教会の「接待」について思うこと・牧師の「厚待遇」篇

2014年4月28日月曜日

キリスト教信仰

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 前回は教会がゲストを「接待」することについて書いた
 わざわざ来てくれたゲストに対しては感謝を表すべきで、お金をかけるにしてもかけないにしても、その状況にふさわしいやり方で「おもてなし」をするのは礼儀に見合っている。もてなされる側もそれを感謝して受ければいい。ただ、もてなされる側が接待を要求するのはおかしい、というようなことを書いた。

 今度はもう少し突っ込んで、牧師を厚待遇することについて書きたい。

 最近の流行かどうか知らないけれど、ゲストとして呼んだ牧師や宣教師を「神の人」と呼んで、やたら厚待遇する傾向が一部にみられる。空港までわざわざレンタルした高級車で出迎えたり、高級ホテルを取ったり、高級料亭で食事させたり、気の利く信徒を世話役として24時間張り付かせたり、とにかく至れり尽くせりだ。どこの国賓かと思うほどの待遇である。

 そういうことを指示する牧師は、「神の人は最大級に尊ばれなければならない」ということで、いわゆる最高級のおもてなしを(信徒たちを使って)計画する。「神様は最高の方なのだから、その神の働き人には最高のものを用意しなければならない、粗相があってはならない」という訳だ。

 前回も書いたように、来てくれる人を感謝してもてなすのは、人として当然のことだ。極めて常識的である。だからゲストの牧師や宣教師を殊更に厚待遇するのも、決して悪いことではない。しかしその接待の裏で、多くの信徒が時間やお金や労力といった犠牲を強いられ、しかもそれを断れないという事態があるとしたら、その接待は牧師の自己実現でしかない。
 前回は「接待を要求する輩」について書いたけれど、このタイプは、「接待を見せつける輩」だ。自分にはこんな接待ができる、こんな力がある、こんな経済力がある、ということを顕示したいだけだ。そこが規模も献金額も小さい教会であるなら、なお悲惨なことになる。

 確かに神様は最高のお方である。だから最高のおもてなしをしたい、というのは一見理にかなっている。しかしその「最高」というのが、高級車や高級ホテルや高級料亭を意味するのだとしたら、その神様はずいぶん世俗的だ。「最高」というのはもっと別のところにあるのではないだろうか。そしてそれは物でなく、心にあるのではないだろうか。
「心があるから最高のおもてなしをするのだ」という反論があるかもしれない。けれど、それは教会の身の丈に合わない接待を、信徒らに強要する理由には全然ならない

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