「子どもを悪から守る」というのは親として当然だろう。子どもが悲惨な事件・事故に巻き込まれるのはいつの時代も少なくない。子どもに少しでも良い未来を歩ませたいと願うのは、いつの時代のどの親にも共通の心情だと思う。
しかしこの「子どもを悪から守る」という台詞を一部のクリスチャンが口にすると、若干事情が異なってくる。もちろんそこには防犯対策的な、一般的な意味合いも含まれるだろうけれど、別の意味も含まれてくる。子どもの信仰を守る、というような意味だ。
子どもの信仰を守る、という発想そのものに違和感があるけれど、それで一部の親が取る手法は、子どもを学校に行かせないとか、テレビや映画や書籍やネットを規制するとか、交友関係を限定するとか、そういう情報統制的なことが基本となる。つまり俗世間の諸々の悪から自分の子どもを遠ざけ、キリスト教信仰だけを教え込むことで、子どもの信仰を守ろう、ということだ。
そういう行動になる背景には、ヨハネの福音書10章前半の「羊の囲い」のたとえも影響しているように思う。この囲いの中の羊はクリスチャンで、牧者はキリスト、囲いを乗り越えて入ってくる強盗は悪魔。そして牧者は羊を守るため、命をも捨てる、という話だ。この「囲い」というイメージから、「子どもを囲って守る」という発想が生まれているようにも思う。しかしこれは拡大解釈であろう。
この情報統制的な教育(?)の基本は、子どもを「悪」から遠ざけることにある。「悪」に触れさせず、知らせず、信仰だけを教えることで、子どもを純粋無垢に育てる、ということだ。もちろん明らかに有害な情報に、あえて触れさせる必要はない。しかし信仰以外のことを知らせなければ大丈夫だ、純粋に保てる、というのは、自分の子どもだけに性善説を適用しているように思える。子どものうちにある悪を認めたくない心情は理解できるけれど、それで子どもが良い人間になり、立派な信仰者になると考えるのは、いささか短絡的ではないか。
それに、一般社会を完全なる悪とするのは、行き過ぎだ。世間一般が悪魔の支配下にあり、自分の家庭だけは清く汚れがない、とするのは傲慢でしかない。もしそれが事実なら、神様は全能でなく、まったく悪魔に勝てないということになるからだ。すると、自分の家庭は清い、というのも成立しない。
私たちはこの世界の中で生きているのであって、そこから分離することはできない。なのにそこから隔絶するように子どもを育てるのは、かえって矛盾した、残酷なことではないかと私は思う。
本当ですね!
返信削除所謂福音派に多い信仰姿勢です。
残念ながら家内がそうで、自分がしたいと思う事が「正しい」事。
それ以外は認めません。
私が反対しようとしたら、すべて貴方がやってくださいと、親の役割を放棄しようとしました。
その後腰が悪く動けなくなり、主の哀れみでどうにかこうにか、「普通の」人間らしい生き方をさせています。
凝り固まると最悪です。