2014年5月31日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第32話

 メッセージが終わると、また長い祈りの時間に入る。毎週まったく同じという訳ではないけれど、だいたいいつも、はじめに溝田牧師が代表して祈る。
 先生の祈りはいつも熱い。今日のメッセージはテーマが「献身」だったから、祈りも当然、それを踏まえた内容になった。
 献身にまつわるあれやこれやを祈った後、牧師は大声で、「主よ、全てを捧げてあなたに献身します!」と叫んだ。間髪入れず、奏楽が大音量で始まった(この流れは事前のリハーサルで練習されていた)。その大音量にキマジメくんは全身が震え、手足に鳥肌が立つのを感じる。会衆が一斉に祈り出すのに釣られるように、キマジメくんも祈り出した。

 実はこういう祈りの時、キマジメくんはいつも若干の葛藤を感じた。会衆の大部分が「異言」で祈っているからだ。まだそれについて詳しく聞いたことはないけれど、「聖霊のバプテスマ」とか、「異言」とか、「異言の解き明かし」とかいうものがあって、クリスチャンとしてある程度成長すると、そういうものが与えらえるというか、できるようになるらしい。自分はクリスチャンになって1年くらいだから、まだそこには到達していないのだ、とキマジメくんは常々思っていた。
 全員で祈り出すと、皆の大音量の「異言」に圧倒されて、自分の普通の言葉の祈り(知性の祈りというらしい)では力がないような、不十分なような、そんな気がしてならない。自分の祈りは神様に届いていないのではないか。そう思うと心配になる。
 しかしいずれにせよ、自分が献身に導かれているのは、疑いようのな事実だ。キマジメくんはもう一度そう確信し直すと、「主よ、私の献身を導いて下さい」と繰り返し祈った。

 その後も叫んだり泣いたり笑ったりしつつ、礼拝は幕を閉じだ。10時に始まったが、すでに14時を回っている。「今日は礼拝最長記録ですね」と溝田牧師が最後に笑顔で言うと、会衆一同も声を上げて笑う。「神の国は時間を忘れさせますね」と誰かが言っていた。

 礼拝が終わると、信徒の大部分は各々で遅めのランチを取る。会堂内は「聖域」なので飲食禁止になっているが、それ以外のラウンジとかバイブルスタディの教室とかは自由に使える。それぞれに親しい者どうしが集まって、さっそく昼食を始めている。
 キマジメくんは溝田牧師と再度献身の話をしたくて、会堂に残っていた。会堂では牧師が賛美奉仕の若者らを集めて、ミーティングを始めていた。
「あのさあ君たち、どうも霊的に鈍感なんだよね」溝田牧師は口を「へ」の字に曲げてそう始めた。「楽器の音や声はさあ、霊的な流れを表すのに重要なんだよ。つまり聖霊が激動している時は、楽器も声も大音量でガンガンやるんだよ。臆病にチョコチョコやってちゃダメだ。そういう臆病っていうか、恐れる心はね、罪なんだよ、ハッキリ言って。『恐れるな』って聖書に書いてあるだろう? それは神様からのオーダーなんだよ。でも逆に静まる時もあるんだよ。そういう時はサッと楽器の音を下げるんだよ。止めるって意味じゃないぜ? リズムを落とすって意味でもないぜ? 音を下げるんだよ」
 若者らは若干困惑の色を浮かべ、それでもウンウン頷いている。キマジメくんはその話をなんとなく聞いていたが、まったく意味がわからなかった。奉仕者だからわかる内容なのかもしれない。
「それでさあ、そういう激動と静寂を見極めるのは、みんなの霊なんだよ。霊のことは霊でしか理解できないんだよ。だから、霊が眠っていると、聖霊の流れがわからないんだよ。それじゃあ奉仕者として失格だよね? 霊の流れにピッタリ同調して、その通りに音を奏でるんだよ、声を出すんだよ、それが賛美奉仕ってもんだ」
 若者らは口々に「はい」と言う。牧師の話は続く。
「それで今日の礼拝だけど、まったく大変だったよ。僕が『ここ』っていう時に、みんな付いてこなかったからね。そのせいで霊の流れが何度も止まったよ。取り戻すのにどれだけ苦労したかわかるかい? もっと霊を敏感にしてくれなきゃなあ……」溝田牧者大きく溜息をつく。「今後、あんまり改善が見込めないようだったら……そうだな、奉仕者の入れ替えも考えなきゃならないかもな」
 最後の言葉に、若者らの間に動揺が走ったように見えた。厳しい世界なのだな、とキマジメくんは思った。今まさに自分が飛び込もうとしている世界がそういう世界なのだという認識は、彼の心に浮かぶことはなかった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年5月30日金曜日

「自己犠牲」の陰にひそむ「自己実現」

 前回、「自分の都合の良いように神を利用する信仰」について書いたけれど、その中で、「従いがたいことに従う」姿勢について軽く触れた。今回はこの点を掘り下げてみたい。
 
「従いがたいことに従う」というのは基本的に、神からの語りかけがあって、しかしそれが自分にとって非常に都合の悪い、できれば避けたい事柄である時に必要とされる態度だ。だから自己犠牲的なことで、非常に敬虔な、献身的な姿と言える。自分の都合を優先することとは、正反対の態度であろう。
 
 たとえばある牧師が教会を開拓し、何年かで50人程度の群れができたとする。現在の日本では平均以上の規模の教会をつくれた訳だ。牧師としては苦労した甲斐があっただろうし、ずっと関わってきた信徒らには深い愛情を感じているだろう。しかしそこで、突然神様から、「教会を後任に委ねて新しい土地に行きなさい」と語られたとする。牧師は正直なところ、従いがたいはずだ。教会が今後どうなっていくか心配だろうし、新天地でも同じようにできるとは限らないからだ。その意味で、それに従うことは、自分の全てを失うような感覚かもしれない。
 そういう状況で「従います」と言うのは、前述した「従いがたいことに従う」信仰だと思う(その神の語りかけが本物かどうか、という点についてはここでは触れない)。自分の都合でなく、神の都合(言葉)を優先しているはずだからだ。
 
 しかし、それと同じような状況でありながら、この「従いがたいこと」が、実はそうでもない、ということがある。前回も書いた通り、従いがたい(と普通なら思われるような)ことに従うことで、自分の従順や敬虔のアピールになる、というような場合だ。
 これには例えば献金がある。「財布の中身を全部捧げるように語られて、正直苦しかったけれど、神様を信頼して全部捧げました」というのは、その真偽は別として、普通ならすごい信仰者だという称賛を受ける。しかしその人は、実は称賛されたくて捧げただけかもしれない。つまり、称賛を金で買おうとしたのだ(もっとも、自分がどういう献金をしたか人前で話す時点で、信仰的とは言えないけれど)。
 
 同じような例は沢山ある。誰もしたがらない奉仕を率先してするとか、舞台に上がる奉仕者に欠員があって代わりに出るとか、あえてでかい十字架を担いで日本中を歩くとか、そういう自己犠牲が求められる形であるなら、同時に、自己実現の目的も存在しえる
 それらに共通するのは、多少の不利益があっても人から尊敬されることを選ぶ、という承認欲求的心理だ。あるいは自分の信仰の凄さ(?)がアピールされるために、あえて不利益を被る、と言った方がわかりやすいかもしれない。いわゆる「苦労自慢」にも通じている。そしてその不利益が大きければ大きいほど、キリスト教界での知名度が上がりやすく、クリスチャンとして何者かになれるかもしれない。
 そういう心理は少なからず働いているだろう。
 
 もちろん、本当に真心から神様を愛し、ただただ仕えるためだけに自己犠牲を選ぶ人もいると思う。だからそれが真の自己犠牲なのか、あるいは自己実現の仮の姿なのか、その両者の見極めは難しい。
 その判断のポイントの一つは、誰にも知られず、何の見返りもなく、本当に不利益しか被らないような事柄であっても、するかどうか、だと思う。そしてもう一つは、それを誰にも言わずにいられるかどうか、だと私は思う。

