「献金」について3回目。
現代社会は貨幣に完全に依存しているから、私たちが捧げる「献金」の重みは、聖書時代のそれに比べて重い、というようなことを前回書いた。だから私たちが「有り金の全部を捧げる」と言ったら、それは文字通り、私たちの所有している全部を捧げるということになる。言うなれば「捨て身の献金」だ。
そういう究極的な、極端な、行き過ぎた信仰の在り方は、特にいわゆる「カルト化教会」に多く見られる。それは一見、信仰的・聖書的だけれど、実は聖書に反している。結果的に人を破滅に追いやるからだ。
そういう教会が主張するのは、「多く捧げた者は多く受ける」という聖書の原則だ。この原則は聖書にいろいろな形でたくさん書かれているから引用しやすい。確かにそれは真理であると思う。しかしそれは金銭だけに限ったことではない。人に対する親切や善行にも当てはまる。あるいは悪事・悪行にも(ネガティブな意味で)当てはまる。
それに「多く捧げたから多く与えられるはずだ」という動機で、本当に貯金を全額献金する人がいるだろうか。もし仮にいるとして、「もっと多くほしいから」という動機で献金するのは、本当に信仰的なのだろうか。「確証のないことを信じて実行する」という点では素晴らしい「信仰」なのだろうけれど、それはキリスト教の信仰とは言えない気がする。なぜなら「愛がなければ意味がない」(第一コリント13章)と聖書が言っているからだ。そしてそこにあるのは愛ではない。「もっとお金がほしいから先行投資する」というビジネス的マインドでしかない。
「聖書の原則を利用して何が悪い、祝福(お金)を求めて何が悪い」と反論されるかもしれない。ではこれについてどう考えるだろうか。私たちの主は、何の為に十字架にかかったのか。
キリストは、よみがえって栄光の座につき、すべての名にまさる名を与えられるために、十字架にかかったのだろうか。もしそうだとしたら、キリストは、「自分が一番になりたいから、汚い人間どものために死んでやるか、仕方ねえ」みたいに考えていたことになる。つまり、自分が得たいもののために、仕方なく犠牲を払った、ということだ。
しかし私が信じているのは、人類(私)を愛するが故、そして救いたいが為、その全て(私)の罪の罰を代わりに引き受けてくれたキリストだ。その姿にこそ愛があるのではないだろうか。
であるなら、私たちも、捧げた結果を期待するのでなく、私を愛してくれたキリストを私も愛したい、何かしたい、という動機で捧げるべきではないだろうか。キリストが犠牲を払ったのと同じ心で、幾ばくかの犠牲を払うべきではないだろうか。
それに、神様はお金など必要としていない。私たちの時間も労働も、全能の神様の前には無に等しい。むしろそれらを欲するのは神様でなく、「カルト化教会」のリーダーたちだ。
最後にキリストの言葉を引用したい。
「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」(マタイの福音書9章13節・口語訳)
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