「子どもの信仰を守る」に隠れた信仰の強要

2014年4月23日水曜日

キリスト教信仰 教育

t f B! P L
 前回は、「子どもを悪から守る」ために情報統制的な教育に走るクリスチャンについて書いた。今回は、その行動の背景にある「子どもの信仰を守る」という教育スタンスについて書きたい。
 
子どもの信仰を守りたい」という親の気持ちそのものは、よく理解できる。子どもが信仰を失って神様を否定するようになったり、教会に行かなくなったりするのは、信仰熱心な親であれば耐えがたいことだと思う。けれど、そこには親のエゴが少なからず含まれているような気がする。
 
 熱心なクリスチャンの子どもは、まだ分別のつかない幼い頃から、神様とかイエス様とかについて、(ある意味一方的に)親から教え込まれている。もちろん本人たちに選択の余地はない。物心つく前から、「神様はいる」という前提の下で暮らすことになる(それはそれで幸せなことかもしれないけれど)。
 しかしこれは、言葉はとても悪いけれど、生まれつきの洗脳状態みたいなものだ(あくまでキリスト教信仰の是非の問題ではない)。言い換えるなら、地上で最も信頼する自分の親が信じているのだから、真実に違いない、という理由で神様を信じる、ということだ。そういう意味で、子どもは否応なく信仰を持たされると言える。そして特に幼いうちは、それを否定しようなどと思わない。疑うという発想さえない。親はそれを見て、「この子が自ら信仰を持ってくれた」と思うのだろうけれど、それはちょっと違うだろう。
 
 そういう状態の子どもの「信仰を守る」というのには、いつまでも(親に対して)従順な子どもでいてほしい、という親の願いが含まれているように思う。しかしそうだとしたら、それは子どもを思い通りにコントロールし、自主性や選択の自由を奪うことになる。そして事実上、信仰を強要することになる。
 
 もちろん、聖書は「これ(律法)をあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記6章7節・新改訳)と言っているから、子どもに聖書信仰について教えるのは、クリスチャンのなすべきことだと思う。しかしだからと言って、「この子も立派なクリスチャンにならなければダメだ」と信仰を押し付けるのは違う。
 
 ある程度成長した子どもが、「信仰」に疑問を抱き、あるいは反発し、「神様なんていない」とか言い出した時、クリスチャンの親はどう対応するだろうか。
「信仰の継承に失敗した」と悔い改めるだろうか。
「この子は悪魔の攻撃を受けている」と憤って祈るだろうか。
「いつか必ず神様のもとへ帰ってくる、あの放蕩息子のように」と、子どもを勝手に放蕩息子に仕立てあげるだろうか。
 私はむしろ、それは喜んでいいことではないかと思う。何故ならその反発は、子どもが自ら考え、葛藤し、いろいろ模索しはじめた証拠だと思うからだ。もちろん子どもに反抗されたらショックだったり悲しかったり、頭に来たりするけれど、子どもがいつまでも従順を装い、本音を隠したまま成長していくよりは、ずっと良いことではないかと私は思う。

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