ぜんぜん特別でない「特別な啓示」について

2014年4月1日火曜日

「啓示」に関する問題

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「神様の特別な啓示を受けた」と言うクリスチャンがいる。

 何が特別に「啓示」されたかというと、集会を開くこととか、事業を始めることとか、土地を所有することとか、「終末」に向けて備えることとか、人(教会)それぞれだ。啓示のされ方もいろいろで、夢で見たとか、心に強く感じた(?)とか、神様の肉声を聞いたとか、その他諸々ある。

 神様から啓示されることは、基本的に良いことだし、しっかり心に留めるべきことだ。読んだ聖書の箇所を心に留めるのと同じだ。しかしいろいろ見たり聞いたりしていると、それが本当に神様からの特別な啓示なのか、疑わしいケースがある。
 ここで、3種類の疑わしい「特別な啓示」について考えてみたい。

・自己実現=「特別な啓示」
 これは端的に言うと、自分がしたいことを始める理由(あるいは言い訳)として、「特別な啓示」を利用するということだ。だからそもそものはじめから神様は関係していない。関係あるかのように、カモフラージュされているだけだ。
 これを牧師が使うと、教会全体が巻き込まれることになる。牧師の願望に、信徒が付き合わされるような形だ。もちろん信徒らは、純粋にそれを神様からのオーダーだと信じている。
 これを普通の信徒が使う分には、そこまで大きな影響はない。たとえば「神様に導かれたので留学に行きます」と勢いよく言い、その割に短期間で帰ってきたので理由を聞くと、「神様から帰国するように示されました」と言う。その真偽についてはさておき、周囲に迷惑をかけないという点ではまだ良い(親や家族は迷惑かもしれないけれど)。

・単純な想像=「特別な啓示」
 これは「終末」予想の「生体埋込チップ」の話でも書いたけれど、ある事象から容易に想像できる範囲のことを「特別に示された」と言うことだ。たとえば礼拝中に「天使の羽」が降ってきたとして、それがいつもの白でなく赤だったとする。「なぜ赤なのかと祈っていたら、それは十字架の血潮を表しているのだよってダディ(神様のこと)が教えてくれました」とか言う。しかしその程度なら祈り求めるまでもない。クリスチャンなら、赤色から十字架を連想するのは当たり前だからだ。それに、だから何だというのだろうか
 その他にも「夢の解き明かしができる」とか、「個人預言ができる」とか自慢気に言う人がいるけれど、事例を聞いてみるとガッカリするほど当たり前な連想しかしていない。あれならちょっと聖書の知識があれば誰にでもできる。それが神様の特別な啓示というなら、その「神様」とはずいぶんスケールの小さい存在だ。
もちろん、それが絶対に神様からの啓示ではないと言うつもりはない。しかし「特別」にしては平凡過ぎる。本当に特別な啓示であるなら、旧約聖書のダニエルに与えられたような、絶対に人間では予測不可能な内容であるべきだと私は思う(ダニエル書 4章)。でないと、神様が礼拝されるにふさわしい方とは言えない。

・単なる思い込み=「特別な啓示」
 これは以前も書いたことがあるけれど、たとえばホテルの泊まった部屋がたまたま「316」号室だったとして、「これはヨハネ3章16節が示されているという意味だ」と、勝手にこじつけることだ。何の根拠もない。そのうち、偶然の数列に足し算とか引き算とかの操作をくわえて、自分にとって都合のいい数列に変換するようになる。もはや、独りよがりの啓示の捏造でしかない。

 神様からの啓示は素晴らしいものであるはずだけれど、上記のようなケースが多いのが現実だと思う。それははっきり言って、神様を貶めることだ。しかしそんなこと考えず、自分は神様から特別な啓示を受けている、自分は熱心で真実なクリスチャンだ、と信じ込んでいるとしたら、後々痛い思いをするのではないかと私は思う。

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