に見せかけた何か」を信仰と信じて歩んでしまうとしたら、それは自分自身にとって損失になるばかりでなく、周囲にも迷惑をかけてしまうからだ。
 
 この問題に関して一つ言えるとしたら、とかく私たちは、先人に対する敬意を欠きやすいということだ。
 信仰の先輩方がどう歩み、どう苦労し、どう難しい判断をしてきたか、私たちは知らなさすぎると思う(かくいう私も知らないのだけれど)。そして目に見える現在の状況の中でしか、生きられなくなっていると思う 。それはそれで無理もないことかもしれない。けれど、自分たちの世代が古い時代より勝っている、進んでいる、新しい、だから歴史に学ぶ必要などない、と思い込んでいるとしたら、それはひどい視野狭窄の傲慢でしかない。何の根拠もない。
 
 それは「私たちの時代になって新しい真理が開かれた」という考え方にも結び付く。これは新しい真理だから、昔の時代にはなかった、古い人々にはわからない、という論理だ。そういうことはあるかもしれないけれど、それで先人たちを軽視することになるのは違う。
 
 それに真理云々に関係なく、たとえば近年で言えば、戦前戦中を生きた日本のクリスチャンらの歩みは、今日の私たちには想像もできない苦労の連続だったはずだ。その困難を生き抜いた人々を、「信仰的にはまだまだ進んでいなかった」などと誰が言えるだろうか。少なくとも私には言えない。むしろ歴史的に見るなら、現代の私たちの方が、かつてない程ヌルい歩みをしているような気がする。

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