引き続き「献金」について。
教会生活の長い、年輩のクリスチャンの方が、「(ずっと捧げてきたので)自分の蓄えはほとんどありません。けれど主がおられますから、さほど心配していません」と話すのを聞いたことがある。大変立派な信仰者だと思った。その「蓄えはほとんどない」というのが、実際どれくらい「ない」のかわからないけれど、とにかく貯金できたはずの分を神様に捧げきた、その事実は神様に覚えられていると思う。それがクリスチャンの信仰だろう。
しかし同時に、私は他人事ながら心配でもあった。将来のために蓄えることなく、献金に励むことは、果たしてどれほど信仰的なことなのだろうか。
前回も取り上げたマタイの福音書6章の後半をみると、「衣食住の心配は必要ない。神様を第一とすれば、与えらえるから」となっている。
では与えられるはずだから、私たちは現金を持たなくていいかと言うと、そんなことはない。たとえば今日、財布の中に一円もなかったら、ほとんどの人は今日か明日には何も食べられなくなる。そのうち着ることも住むこともできなくなる。
確かに同じ箇所を見てみると、32節には、「あなたがたの父は、これらのもの(衣食住)が、ことごとくあなたがたに必要であるとご存知である(口語訳)」と書いてある。だから神様も認めている通り、私たちには幾ばくかの現金が必要だ。
では、毎月の生活費の余った分についてはどう考えるべきだろうか。貯金に回すべきだろうか。あるいは当面必要ないお金だから、献金してしまうべきだろうか。
こういうお金の話でよく引き合いに出されるのが、ルカの福音書21章2~4節の「貧しいやもめ」である。やもめはレプタ2枚を献金した。それを見ていたイエス・キリストが、「この人は誰よりも多く捧げた。生活費全部を捧げたから」と言った。
前回登場した「信徒に強制的に献金させるリーダー」であれば、この箇所を引用して、「だから持っているもの全部を捧げるのは、大いなる祝福なのだ」と主張することだろう。
しかし現代の私たちがこれに倣って、毎月の給料を全て献金することができるだろうか。現実的に不可能だろう。あるいは余剰分をすべて献金できるだろうか。今月は良くても、来月に予想外の出費があるかもしれない。そう考えると、余剰だからと言って本当に必要ないとは言えない。
これについて考えるには、「貧しいやもめ」の時代と、私たちが暮らす現代とで、生活における貨幣の占める割合が変わっているのを考慮しなければならないと思う。新約聖書の時代はまだまだ自給自足が基本だったようだから、貨幣依存度は今ほどは高くなかっただろう。だから現金が一円もないからと言って、すぐさま食に困るということはなかったはずだ。しかし現代の私たちの貨幣依存度は、それに比べてはるかに高い。100%と言っていいかもしれない。自給自足など普通ならできないし、何でもお金で払わなければならないからだ。
税制だった違う。私たちは穀物で納税しない。私たちは土地を持っていたら、固定資産税をお金で払わなければならない。何でもかんでもお金が必要なのだ。私たちにとって「支払い」とは「お金」のことであって、それ以外のオプション(穀物とか家畜とか物とか)はない。
そういう私たちの「生活費全部」と、貧しいやもめの「生活費全部」は、意味が違うのではないだろうか。
そういうことを考えてみると、「献金してきたから貯金はほとんどない」という状況について(それはそれで素晴らし信仰だと思うけれど)も、再考が必要ではないかと私は思う。
たとえば、私たちの老後はどうなるのだろうか。年金は毎月どれくらいもらえて、その時どれくらいのお金が生活に必要なのだろうか。まったく蓄えがないままで、大丈夫なのだろうか。
主に信頼していれば、お金のことは全て解決なのだろうか。もし心からそう信じるなら、今ある貯金も、この先発生する余剰金も、全て献金してしまうことができるはずだろう。
追記)
結論のない話だけれど、要は貯金もできて献金もできる、というのがバランスの取れた信仰なのかもしれない。
追記にお書きになった内容が聖書的であると私は理解しております。伝道者の書の11章1節から6節までは、主に頼りつつ、複数の方法で収穫ができるように備えるべきであることを示していると理解する立場が有ります。すると、それを現代の生活に適用するならば、農作物の収穫以外にも生活を支える術が必要な状況ですから、貯金もすることになります。
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