2014年5月28日水曜日

自分の都合の良いように神を利用する信仰について

「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」という図式に固執するクリスチャンがいる、と前回書いた。
 その問題の根本には、「良いものしか受けたくない」という思いがある。そう思うのは人間として当たり前だけれど、神への信仰という点では正しくない。(自分にとって)良いものは当然のように受け、そうでない場合は神を責め、あるいは良いものであるかのように捏造する。常に良いもの、更に良いものを求め続けるその姿勢は、「繁栄の神学」(この表現は嫌いだけれど)にも通じる。

 この信仰の在り方について突き詰めると、「自分にとって都合の良いように神を利用する」という姿勢にたどり着く。自分にとって良いこと(だけ)を語ってほしい、預言してほしい、という姿勢については、聖書は複数箇所で警告しているけれど。

 あるいは、「従いがたいことを語られた」と言うかもしれない。不本意だけど語られたから従順するしかない、と。しかし、それが立派な信仰かどうかは、案外判断が難しい。その「従順」が、実は本人にとってまんざらでもない選択かもしれないからだ。または「従いがたいことに従う自分」をアピールすることが目的かもしれないからだ(「すごい信仰ですね」と称賛されたいのだ)。

 体験主義信仰者らがよく言うのは、「自分の思いでは動かない。神の言葉によってのみ動く」というような台詞だ。それは自分自身や後輩らへの教示として語られる。いかにも敬虔に聞こえる。
 けれど彼らが「神の言葉」と呼ぶものは、結局のところ「自分の思い」であることが多い。「そう心に強く感じた」とか「そう語られた(気がする)」という感覚頼みが、彼らの語られる方法だからだ。あるいは「ある聖書箇所が示された」と言うこともあるけれど、それにしたって感覚頼みであることに変わりはない。多くの聖書箇所を知っているのは素晴らしいことだけれど、その知識は「こう語ってほしい」という無意識的な願望に、強く影響されるからだ。
 そして、そういう感覚頼みで「語られる」のは、やはり心が根本的に欲している事柄に他ならない。つまり自分の思い・願望・欲望などだ。彼ら自身はそんなこと決して認めないだろうけれど。

 一個人、あるいは一般信徒がそのような信仰を持つのは、「残念でした」ということで済むかもしれない。けれどこれを教会のリーダーが持ってしまうと悲惨だ。教会政治の在り方にもよるだろうけれど、教会全体がリーダー個人の願望に振り回されるからだ。そしてそれに歯止めが効かないとしたら、行き着くところまで行くしかない。そしてその結末は、確実に誰かを不幸にする。私たちの心にある隠れた願望が全て実現したらどうなるかを考えれば、誰もそれを否定することはできないだろう。

 体験主義信仰に、自分の都合の良いように神を利用する信仰。間違いには間違いが重なるものなのかもしれない。

2014年5月27日火曜日

「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」という図式に固執するクリスチャン

 体験主義的クリスチャンは、日常の良い出来事を、何でも「神の祝福」と捉える傾向にある。
 たとえば宣教旅行に行くとき格安のチケットが偶然取れたとか、集会に遅れそうな時たまたま知人の車に拾ってもらえたとか、病院での手術が無事終わったとか、そういう自分にとって都合の良いことは全て神の祝福で、「神様感謝します」と言う。

 それは非常にポジティブな姿勢で、何でもかんでも悲観的に取るより全然いい。感謝することも大切だ。それに神は「全てを益に変える」(ローマ8章28節)ことが可能だから、クリスチャンに起こることは広義には、全てが良いことになるはずだ。だから上記のように言うのは間違いではない。

 しかしそういう体験主義者らを見てみると、「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」という図式に固執しているように思える。上記のチケットとか知人の車とかの例を見ても、そういうことはクリスチャンにだけ特別に起こることではない。多くの人がそういう「ラッキー」を日常的に体験しているし、そういうのをいちいち必然とは言わない。
 それを「神の祝福」と呼ぶのは確かにクリスチャンの特権であるけれど、何でもかんでも「良いこと」「奇跡的なこと」「不幸中の幸い」に変換しようとするあまり、神からの特別なものと、そうでないものとを区別できなくなっているような気がする。

 しかしそれならまだ可愛いほうだ。ひどい場合は、捏造してでも「良いこと」を作り出そうとする。
 たとえばある牧師は「霊の戦い」が好きで、しょっちゅうあちこちで「悪霊追い出し」とか「場所のきよめ」とかをやっている。そして祈っていて風が吹いたら「聖霊の風だ」と言い、山中でワシが現れれば「勝利のしるしだ」と言い、林道を這っていくヘビを見たら「悪魔が逃げ出した」と言う。もはや何でもありではないか。

「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」というのは基本的に間違っていない。けれど、じゃあ「良くも悪くもないこと」とか「自分の都合に合わないこと」、ひいては「悪いこと」は、神からのものでないのだろうか。ヨブが感謝したのは、物質的豊かさに対してだけだっただろうか。
 私たちは良いも悪いも含めて神から受けているはずだ。自分の都合に合わないことや意に沿わないこともひっくるめて、全てを感謝して受けるのが信仰のはずだ。取捨選択による感謝は、単なるワガママでしかない

 もちろん体験主義者らも、苦難を通った証をする。しかし彼らの話はだいたいがハッピーエンドに終わる。「こんな苦難がありました、しかし、後にはこんなに祝福がありました。ハレルヤ」
 しかしそれは苦難が解決されたから言えるのだ。あるいは、解決可能な苦難だから言えるのだ。

 私たちが受ける苦難というのは、解決されるものばかりではない。パウロの「トゲ」のように、嫌でも生涯付き合わねばならないものもある。それに時に絶望しながらも生きていくのが、人生であり信仰なのではないだろうか。だからこそ、その「信仰」を「希望」と呼べるのだと私は思う。

2014年5月25日日曜日

神様を「王」として迎える信仰、「僕」として使う信仰

 神様との「親しさ」をアピールするクリスチャンがいる。
 たとえば、「探し物がどこにあるか祈ると、神様が必ず教えてくれる」とか、「わからないことがあると、神様がすぐに教えてくれる」とか、「神様が食卓を整えてくれる(幻じゃね?)」とか、そんな具合だ。そして「神様ってホント優しい方」と言う。それはそれで間違いではないけれど。
 
 しかしそういうアピールは、「探し物を見つけてくれる」という言い方の通り、神様を都合のいい「召し使い」と思っている気がしてならない。それは「親しさ」と言えるのだろうか。昔「アッシー君」というのが流行った(?)けれど、そんな風に都合よく使える男の一人として、神様が存在しているみたいではないか。
 
 聖書を読むと、確かにイエス・キリスト自身が、「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」に生まれたと言っている(マルコ10章45節・新改訳)。ヨハネの福音書の最後のシーンには、キリストが弟子たちのために食事を整えるという描写がある。
 しかしこの「仕える」というのは、根本的には、人の紛失物を探したり、困った時に何かしたりという「アッシー君」になる為ではない。同じ文脈にある通り、「自分のいのちを与えるため」だ。
 
 人間よりはるかに高次の存在が、人間より低くなって下さり、仕えて下さった。そこに神の愛がある。しかしそれは神の一側面でしかない。2000年前、キリストは確かに「僕」として来られたけれど、今度は「王」として来られる。しかし彼らは、毎週神を礼拝しているようだけれど、いまだにこのキリストを「僕」として扱っている。しかもそれを神との「親しさ」だと勘違いしている。「探し物が見つからない。神様どこにあるの?」
 
 神は「十字架にかかる」という苦しみを通して、私たち人間の都合に合わせるという姿勢を見せて下さった。しかしそれは、私たちもそれに倣って自分自身を神に捧げたり、自分の都合より誰かの都合を優先したり、という生き方ができるようになる為だ。いまだに神を十字架にかけ続け、自分たちの都合に合わさせ、思い通りに動かす為ではない。そういう大きな勘違いが、この「探し物を見つけてくれる」という発言の背景にあるような気がしてならない。
 
「今日は神様とデート」みたいな言い方で、彼らは今日も妙な「リア充自慢」をしている。そう言われている神様ご自身はどう思っておられるのだろうか。もちろん「僕」として扱われても、人の都合に合わさせられても、神様はあたたかい目で見ておられるだろうけれど。

2014年5月24日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第31話

 若い賛美奉仕者らのリハーサルもようやく終わった。最後、溝田牧師は微笑みを浮かべながら、「だいぶ良くなったな」と称賛の言葉を述べた。
「みんな、これは主のための訓練なんだ。厳しいこともあるだろうけれど、その分みんな成長するんだ。賛美はダラダラと惰性でするものではない。それは主が悲しまれることだ。だから私たちはいつも本気で、全力で、主を賛美し礼拝するのだ」
 そう言って牧師は、奉仕者一人一人をハグして回った。さっきまでビクビクしながら奏楽していた子らも、安心した顔になって牧師をハグし返した。中には涙を見せている子もいる。
「よし、じゃあ礼拝前にみなで祈ろう」牧師にそう言われ、奉仕者らはゾロゾロと会堂を出ていく。時計を見ると、礼拝まで残り15分ほどだった。一般の信徒らが、続々と集まりつつあった。

 賛美礼拝はいつにも増して熱かった。牧師から直接指導されたこともあってか(あれはどうやら毎週のことではないようだった)、若い奉仕者らは力の限り賛美していた。プレイズでは飛び跳ね、ワーシップでは両手を挙げ、涙を流し、叫んだ。合間の祈りも激しかった。会衆もそれに感化されたのか、熱心に賛美していた。

 賛美の後、長い祈りの時間が始まった。「主に応答する者は前へ」そう牧師に勧められ、ほぼ全会衆が、講壇前に集まった。折りたたみ椅子が撤去され、ちょっとしたスペースができる。奏楽が爆音で流れる中、皆大声で祈っている。キマジメくんもその中にいた。
「どうかこの献身を導いて下さい。両親の心を動かして下さい」
 そんな風に祈った。
 牧師が会衆の中を巡り、一人一人に手を置いて祈っている。キマジメくんの番になり、額に牧師の熱い手が置かれた。「恐れないで進みなさい、と主が言われる!」という牧師の大声。
 とたん、キマジメくんは立っていられなくなって、その場にくずおれた。主がまた語られた、と思った。主が自分を励まし、献身へと導いておられる、と。
 会衆の大声の祈りが続く中、キマジメくんは跪いて泣いた。

 賛美と祈りだけで2時間が経過していた。牧師のこれまた長い祈りが最後にあって後、ようやく「みなさん席に戻りましょう」と着席を勧められた。折りたたみ椅子が戻され、会衆は泣いたり笑ったりの余韻を残しつつ、席につく。
「ではメッセージを始めましょう」
 今日のメッセージはずばり、「献身」についてだった。マタイの福音書19章29節が開かれた。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(口語訳)
 私たちは主を第一とし、主に仕えるために、時として大切なものを捨てなければならない。それは両親や兄弟、子や孫かもしれない。そしてその時、私たちは非常な苦痛を通らねばならない。しかし、そうやって主にお仕えする時、失ったものが幾倍にもなって戻ってくる。だから捨てることを恐れてはならない、という内容だった。

 キマジメくんは途中から震えだした。なぜこうも、自分にとってタイムリーなメッセージが語られるのだろうか。やはりこれは主からの励ましとしか思えない。
 そして、やはり自分は献身すべきだと思えた。経済的な心配があるとか、大学を辞めることで両親と揉めるかもしれないとか、そういう不利に思える状況を恐れてはいけないのだ。たとえ両親を捨てることになったとしても、主が幾倍にもして戻してくださるのだ、と。
 そう思うと、キマジメくんは今すぐにでも実家に電話したい衝動にかられた。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年5月23日金曜日

日本で子どもに「クリスチャン教育」をする難しさ

 クリスチャンの親であれば、子どもに「クリスチャン教育」を受けさせたいと願うのは、自然なことであろう。イエス・キリストを神と信じれば天国に行ける、というキリスト教教理を子どもがしっかり身に着け、良い人生を送り、いずれは天国に行く、それを親は願うからだ。そういう、子どもにも自分と同じ信仰を持ってほしい、その信仰に留まってほしい、という思いが、自ずと親を「クリスチャン教育」へ向かわせるのだと思う。
 
 事実、十数年前に日本各地で少数ながら「チャーチスクール」が始まった頃、遠隔地にも関わらず子どもを入学させる親が少なくなく、学校見学に訪れる家族も後を絶たなかった。一部のキリスト教メディアには「日本の教育界に革命をもたらす」等と取り上げられ、関心の高さがうかがわれた。信仰の継承を願うクリスチャンにとって、チャーチスクール興隆の流れはまさに朗報であったろう。
 
 そういう親の心情は想像に難しくない。子どもの将来を想う、純粋な愛だ。しかし今にして思うのは、(結果論かもしれないけれど)その流れに飛び付く前に、十分な検討が必要だったのではないか、ということだ。
 
 これは一口に語れるほど簡単な話ではない。チャーチスクールは言うなれば、日本でまだ全然確立されていない「クリスチャン教育」を始めようという、それ自体にパイオニア的精神が必要なチャレンジだった。それだけに検討すべき課題が沢山あった。そしてそれに負けない勢いというか、希望みたいなものは確かにあった。けれど、それらの課題についてよくよく検討しないまま、「クリスチャン教育」というイメージだけに賛同する人が多かったように思う。
   
 それらの課題の一つを挙げるとしたら、クリスチャン教育の本質とは関係ないけれど、当時の状況として(今も全く変わっていないけれど)「マイノリティであること」がある。
 
 日本のクリスチャン人口は、総人口の1%未満だと言われている。つまりそれだけ超少数派ということで、その子弟らがスクールに集まっても、ものすごい小規模になる。実際、「大きい」と言われるチャーチスクールでも総生徒数50名程度、1学年にすると数名とか、1名だけとかにもなる。小さいところだと全生徒で数名だ。
 そういう少人数制が一概に悪い訳ではない。けれど、いわゆる「マイノリティであること」に、キリスト教独特の信仰も絡んで、そこはある種「特殊な世界」となる。その世界に身を置けば置くほど、そこから受ける影響は大きなものになる。
 具体的に、どんな世界なのだろうか。
 
■狭い世界
 まず、そこはとても「狭い世界」だ。親や教師が公立学校や周辺地域を「この世」と呼んで隔離気味にしてしまうことが、その原因でもある。
 子どもらは「井の中の蛙」みたいになってしまい、外の世界で何が起こっているのか、同世代がどんなふうに過ごしているのか、良いも悪いも含めてほとんど知ることがない。教えられるのは、自分たちがどれだけ恵まれているか、どれだけ守られているか、どれだけ特別かという、優越感を助長するような事柄ばかりだ。するとどうしても、情報統制的な環境になってしまう。子どもらは「この世」の中に生きているのに、どこか別世界、一般人にはわからない特別な世界の住人だと思うようになる。そして変に「この世」を蔑んだり、上目線で見たり、逆に恐れたりするようになる。そうなると、将来自分達が出ていくべき、生きていくべき「この世」にうまく適応できなかったり、大きなギャップに苦しんだりするようになる。
 
■甘い世界
 次に、そこはとても「甘い世界」だ。と言っても、指導が厳しくないという意味ではない。中には厳しい教師もいるだろう。しかしチャーチスクールは、少なくとも現段階では、根本的に生徒に厳しくしきれないようになっている。少人数であるから、そしてキリストの愛を実践すべき場所であるから、生徒らは一人一人が非常に注目され、可愛がられ、丁寧に保護される。そしてよっぽどのことがない限り、何をしても許される。
 そこでは多くの場合、「厳しさ」も限定的だ。たとえばテストの結果がいつも悪いとか、遅刻や欠席ばかりで出席日数がぜんぜん足りないとか、そういう理由で退学になることはまずない。なぜならそういう客観的な数字や基準で一律に評価されるのでなく、「この子は〇〇だから」という個別対応に流れてしまいやすいからだ。そしてその子の頑張れない背景とか、過去の傷とか、そういうものが必要以上に考慮され、「癒しが必要だ」とか、「今は勉強など後回しだ」とか、「ありのままでいいんだ」とか、そういう話になる(それはそれで正論だけれど)。その結果、学業の不足や、学校生活の破綻が見過ごされてしまう。
 それでその子は進級できたり卒業できたりするのだけれど、その子の将来を考えるなら、あまり良いことではない。一般社会は、多くの場合、個別対応などしてくれないからだ。
 
