前回は教会がゲストを「接待」することについて書いた。
わざわざ来てくれたゲストに対しては感謝を表すべきで、お金をかけるにしてもかけないにしても、その状況にふさわしいやり方で「おもてなし」をするのは礼儀に見合っている。もてなされる側もそれを感謝して受ければいい。ただ、もてなされる側が接待を要求するのはおかしい、というようなことを書いた。
今度はもう少し突っ込んで、牧師を厚待遇することについて書きたい。
最近の流行かどうか知らないけれど、ゲストとして呼んだ牧師や宣教師を「神の人」と呼んで、やたら厚待遇する傾向が一部にみられる。空港までわざわざレンタルした高級車で出迎えたり、高級ホテルを取ったり、高級料亭で食事させたり、気の利く信徒を世話役として24時間張り付かせたり、とにかく至れり尽くせりだ。どこの国賓かと思うほどの待遇である。
そういうことを指示する牧師は、「神の人は最大級に尊ばれなければならない」ということで、いわゆる最高級のおもてなしを(信徒たちを使って)計画する。「神様は最高の方なのだから、その神の働き人には最高のものを用意しなければならない、粗相があってはならない」という訳だ。
前回も書いたように、来てくれる人を感謝してもてなすのは、人として当然のことだ。極めて常識的である。だからゲストの牧師や宣教師を殊更に厚待遇するのも、決して悪いことではない。しかしその接待の裏で、多くの信徒が時間やお金や労力といった犠牲を強いられ、しかもそれを断れないという事態があるとしたら、その接待は牧師の自己実現でしかない。
前回は「接待を要求する輩」について書いたけれど、このタイプは、「接待を見せつける輩」だ。自分にはこんな接待ができる、こんな力がある、こんな経済力がある、ということを顕示したいだけだ。そこが規模も献金額も小さい教会であるなら、なお悲惨なことになる。
確かに神様は最高のお方である。だから最高のおもてなしをしたい、というのは一見理にかなっている。しかしその「最高」というのが、高級車や高級ホテルや高級料亭を意味するのだとしたら、その神様はずいぶん世俗的だ。「最高」というのはもっと別のところにあるのではないだろうか。そしてそれは物でなく、心にあるのではないだろうか。
「心があるから最高のおもてなしをするのだ」という反論があるかもしれない。けれど、それは教会の身の丈に合わない接待を、信徒らに強要する理由には全然ならない。
イエス様は馬小屋でお生まれになったのに、その弟子は高級車に高級ホテルとは。知らぬうちに、悪魔か教会や人の心に入り込み、神様の心とはほど遠くなっている。また高級車に乗らなくても、自分は他のクリスチャンより霊的だと他のクリスチャンを見下してる牧師もいる。牧師を見定める時代にはいっているのかもしれない。牧師によって人生が変わるといっても大袈裟ではない。真理を愛し、傲慢から遠ざかりたい。
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