「神の御業」の乱用・ムリヤリ編

2014年4月14日月曜日

キリスト教信仰

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「神の御業」の乱用が起きている。前回は「決めつけ」について書いたけれど、今回は「ムリヤリ」について書きたい。

 例を挙げる。ある牧師が、某所の某施設を購入しようとしている。「そこを得るように」と神に「語られた」からだ。牧師は教会内外にその施設の必要性を熱弁し、広報し、献金を募った。いくらかの反応はあった。牧師はすでにそこに入所するつもりで、スタッフに準備を始めさせていた。
 そんな中、その牧師に、神から次の「語りかけ」があった。
「来月末までに購入し、入所しなさい」
 その語りかけの真偽はここでは問わない。とにかく牧師はそう主張し、さらに熱心に広報し、献金を募った。多くの犠牲が払われ、献金が貯まっていった。しかし翌月の中旬を過ぎても、必要額には全然達していない。期日は迫ってくる。牧師は信仰を「働かせて」、その月末にその施設で集会を開くことに決めた。月末までに絶対にそこを購入して、入所すると「信仰によって」決意していたからだ。
 さて、月末になった。結局お金は揃わなかった。牧師はその施設のオーナーと「賃貸契約」を結び、施設を借りることにした。そして急いで入所して、集会の準備をして、なんとか開催した。牧師はそこで言った。「ハレルヤ! 主の言われた通り、私たちはこの地を得ることができました!」

 これは果たして「神の御業」だろうか。

 このケースには2つの考えるべき点がある。
 1つ目は、この話に登場する「神」が、人に無理難題をふっかける横暴な存在である点だ。「私の荷は負いやすい」とイエス・キリストご自身が言っているけれど、この「神」が押し付ける荷は、なんと重いことだろうか。期日指定で、何千万円も準備しなければならないからだ。どこかからポンと与えられるなら「奇跡だ」と言えるけれど、そうでないなら自分たちで揃えなければならない。信徒全員でアルバイトするとか、連日徹夜で祈るとか、借金するとか、何人かの定期預金を解約させるとか、そういう究極的なところまで追いつめられることになる。その「神」とは、本当に聖書の言う神だろうか。人に命令だけしておいて、自分は指一本動かさない、それが天地万物を創造した神のすることだろうか

 2つ目は、その「語りかけ」に対する牧師の態度にある。神が期日指定で「その地を得なさい」と言われたのが事実だとして、結局、賃貸契約で済ますのは、神の御心に反している。「機転を利かせたのだ」と牧師は言うかもしれない。けれど前回も書いた通り、ある事柄が神の御業・御心であるかどうかは、それが寸分違わず実現されたかどうかを見ればわかる。神が言った通りになっていないなら、それは初めから神の御心ではない。別の何かだ。この施設のケースで言えば、「神の御業」が実現したかのように、ムリヤリ見せているに過ぎない。
 これも、痛々しい信仰ゴッコでしかない。

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