「人の思惑たっぷりの啓示」に見られる忍耐力の欠如

2014年4月2日水曜日

「啓示」に関する問題

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「啓示」に関する問題は、とにもかくにも人間の勝手な思惑が根っこにある。こうしたい、こうであったらいいのに、という思惑が、結果的に「啓示の捏造」を生み出している。そしてそれは牧師などのリーダーだけの問題ではない。普通の信徒の思考にも同様の構造があって、私たちは日常的に、何らかの意思を加えた「啓示」を生み出しているように思う。
人間とは、本来そういうものなのかもしれないけれど。

 現代のクリスチャンである私たちが見落としやすいのは、「啓示」はすでに聖書に書かれているという点だと思う。だから預言も異言も奇跡も癒しもない、と言うつもりはないけれど、それらの必要性が、聖書が完成する以前と以後ではだいぶ様子が違うのは、考えればわかるはずだ。だからペンテコステ後の使徒たちのような、「啓示されまくり」な活動と同じようなことを現代でもしようとするのは、根本的に方向性が違っていると私は思う(そういうのに憧れる気持ちはよくわかるけれど)。

 もちろん、神様からの直接的な啓示は、今日もあると私は信じている。ただ上記のような「ニセ啓示」が多い中にあっては、よくよく注意し、疑ってかかるくらいでなければいけないと思う。でないと、騙されて痛い目に遭いかねない。

 私たち現代人は、もしかしたら忍耐力を大きく欠いているのかもしれない。神様からの完璧な啓示である聖書に徹底的に向き合うことができず、インスタントな答えを求めてしまっているのではないだろうか。何か新しいこと、面白いこと、ワクワクすること、自分が用いられることを求めるあまり、聖書の基本を無視して、「人の思惑たっぷりの啓示」に走るのではないだろうか。
ベレヤの町の人々のような、素直さと探究心が私たちには必要だと思う(使徒の働き17章11節・新改訳)。

 クリスチャンとして活躍したい、みんなを救いたい、教会を大きくしたい、という願望はよく理解できる。その願望も神様が起こしたものだと思う。けれど、そのやり方や方向性には注意が必要だ。自分の勝手な思惑が初めから入っていたり、ある時点で入ったりするからだ。そういう人たちに対して私が強調したいのは、聖書にも多く登場する「忍耐の人々」の姿だ。たとえばモーセが神様に用いられたのは、80歳になってからだった。それまでの40年間、彼は荒野でひたすら羊を飼っていた。シメオンは「死ぬまでにキリストを見る」と預言されていたけれど、そこに至るまでの生涯を、宮の(おそらく地味な)奉仕に捧げた。その他の人々は、名前さえ出てこない。ただ神を求め続けて、その生涯を終えた人々が大勢いたはずだ。マラキ書が書かれてからマタイの福音書に至るまでの400年間、神様は完全に沈黙していた(と考えられる)。その時代の人々は、いくら神に祈っても、何の啓示もなかったはずだ。

 そういうことを、「毎日毎日主の啓示に溢れている」と主張する人々は考えたことがあるだろうか。

「啓示」を求めるのは良いことだと思うけれど、まずは聖書についてよく学ぶべきだと思う(神学校や副読書はピンキリだから何とも言えないけれど)。それに啓示を求める以前に、私たちは日々の仕事や学業に、地道に取り組むべきだと思う。

 人間が啓示を求めてあれこれ捏造しだすのと、忍耐して地道に学んだり働いたりするのと、神様はどちらを願っておられるだろうか。答えは明らかだと思うけれど。

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