祈ることによって、「主からの具体的な戦略」が与えられると主張する牧師がいる。
どんな戦略かと言うと、たとえば、ある地域でクリスチャンが増えなくて困っているとする。牧師が行って祈ってみると、その地域は過去に、何かの争いがあったように示される。それで地域の文献等を調べてみると、案の定、近隣地域との血で血を洗う戦いがあったことがわかる。そうやって多くの血を流した罪が「地の呪い」となって、現在に至るまで祝福を妨げている、ということがわかる。それでその呪いを断ち切るために祈るのだけれど、祈る場所にも指定がある。一番争いが激しかった、因縁の場所というのがあるのだ。
と、いう具合に、主の祝福が止められている場所が祝福されるように、祈るべき内容や祈るべき場所が事細かに示される。そういうのをひっくるめて「主からの戦略」と言うらしい。「霊の戦い」と共通するところがある。そういうのに熱心な牧師の教会は、信徒総出でその手に祈りに励む。自分たちのことを、「主の特別な戦略を教えられる神の軍隊だ」と思っている。
その手の方法論は見方によっては信仰深く、また斬新で、エキサイティングに見えるかもしれない。実際そう見える人が多いから、そういう教会も増えているのだろう。
けれどその活動の結果を追っていくと、結局のところ、何の変化ももたらしていないことに気づく。たとえば上記の例のように「地の呪い」が判明し、「断ち切る」ことで解決したとして、それで終わりではないのだ。今度はもっと古い時代の因縁が持ち出されたり、別の問題が示されたり、江戸時代の徳川某将軍が結界を張っていたとか言い出したりする。それで新たに「断ち切り」をすることになったり、祈るべき場所を探し回ったり、そういうことが延々と繰り返されるからだ。すべてが徒労に終わるだけで(もちろん信徒らはそんなふうに思っていない)、何も得るものがない。何の御業も見られない。牧師は「一歩ずつ確実に前進している」と言うけれど、冷静に見てみると、状況が1ミリも変化していないことがわかるはずだ。
あるいは何かが変化したと言うかもしれない。けれど、その変化が、人が集まって頑張ればできる種類のもの(注1)なのか、神様でなければ絶対にできない種類のものなのか、見てみたらいい。前者である限り、神様が働かれたと断言することはできない。
その手の「戦略」が神様から啓示されて、何か特別な祈りをすることが、絶対にないとは言えない。しかし、神様の祝福を阻む「呪い」が何重にも張り巡らされ、それを「断ち切る」ことのできるクリスチャンが現れなければその地は永遠に祝福されない、良いことが起こらない、とするなら、イエス・キリストの十字架は完全に無効になってしまう。すると私たちの主は、完全に無駄死にしたことになる。人間が「神」という「啓示マシーン」を利用して、霊的な事柄を判別すればそれで良いからだ。
しかしそれは、もはやキリスト教とは言わない。
(注1)
教会活動そのものは、そもそも神様が存在しておられなければ、そしてそれを信じる人々が存在していなければ、成立しない。しかし教会活動のほとんどは、実は、人が集まって頑張ればできることばかりだ。そういう意味で、神の御業を真に見極めるのは難しいと言える(神の御業を否定するという意味ではない)。
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