 これはもちろん極端な例だけれど、同様の「甘い」構造は、どの子に対しても当てはまる。
 
 もちろん子どもと言っても様々で、一概には言えない。現にチャーチスクールのような環境が必要な子は確かに存在する。けれど、少なくとも現段階の日本では、絶対的にチャーチスクールの方が教育成果が上がるという子は、そう多くはないと私は思う。
 
 こうは言っても、「クリスチャン教育」そのものが問題なのではない。言うなれば、現在の日本がそれに適していない、ということだと思う。クリスチャンが超少数派であり、かつチャーチスクールが法的に認められていない状況の中、あえてそれを選ぶのは、大変な逆境に身を投じることだ。しかもその結果が、上記のような「この世に適応しづらい人間」を育ててしまうことになるとしたら、本末転倒であろう。
 
 マイノリティであることは何も悪いことではない。けれど苦労があるのは確かだ。そして大人が自ら進んでその苦労に飛び込んでいくのは、まったくの自由だ。けれどその苦労に、何の選択権もない子どもを投じるのは、いかがなものだろうか。

2014年5月21日水曜日

「教会債」について思うこと

教会債」なるものを聞いたことがあるだろうか。
 簡単に言うと「国債」の教会版みたいなものだ。教会運営や、何かで多額の必要がある時などに、信徒らに教会債を買ってもらってお金を集める手法だ。債権者には証書が渡され、教会が何年かかけて、返済していくことになっている。

 ある教会はこれをけっこう盛んに発行していて、信徒にとって日常的なものとなっている。発行数が多いというより、それだけ新しいことを次々始めているという感覚だ。それだけ教会の返済義務も膨らんでいく。けれど牧師に言わせれば、それだけ事業が増えるのだから、増収していくはずで、何ら問題ないということになる。
 理屈ではその通りだろう。

 しかし実際には、そうそう増収などしない。たとえば、教会債収入を頼りに新会堂を建てる。けれどそれに応じて信徒数が劇的に増える訳でもない。逆に維持費がかかり、かえって教会会計を圧迫することにもなる。ほかに新規事業を始めるにしても、素人集団が片手間でやって成功するほど、世の中あまくない。神からのビジョンだと言って始めた事業も結局のところ頓挫したり、尻切れトンボになったりする。後に残るのは、教会債の返済義務だけだ。

 もっとも、そのあたりは教会債というシステム自体の問題ではない。教会リーダーらの無計画、無謀な判断という問題だろう。

 私自身は教会債というシステムにはさほど否定的ではない。けれど教会がそれを扱う方法について、悪いケースばかり目にしてきた。
 たとえばある教会は、教会債を発行したはいいけれど、結局返済のメドが立たず、信徒に待ってもらっていた。すると何人かの信徒から、「あれは献金したことにします」という返済免除の申し出があり、完済となった。リーダーはすました顔で、「ハレルヤ。今回の教会債も主にあって無事に完済となりました」などと報告した。いやいや、そこには多くの犠牲があるでしょう、という話のはずだ。

 借りたものは返すという、人として当たり前のことができず、さらに迷惑をかけた人々に対して一言の謝罪もないとしたら、その教会の在り方には深刻な問題があるだろう。

 もう一つ、教会債というシステムそのものは、良くも悪くもないものだろう。けれど、今ないお金で何かを早急にしようとするのは、いわゆる借金、クレジットだ。そこまでしなければならないほど、それが重要で危急のことなのか、事前にもっと吟味すべきだろうと思う。リーダーの提案だからと鵜呑みにするのでなく、そういうことを考えられるのも、信徒の役割だろうと思う。

2014年5月20日火曜日

「ミニストリーがうまくいっている時こそ注意」と言う人には注意すべし、という話

「ミニストリーがうまくいっている時ほど注意しなければならない」と、ある種のクリスチャンらは言う。
「神に用いられた」という気持ちが傲慢を生み、その傲慢を悪霊に利用されるから、というのがその理屈だ。だからいつもへりくだって、悔い改めることから始めなければならない、という。一見もっともらしく思える。

 けれどこの発想の根本には、「どれだけ神に用いられたか・どれだけ目立ったか」という能力主義がある。だからこそ、「用いられ過ぎて傲慢になってしまった」「悪霊の攻撃の対象になるほど大きく用いられた」というようなアピールになるのだ。
 たとえばビジネスマンが、「今回これだけ大きな商談をまとめたよ。でもその分こんな苦労があったよ」と言えば、それは自慢したいのだ。上記のクリスチャンらのアピールも、本質的にはこれと同じだ。

 あるいは「成果を自慢して何が悪い」と言われるかもしれない。ビジネスの世界で偉業を成し遂げたのなら、もちろん自慢していいだろう。しかし若手のベンチャー企業の苦労人の社長なんかは、かえってそういう自慢話はしない。一代で会社をある程度大きくできたのだから、大いに自慢しても良さそうなものだけれど、なぜだろうか。

 それにクリスチャンとくれば、品性の問題もあるから、自慢話は避けなければならないだろう。
 また、仮に自慢をするとして、彼らクリスチャンは何を自慢するのだろうか。「祈っていたら天が開かれた」とか、「大勢の会衆にメッセージできた(だから?)」とか、「地域のために祈っていたら闇が打ち破られた(検証できないけどね)」とか、いまいち凄さがわからないものばかりだ。

 そういう自慢にもならない自慢話を、傲慢が云々、悪霊が云々というオブラートに包んでこれみよがしに語るのは、何とも痛々しい。それに気づいていないところが更に痛い。

 もちろん神に大いに用いられて、誰の目にも明らかな凄い奇跡の数々を起こしたとしたら、傲慢にもなるかもしれない。そういう時こそ、悪霊の攻撃を心配したらいいだろう。
 けれど、「誰の目にも明らかな奇跡」が起こったとしたら、それは神によるものであり、自分の力でないことも明らかなので、そもそも自慢しようということにはならないだろう。

「神に用いられた時」というのもそれと同じで、自分の力とか信仰とかによるのではない。だからそもそも自慢するとか、傲慢になるとか、そういう種類の話にはならないはずだ。だから彼らの「用いられた時こそ注意」という主張には、かなりの矛盾があるということになる。気づいていないようだけれど。

「キマジメくんのクリスチャン生活」の解説と体験談の募集

 今回は私事として書くので敬語です。
 
 連載小説「キマジメくんのクリスチャン生活」を書き始めて30話になりました。読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。
 こういうのが続くのが良いのか悪いのかよくわかりませんが、まだまだ書きたいことがあります。大変お粗末な文章で恐縮ですが、これからも暖かい目で見守っていただけたら幸いです(時々感想などいただいて、とても嬉しく思っています)。
 
 なぜこの作品を書き始めたかというと、いつもの論文調の記事では表現できないことが、沢山あると気づいたからです。
 論文調は事実を基に書かなければなりません。が、あまり直接的に書くのは憚られることも少なくありません。そこでフィクション小説です。完全なるフィクション、私が勝手に作り上げた世界と人物と物語。そこでなら、かえって私が表現したいことをそのまま書けるのではないかと思いました。キマジメくんが遭遇するいろいろな信仰モドキの理不尽、驚き呆れるような出来事を見て、「そんなことある訳ねえだろ」と笑い飛ばしていただいても構いませんし、「ありそうだな」と共感していただいても構いません。 ただ、内容は私の実体験や見聞きした話をいろいろ再構成し、あるいは組み合わせ、あるいは脚色したものばかりです。そういう意味で、まったくのフィクションという訳でもありません。恐いことに。
 また、フィクションだから大袈裟に書いているのだろう、と思われるかもしれません。そういう部分もあります。が、中には控えめにしなければならなかった部分もあります。これまた恐いことです。
 それと、キマジメくんの心境に寄り添って書いていますので、彼の信仰を私が肯定していると思われるかもしれません。が、それはまったく逆です。かなり冷淡な目で、我が主人公を分析しているつもりです。それが伝わらなかったとしたら、それは私の認識力や文章力の不足でしょう。どうかご容赦ください。
 
「キマジメくんのクリスチャン生活」はこれからも細々と続けていくつもりです。ご意見ご感想等あれば、ぜひお聞かせください。また今後、さかのぼってエピソードごとの簡単な「解説」を書いていきたいと思っています。本筋の理解の足しになればと思っています。
 
・体験談を募集させていただきます
 
 最後に、キリスト教信仰に関することでこんな理不尽な目に遭った、これはおかしいのではないか、というような体験談を募集させていただくことにしました。些細なことでも構いませんので、ご投稿いただけたらと思います。下記に要綱を記します。宜しくお願いします。
 
・どの記事でも構いませんので、コメント欄にご記入下さい。初めに「体験談」と明記ください。
・体験談の投稿は公開されませんのでご安心ください。
・さしあたり、投稿は純粋に参考にさせていただこうと思っています。が、何かの形で利用させていただきたい場合には、事前にご相談させていただきます。投稿の際には、最後に連絡可能なメールアドレス等をご記載ください
 
 皆様のご投稿をお待ちしています。

2014年5月18日日曜日

牧師を非難してはいけないという「意見」について思うこと

「油注がれた者たちに触れるな」という聖書箇所を引用して、「だから問題がある牧師であっても非難してはいけない」という記事を書いている人がいる。彼がもう一つ根拠とするのは、旧約のサウル王とダビデの関係だ。
 
 サウル王はダビデを妬み、何度も殺そうとした。しかし追われる身のダビデが、逆にサウルの寝首をかく機会を得る。けれど、彼はそうしなかった。理由は、上記の「油そそがれた者たちに触れるな」(第一歴代誌16章22節・新改訳)にある。神が選んだ器に手をかけることは、神を侮り、逆らうことになる。それでダビデは何度も繰り返される迫害を、信仰をもって耐え忍んでいく。
 その後、サウル王は紆余曲折を経て戦死する。ダビデは後を継いで王となった。
 
 ダビデのケースはそれで良かったのだろう。では現代、問題ありの牧師に信徒が苦しめられていたら、どうすべきだろうか? その人いわく、「牧師自身が自分の問題に気づくように祈るのです」とのこと。
 ずいぶん悠長なことを言っている。本当にそれでいいのだろうか。
 
 ダビデが「主に油注がれた方に、この手を下したくはありません」と言ったのは、「殺したくありません」という意味だ。自分を殺そうとする相手でさえ、神の選んだ人なのだから殺したくない、という気持ちだ。これと、現代の牧師の間違いを指摘するのと、どう関係があるのだろうか。
 もちろん牧師を殺したいと言っているのではない。牧師の間違っている(と思う)ところを、間違っているんじゃありませんかと言いたいだけなのだ。ものすごく論理が飛躍しているのに気付かないのだろうか。
 
 だいいち、なぜ旧約からこういう限定的なケースを引っ張ってくるのだろうか。他の箇所を見ると、問題ありな王たちに反旗を翻すケースが少なからずある。その中で唯一「権威者に手を出さなかった」ダビデだけを引用するのは、そういうメッセージを意図的に強調し、牧師の権威を必要以上に高めたいからとしか思えない。
 それに、旧約聖書からしか引用しないのは、多くの場合バランスを欠くことになる。新約も見るべきだ。たとえばパウロはどうだろうか。大使徒であり大先輩であるペテロの正しくない姿勢を、彼は公に非難しているではないか。
 牧師を非難することが正しくないなら、パウロも正しくない、ということになる。
 
 こういう、聖書の一部分だけを引用して自分の主張を通そうとするのはフェアでない。というかズルい。
 それに、聖書がどう言っているかに関わらず、またクリスチャンかどうかに関わらず、苦しんでいる人に「祈ってればそのうち解決するよ」と平気で言えるのは、人の気持ちが全然わからない証拠だ。そういう人が神の愛云々とか書いても説得力がない。ただ牧師を擁護したいだけなのだろう。
 
 自分がひどく苦しめられ、のっぴきならない状況に陥った時、助けを求めた相手が「祈ってれば大丈夫だよ」と言ったらどうだろうか。それを想像してみることが、人の気持ちを理解する第一歩だと私は思う。
 
追記)
 現代は「万民祭司」の時代であり、「油注がれた者」は牧師やリーダーたちだけでない。全てのクリスチャンがそうだと言える。

2014年5月16日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第30話

 翌日の日曜日、礼拝に行く準備をしながら、昨夜の懸念を思い出した。大学をやめることについて、両親に報告する件だった。どう話を切り出すか、想像してみた。すると頭が考えるのを拒否しているようで、何一つ進まなかった。
「きっと疲れているからだ」
キマジメくんは自分自身にそう言い聞かせ、なにも急いで報告することでもない、まだ退学届だった出してないのだから、と自分を納得させた。
 実際、疲れているのは間違いなかった。昨日は一日中、マジカ先生の聖会で会場係の奉仕をしたのだし、その後教会で溝田牧師とも話したのだ。今日は今日で、朝早くから礼拝に行こうとしている。若いとはいえ、疲労がたまるのも無理はない。
 それに、礼拝で神様に触れられれば、何か良いアイディアが与えられるかもしれない。それから、実家に電話すればいいのだ。
 そう思うと何だか気分が良くなった。キマジメくんは意気揚々と、アパートを出た。

 教会には少し早く着いてしまった。けれど会堂では、すでに賛美の奉仕者らが、リハーサルを始めている。ギターやドラムの派手な音が耳をつんざく。ステージでは赤や青の照明が点滅し、スモークがモクモクと上がっている。外のさわやかな日曜の朝とは、まるで別世界だ。
 賛美のメンバーは皆若い。キマジメくんと同じか、少し上くらいだろう。まだあまり話したことはないけれど、どの子も感じがよく、礼儀正しかった。キマジメくんが入っていくと、皆会釈で挨拶してくれた。

 特にすることのないキマジメくんは、席について、ディボーションをすることにした。聖書の今日の箇所を開き、しばらく目を閉じて祈ってから、読み始めた。ディボーションは神様に語られる大切な時間だと教えられている。心を静かにして、神様だけに思いを向け、オープンな心で聖書を読むのだ、と。しかし集中しようとすればするほど、楽器の音が耳に入ってきた。同じ行を何度も何度も読み返すのだけれど、いっこうに内容が入ってこない。自分はまだまだ未熟なのだな、と思い反省していると、ふと、会堂の雰囲気が変わった。音が急に止んだのだ。そして足音が聞こえた。キマジメくんが反射的に目を開けると、会堂に溝田牧師が入ってきたところだった。
 奉仕者らが、一斉に「おはようございます」と大きな声で挨拶した。牧師は頷いてそれに応えると、中央あたりの座席に、ドカッと腰を下ろした。「じゃあ聞こうか」牧師はそう言いながら、両足を前の座席の背もたれに投げ出して、ふんぞり返った。
 奉仕者らに緊張が走るのが、キマジメくんにも見てとれた。それでも司会の子が元気よく挨拶し、礼拝の最初に話すべき台詞を流暢に話すと、最初の曲が始まった。アップテンポのプレイズ・ソングだった。
 キマジメくんは音楽はまったくの素人で、上手下手の判定は全然できない。が、よくまとまった、卒のない演奏だと、自分なりに判断していた。けれど曲の途中で、溝田牧師が手を振った。演奏が止んだ。
「あのさあ」牧師は言う。「あ、ちょっとマイク持ってきて」
 音響係の男の子が、走ってワイヤレス・マイクを持ってくる。牧師はそれをつかむと、続けた。「あのさあ、全然勢いがないんだよ、勢いが! 気持ちが弱いんだよ、ダレてるっていうかさあ! 礼拝は惰性じゃねえんだよ、本気で、命懸けでやれ! そんなんじゃサタンを打ち破れないだろうが。もっとこう、全員一丸となって、本気の思いを神様にぶつけろよ! でないと打ち破れないだろ!」
「はい!」若い子らが大きな声で返事をする。「すみませんでした!」
 牧師はなおも続ける。「あのさあ、賛美で打ち破ってくれないと、後からメッセージする方は大変なんだよ。はじめっから重たい空気の中で始めなきゃならないんだからさあ。メッセージだけで打ち破るの、大変なんだよ? まあわかんないだろうけどさあ」
「はい、すみませんでした」司会の子がまた謝る。
「じゃもう一回最初から」と牧師。
 また演奏が始まった。さっきより音が大きく、勢いもあるようだった。けれどまた牧師の声がかかった。「ダメダメ! 変わってない! もう一度!」
 奉仕者らの謝罪があり、また演奏。また牧師の声。「お前ら何やってんだよ! 全然わかってねえじゃねえか!」
 また謝罪。また演奏。また牧師のストップ。

 そんなことが繰り返され、キマジメくんは何だかいたたまれなくなった。けれど、これが訓練というものか。溝田牧師は常々こう言っている。「私は皆を愛しているからこそ、心を鬼にして厳しく訓練するんだ。これは皆のためであり、主のためでもある」
 であるなら、仕方がないというか、通らねばならない道なのだろうか。神様のためなら仕方がない。神様が払って下さった犠牲を思うなら、私たちが払える犠牲などタカが知れている(というのも、溝田牧師の受け売りだった)。
 けれど、心のどこかで、賛美の奉仕者じゃなくて良かった、とキマジメくんは思った。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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教会のカルト化を防ぐためのヒント

 キリスト教会のいわゆる「カルト化」が、問題視されるようになってきている。問題提起する声も、まだまだ小さいけれど、徐々に増えてきている。この流れは歓迎すべきだと思う。

 けれど、「じゃあどうしたらいいか」という対策については、なかなか明確になっていない。私自身もそうだ。このブログでもいろいろ問題提起してきたけれど、どうしたらいいかと考え始めると、霧の中をさまようことになる。
 
 日本の「カルト化教会」の現状を具体的に知るのは難しいだろう。現在、どれくらいの教会がそういう状態に陥っているのか、あるいは危険性が高いのか、あるいは将来そうなり得るのか? 日本中の教会を片っ端から調べて回る訳にはいかないから、全容をつかむことはできないだろう。それにカルト化している教会は、外から見てそうだとわかるものでもない。

 しかし、カルト化教会の共通点みたいなものは、だんだん明らかになってきている。今回はその共通点の中から、私が特に同意している一項目を挙げてみたい。このことで、わずかでもカルト化防止対策のヒントが見えてきたらいいと思う。
 
■共通点:その牧師を指導する権威者がいない
 
 これは単立教会の宿命みたいなものかもしれない。
 何の後ろ楯もなく、支援もなく、牧師一人で開拓した単立教会というのは、いわゆる自営業型教会と言える。当然、その牧師をあれこれ指導する権威者はいなかった(助言をくれる先輩や仲間はいたかもしれない)し、今後も現れない。
 苦労して教会を開拓したこと自体は素晴らしいし、本当に頭が下がる。けれど、指導者がいないという状況は、そして全ての決定権が牧師に集中するという状況は、牧師が独断で好き勝手にやりだすという危険性を大いに孕んでいる。そしてそうなった場合、止めるものが何もない。最初はわずかだった逸脱が、どんどんエスカレートして、大きくなってしまう。やがて聖書を逸脱し、常識を逸脱し、人の道を逸脱するようになる。最後は逸脱が過ぎて不祥事をやらかし、それが発覚して教会ごと崩壊する。
 これは、カルト化教会のわかりやすい典型例だ。
 
 けれど、じゃあ単立教会はダメで、教団教派に属していれば大丈夫かとういうと、決してそんなことはない。
 ここで私が書いてる「指導する権威者がいない」というのは、形式的な意味でではない。たとえ牧師を指導する立場の人間がシステム上いたとしても、それは何の保証にもならない。牧師がその指導を聞き入れないとか、無視しても通ってしまうとか、システムがちゃんと機能していないとかであるなら、その指導はないも同然だからだ。
 
 たとえばある単立教会の牧師は、内外の有名牧師や宣教師を指して、「彼らは自分のメンターだ。私は必要に応じて彼らから指導を受けている」と言っていた。要するに、自分はちゃんと偉い人から指導を受けているんだぞ、というアピールをしていた。
 けれどその「メンター」とやらが来るのは、年に1回とか数か月に1回とかだ。普段の牧師や教会の様子については何も知らない。ただ来た時に、牧師のみから話を聞かされるだけだ。
 だからそこに本当はどんな問題があるかとか、信徒らが本当はどう思っているかとか、そういうことはメンターの耳にはいっさい入らない。それで、一体どんな指導ができるのだろうか
 
 牧師を指導するには、その人格やら能力やらといった諸々をある程度正確に把握していなければならないし、どんな教会を形成しているか、ちゃんと見ていなければならない。間違っていることは間違っていると、ハッキリ言えなければならない。そしてそれを改めさせる実行力が、なければならない。
 
 つまり、構造的にその牧師に「上の人間」がいるかどうかが重要なのではなく、その牧師が素直に「はい」と従える、権威があって良識もある人間がいるかどうかということだ。
 
 人間とは弱いもので、牧師も例外ではない。自制にも限界がある。その自制が足りない時、確実に自分を止めてくれるブレーキ役がいるかいないかでは、結果は大きく異なる。
 教会のカルト化を防ぐには、まずは牧師の逸脱を防がなければならない。しかし、どうやって防ぐのか。それはまた別の話であろう。

2014年5月14日水曜日

権威が人に及ぼす影響は意外に大きい、という話

 いわゆる「カルト化教会」の話になると、そこの牧師が非難されるのは当然であろう。カルト化の張本人である可能性が高いからだ。しかしそこの信徒(特に大人で牧師に近かった人たち)も同様の非難を浴びることがある。「なぜ気づかなかった」「なぜ止められなかった」「何をやっていたんだ」というような非難だ。

 そういう非難を浴びせたくなる部外者の心情は理解できる。大人なら良識ある行動を取るべきだし、不正は正すべきだからだ。しかしこういうケースでそういう信徒を非難するのは、やや状況理解に欠けていると私は思う。現場を見ていないのだから当然かもしれないけれど、想像で、あるいは結果だけ見てものを言っているのではないだろうか。

 このブログでいろいろ書いてきたように、そういう教会の信仰の在り方には問題が多い。明らかにおかしなこと、間違っていることもある。「普通だったら気づくだろう」と言われても仕方がないレベルかもしれない。しかし結論から言うと、一信徒にはそれに気づけない。あるいは疑問を抱いて葛藤したとしても、最終的には、これが信仰なのだと自分を納得させるしかないのだ(この心理についてはまた別に書きたい)。それができず、牧師と衝突することを選ぶ数少ない「勇者」(と私は呼びたい)は、散々傷つけられた挙句教会を出ていくことになる。

 ではなぜカルト化に気づけず、牧師を止められないかと言うと、「信仰と称する権威主義」が強力に働いているからだ。牧師の権威は聖書に裏付けられ(こじつけられ)、どんどん強化されていく。同時に信徒らはその権威に、いつのまにか雁字搦めに縛られている。しかしそうとは気づかない。

■なぜそうなってしまうのか

 人の「性格」を、その「行動」から判断する、という人は多いだろう。たとえばAさんが人に親切にしていたら、「Aさんは優しい人だ」と評価され、そのような性格だと分類される。
 同じ理屈で、カルト化教会で牧師のそばにいた信徒らも、「カルト化に気づけない大馬鹿者たちで、牧師と一緒になって人々を傷つけた極悪人」と評価されるかもしれない。
 しかし心理学的に言うと、その「行動」がその人の「性格」を決定づけるとは必ずしも言えない。

■ミルグラムの実験に見る「行動」と「性格」の関連性(不関連性)

 ミルグラムという心理学者が行った「服従実験」というのがある。
 この実験では、「罰が学習に及ぼす影響を調べる」という名目で、被験者がランダムに集められた。被験者は教師役となり、もう一人の参加者は生徒役となる(こちらは実はサクラ)。教師役は生徒役に問題を出し、間違ったら電気ショックを与えるよう、主催者から求められている(主催者と被験者とには一定の従属関係がある)。
 生徒役はサクラで、あえて問題に間違える。だから教師役である被験者は、毎回電気ショックを流すボタンを押さねばならない。そして電気ショックは30段階になっていて、押すたびに電圧が上がる仕掛けになっている。最初は「軽い電撃」だけれど、29段目は「危険な電撃」、最後は「×××」となっていて、どれだけ危険かわからない。
 ちなみに本当に電気が流れる訳でなく、サクラは迫真の演技で苦しんでいるだけだ。もちろん被験者はそうとは知らない。自分がボタンを押すことで、生徒役に電気ショックが加えられると思っている。なお被験者がボタンを押すのを拒むと、傍らにいる主催者は、4回までは決められた台詞で、押すよう促すことになっている(つまり被験者が5回拒んだら、実験は中止となる)。
 さて、実験前に、精神科医らが結果を予想した。何の罪もない生徒役に30段目の電気ショックを流してしまう被験者は、全体の4%程度だろうと彼らは考えた。しかし結果は予想をはるかに上回り、40人中25人、つまり62.5%が、最後のボタンを押すに至った。

 行動だけ見るなら、彼ら25人はもともと極悪非道の人間だったのだと評されるだろう。しかし彼らは喜んでしたのでなく、自ら進んでしたのでもなく、止めたいと思いながらも続けざるを得なかったのだった。その背景には、「権威と服従」の構造がある。
 人の行動はその性格だけで決まるのでなく、環境・状況が大きく影響している、ということが、この実験で証明された。

「権威に逆らえないのは弱い人間だ」といって非難する意見もあるかもしれない。それはその通りであろう。弱いのが人間というものではないだろうか。

 しかしこうは書いても、そういう信徒らにまったく罪がないと言うつもりはない。彼らにもそれぞれ、取り組むべきことがあるだろう。被害者であると同時に、加害者の片棒を担がされたという点は否めないからだ。けれどそれでも、彼らが必要以上に責められるとしたら、そこには絶対的な理解の不足がある。私はそう考えている。

2014年5月13日火曜日

「霊的」解釈にご用心

「霊的」という言葉が好きな牧師がいる。信仰の話になると、「これは霊的には○○だ」「それは霊的には××という意味だ」などとよく言う。説教中には、その言葉を何度言うか数え切れない。

「霊的」と言われると、何だか奥深い感じがする。一般信徒には理解しがたい何かがあるような気がする。だから「そうですか」と、肯定的にその話を聞くしかない。たとえ疑問を差し挟もうとしても、何がわからないかがわからない。だからあまり疑問も浮かばない。仮に疑問を持ったとして、かつ牧師に質問できたとしても、やはり「霊的」云々という返答をされて、やっぱりわからない。

「霊的」という言葉の危険性は、一応それらしく聞こえ、筋道が通っているように思えるところにある。検証できないのだ。
 たとえばぺテロが水の上を歩く場面。ぺテロは「霊的」な意味では現在の私たち。水の上は「霊的」には、何の保証もないように見える現実を指す。という解釈をすると、「今主が、何の保証もないところに踏み出せと霊的に示しておられる」というメッセージになる。献身希望の人がこれを聞いたら、本当に仕事を辞めて献身してしまうかもしれない。
 また別の解釈もできる。「ぺテロは船から出た結果、溺れかけた。これは霊的な教訓で、今、船に留まれと主が語っておられるのだ」
 という訳で、転会を考えていた人が留まるよう説得されるかもしれない。

 このように、自由自在だ。何とでも好きなように言える。しかも、それは違うとは簡単には言われない。

 もちろん「霊的」なことも大切だ。けれどそれが方便として都合よく使われているとしたら、深刻な問題になる。言う方も言われる方も、この言葉には注意しなければならない。

 ではどうやって本物と偽物を見分けたらいいのか、という話になるだろう。聖書の主張に矛盾しないとか、そこにはいろいろなハウツーがあるだろうけれど、そういうのも含めて、時間をかけて検証すべきだと私は思う。
 しかし、教会で牧師から「これは主からの霊的な啓示だ」と言われたら、即座に応答しなければならない雰囲気になるだろう。そこで「検証します」とは、なかなか言えない。疑いを持っているように思われかねないからだ。その場で二者択一の判断を迫られることもある。
 けれどそれは、ある一つの事実を示している。聖書は「霊」についてよく吟味するよう言っているのに、そういう余裕を与えないということは、聖書に反している、という事実だ。
 聖書に反して突きつけられる「霊的」啓示が正しいかどうかは、誰の目にも明らかではないだろうか。

2014年5月12日月曜日

「献身」志望の子には何が必要か

「神の召し」を早くから明確に持つ子がいる。中には、たとえば学生のうちから「神様に献身して生きます」と決心している子もいる。それはそれで良いかもしれない。旧約聖書の預言者サムエルみたいな例もある。

 しかしその子の意志もさることながら、それを導く周囲の大人たちのやり方も重要だ。やはり子どもなのだから、未熟な面もあるし、生かすも殺すも大人次第、みたいな面もあるからだ。

 それで、子どもが「献身したい」と言ってきたら、どうすべきだろうか。生半可な決心でなく、本当に心底それを願っているとしたら?

 一つのケースを挙げたい。ある教会の牧師は、そういう献身志望の高校生を歓迎し、学業はもういいから教会で訓練を受けなさい、みたいなことを言う。高校を卒業してからではない。在学中にだ。それで親が信仰熱心(?)だと、「お願いします」ということになる。その子は高校生活を中途で終わりにし、教会スタッフみたいな存在になる。

 そこには「鉄は熱いうちに打て」みたいな発想がある。早く神様の役に立つクリスチャンになれるように、吸収力が高い若いうちに訓練する、というような論理だ。それは確かに効率が良いかもしれない。しかしそういう子がどんな「訓練」を受けるかと言うと、中途半端で偏った神学モドキを学びつつ、教会奉仕に駆り出される、というようなものだ。彼らが時々垣間見せる、たとえば文章力とか、漢字力とか、計算能力には、悪い意味で驚かされることがある。

 もちろん学問が絶対必要だとは言わない。けれど、最低限持つべき学力水準というのはある。広い見識や歴史観は、人格形成に多大な影響を与える。そういうことを度外視して、祈っていれば必要なことは教えられるとか、信仰があれば大丈夫だとかいうのは、無責任ではないか。

 それにクリスチャンというのは、世に出て行く存在であろう。そして良い証を立てるべき存在であろう。なのにほとんど教会内のことしか知らず、世の学生らがどんな苦労をし、就活し、就職して勤労するかを全く知らないクリスチャンが、一体何の役に立つのだろうか。

 学歴は全てではないけれど、決してバカにはできない。何度か書いているけれど、「学歴なんて大して役に立たない」と言ってサマになるのは、学歴がある人だけだ。ない人が言っても何の説得力もない。お前に何がわかるんだよ、という話になる。

 子どもが「献身したい」と言ってきたら、大いに喜んであげるべきだし、励ましてあげるべきだと思う。しかし、「その前にやることはやれよ」と言ってあげるのが、まっとうな大人だと私は思う。

2014年5月11日日曜日

成長しないと怒るのは神か牧師か

 前回は「不信仰=神を根本的に拒絶すること」という定義について書いた。その定義に比べて、現在の(おそらく一部の)教会では、その都度その都度の神の「導き」を信じるか信じないかが信仰・不信仰の分かれ目になっていて、信徒は不信仰のレッテルを貼られないようにと恐れながら信仰生活を送っている、というのが前回の内容だ。

 今回はそういう信仰・不信仰の問題に関連のある「成長」について書きたい。

「教会成長」という運動が日本でも語られるようになって久しいけれど、依然としてそのような「成長」を目指して頑張っている教会が多いように思う。どんな成長を目指しているのかは教会によっていろいろあるだろうし、成長そのものは悪いものではない。だから「成長」を掲げる教会が良いとか悪いとか言うつもりはない。

 けれど私が知っている教会で言うと、「成長」というのはクリスチャンにとって「義務」である。そしてその義務を果たそうとしないことは、明確に「罪」だとされている。アダムとエバに与えられた神様からの命令、「埋めよ、増えよ、地を満たせ」は明らかに成長することを命じているではないか、という理屈が、そこにある。

 まあそういう解釈を個人がするのは自由かもしれない。けれど、それを信徒に押し付け、「成長しなければダメだ! 恐れていてはいけない!」とスパルタ的に教育(?)するのは教会としてどうなのだろうか。

「成長」と聞いて私が連想するのは、昨今のビジネス本の数々である。そこには社会人としての成長とか、どうやって成長するべきかとか、リーダーシップとは何かとか、そういうテーマが溢れている。最近の流行のような気がする。
 それらの書籍はビジネスマンには役立つものだろうし、読みたい人は自由に読んで実践すればいいと思う。

 けれど上記のような教会は、そういうビジネス・マインドを教会に持ち込んで、信徒を使って「キリスト教界のしあがり」を試みているような気がしてならない。
 たとえば若い信徒らが「訓練」と称する牧師の指導の下、営業マンみたいな格好をさせられ、プレゼンの練習をさせられ、しゃべり方やお辞儀の仕方を仕込まれ、そして教会の事業に駆り出されていく。一つのイベントが終わると「反省会」が開かれ、あれやこれやとダメ出しされる。怒られる。怒鳴られる。散々しごかれた後、「これも訓練なんだ。主のためだ。報いは大きい」と労られる。そして翌日、新たな「成長」目指して新たな活動が始まっていく。

 なんでそんな指導に従うんだ、という疑問があるかもしれない。しかしそこには「成長しないことは罪なのだ」という前述の理屈がある。信徒らは逆らえない。真面目であればあるほど。

 しかしそれは「成長の押し売り」でしかない。余計なお世話であろう。だいいちビジネスマナーを学んだところでクリスチャンとして成長する訳でもない。
 それに本当に成長しないことが罪であり、神に罰せられるとしたら、いったい誰が救われるのだろうか。少なくとも私は救われない。
 これもまた、牧師の自己実現にうまく付き合わせれているだけだ。

2014年5月10日土曜日

「不信仰」を許さないのは神か牧師か

 村上密先生のブログに、「不信仰」というタイトルの記事がある。

 ここで引用されている、松木治三郎氏の「不信仰」の定義に、目から鱗が落ちた。
 いわく、「不信仰は、信仰の否定より以上、むしろ信仰の拒絶、神の約束の放棄である」

 つまり、不信仰とは、その都度その都度の神の「導き」を信じるか信じないかという、神を信じているという前提に立った話でなく、この神を根本的に拒絶する、すなわち信仰を捨てる、という究極的な次元の話だということだ(と私は解釈した)。だからこの場合、「不信仰=クリスチャンを辞める」ということになる。

 この定義の是非はともかく、これは私にとって、今までにない視点だった。

 私が知っている教会では、この「不信仰」はよく使われていた。むろん、松木氏の言うような意味でではない。そこでは神様を確かに信じている人々が、この〇〇という神の「導き」を信じるか、この××という神の「語りかけ」を信じるか、という選択をしょっちゅう迫られている。そして信じないなら、「不信仰」の烙印を押されてしまう。

 確かに、神様を信じているのにその「語りかけ」を信じられない、というのは矛盾している。理屈から言えば「不信仰」と言われても仕方がない。けれど話はそう単純ではない。

 たとえば、その教会は日本を救うのに不可欠な存在であるとする(牧師がそう言っているとする)。するとその教会の一挙手一投足は、日本の未来に大きな影響を与えることになる。一つの活動でもしくじったら大変なことだ。1億2千万の民が、滅ぶことにもなりかねない。
 そういうプレッシャーを与えられた信徒らが、あれやこれやの活動に駆り出される。時には不本意なこともしなければならない。「何故これをするのですか」と尋ねると、「神の御心だからだ。従わないのは不信仰だ」とバッサリ。
「自分は神様を信じている。でも何故ここまで苦しまなければならないのだろうか」という疑問が信徒の頭に浮かぶ。けれど、それを表明することはできない。不信仰の烙印を押され、救いから漏れてしまう(と思う)からだ。

 神様を信じている。けれど、その言葉にはちょっと従いがたい。そういうことはクリスチャンなら誰しもあるのではないだろうか。献金する時とか、不慣れなことをする時とか、犠牲を伴う時とか、怖い時とか、勇気が出ない時とかに、聖書が推奨する行動を必ずしも取れないことがある。

 けれどそれで神様が怒るかというと、そんなことはない。怒るのは上記のような牧師だけだ。神様は同情してくれるし、手を差し伸べてくれる。決して私たちを見捨てない。たとえ私たちが不信仰であっても、神様は絶対に諦めない。
 ペテロは水の上を歩いたけれど、途中で沈みかかった。その時イエス・キリストがとった行動を見れば、それがわかるはずだ。

2014年5月9日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第29話

 溝田牧師との話を思い返しながら、キマジメくんは帰途についた。
 献身できるのは嬉しいけれど、そこには経済的な困難がある。だから教会の仕事をしながらアルバイトをしては、という牧師の提案は、しごく現実的に思えた。今しているバイトの他に、もう一つバイトを増やすべきかもしれない。
 そういう苦労については、キマジメくんは割りとすんなり受け入れることができた。いろいろ話に聞いてきた、牧師先生の開拓時代の苦労とか、内外の宣教師の過酷な体験とかを考えると、神様のために働くということは、そういう試練を通されることなのかもしれない。しかしそれで立派な神の器へと成長できるなら、喜んで通るべきだと思える。多少の貧乏が何だろうか。モーセも、罪を楽しむより、神の民とともに苦しむことを選んだではないか。
 いつものコンビニを通り過ぎる時、ふと見ると、入り口脇のラックに、バイト情報誌が並んでいる。このタイミングで見つけるなんて、偶然とは思えない。
「神様、感謝します」
 キマジメくんはそう呟いて、一冊取った。きっと、自分が導かれているバイト先があるはずだ。
 
 帰宅してしばらくすると、一つの問題にぶち当たった。大学を辞めることを、実家の両親にどう伝えるべきかだ。学費を出してもらっている手前、しっかり理由を添えて報告しなければならない。母には言えるだろう。けれど、父には・・・。
 そこで、思考が止まってしまった。
「まあ、もう遅いしな」
 時計を見ると午後10時を過ぎている。実家は両親の二人暮らしで、ずいぶんな早寝になっている。今から電話するのは迷惑だろうから、明日にすることにした。
 
 バイト情報誌を1ページずつ丹念に眺めながら、ふと気になることがあった。溝田牧師は、教会から一円ももらっていないと言っていた。しかし牧師や牧師夫人が他に仕事をしているという話は聞いたことがない。いったいどうやって生活しているのだろうか。お子さんも二人いるのに。何か収入源がなければならないはずだ。
 机の引き出しを探し、いつもロクに目を通していない「教会会計報告」を取り出した。時々、教会員向けに発行されるものだ。A4紙に細かい表がびっしり並んでいて、いつも一目で見る気をなくしていた。しかし、ここにヒントがあるかもしれない。それに献身者となる以上、自分もこういうことには関心を持たねばならないだろう。
 
 一つずつ項目を見ていくと、気になるものがあった。「牧師館家賃」「牧師館光熱費その他」「牧師館食材費」「牧師館経費」「車両維持費(牧師館用)」「牧師子弟育英費」とあり、それぞれにけっこうな額が割かれている。牧師館というのは教会の三階部分で、溝田牧師家庭が住んでいる。そこの家賃とか経費とかを、教会が払っているということだった。つまり、牧師家庭の生活費は、教会がすべて負担しているのだ。
 
 しばらく考えて後、キマジメくんはこれを、肯定的に捉えるべきだという結論に達した。教会から一円ももらっていないというのは、事実をありのまま表現した言葉ではないかもしれない。けれど、牧師は神の働き人なのだ。その働き人が神の宮(教会)に支えらえるのは、何らおかしなことではない。むしろ教会はその恩を返す立場にあり、率先して牧師を経済的に支えるべきなのだ。それこそ神の国の秩序ではないか。
 キマジメくんはそんなふうに考えて、この問題に決着をつけた。そしてまたバイト情報誌に戻った。(続く)
  
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年5月7日水曜日

ホームスクールに見られる親のエゴ

「ホームスクール」について、私はどちらかと言うと批判的に書いてきた。しかしそれは、ホームスクールを根本的に否定したいからではない。基本的には肯定的に捉えている。

 ホームスクールの究極的な目的は、親がその子の教育の責任を持ち、最善と思われる行動を取る、という決意にあると思う。そしてその結果、公立の学校に通わせるという選択になることもあれば、ある期間をメドに、家庭で親が学習をみるという選択にもなる(これがいわゆるホームスクールという形態だ)。厳しすぎるのでなく、甘すