「神の御業」の乱用・決めつけ篇

2014年4月13日日曜日

キリスト教信仰

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「神の御業」の乱用が起きている。一部のクリスチャンだけの話だと思うけれど、何でもかんでも神の御業にしようとしている。

 ある事柄が示されている(気になっている)クリスチャンAがいるとする。その事柄が神からのものなのかどうか、Aはいまいち確信できていない。それで、「これが神様からのものなら、別の誰かからも同じ事柄を聞かせて下さい」と祈る。すると数日後、別のクリスチャンBが、その事柄について話してきた。Aは、「ハレルヤ、やっぱりこれは神様からだった」と確信する。

 後日、Aは「神様からこんなふうに確信をいただきました。だからこの事柄は間違いなく神様からのメッセージです」と自信満々で言う。けれど果たして、これは本当に神様からのものだろうか。

 ここでAに対して、「それは本当ですか」と疑念を向けるだけで、「不信仰だ」というような反応が返ってくる。しかしそれは聖書的ではない。以前にも書いたけれど、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と聖書が命じているからだ。それに、疑うことは信じる為の一つのステップでもある。そういうステップを一切否定し、「信じなければ不信仰だ」と決めつけるのは、一方的な押し付けでしかない。

 話を上記のケースに戻す。Aが祈った通り、Bが話しかけてきた。だからそれは神からのメッセージだ、というのは本当だろうか。話を単純化すると、神に願ったことが起こった、というケースについてだ。
 そこには少なくとも4つの可能性がある。1つ目は単なる偶然。2つ目は神様からのメッセージという可能性。3つ目は悪魔がそう仕向けたという可能性。4つ目はAの事情を知る誰かが気を利かせたという可能性。もちろんAが誰にも話していなければ、4つ目の可能性はない。しかしそれでも3つの可能性が残る。神からという可能性は、4分の1あるいは3分の1でしかない。それを「神からだ」と決めつけるのは、いわゆるギャンブルである。

 別の問題もある。その事柄そのものについてだ。その事柄というのが、たとえば「今年、私は大きく祝福される」みたいな曖昧な内容だとしたら、起こったかどうか、どうにも判定できない。祝福されたかどうかは、気の持ちようみたいなところがあるからだ。わずかなことに感謝できる人なら、ほんの些細なことでも「大きな祝福」だろう。逆に、仮に宝くじが高額当選したとしても、それが「大きな祝福」かどうかはわからない。
 内容が曖昧である限り、上記の3分の1の可能性の答えは、永遠に出ない。それを「神様からだ」と喜ぶのは能天気すぎる。

 逆に、その事柄が非常に具体的だったとする。たとえば何年何月何日の何時何分に、何々山が噴火して、どこそこ地域が壊滅する、という内容だったとする。それが本当に神様からのメッセージかどうかは、どうしたらわかるだろうか。たとえBが事前に全く同じ内容のことを言ったとしても、そこには依然として幾つかの可能性が残っている。偶然か、神からか、悪魔からか、あるいは人為か。
 それが間違いなく神からだったと確認できるのは、その事柄が、事前に言っていたのと寸分違わず起こったからだ。それ以外に、それが神の御業かどうかを判別する方法はない。

 もちろん自信があるなら、事前に「これは間違いなく神様からのものです」と言ったらいい。しかしその場合、その事柄は具体的でなければならない。曖昧ではいけない。起こったかどうかが間違いなく判別できる内容でなければ、「神様からのものです」と言っても何の説得力もないからだ。

 しかしそういう判別ができない内容で、かついろいろな可能性が考えられることを、「神からだ」と決めつけてしまうことがある。それは痛々しい信仰ゴッコでしかない。
 

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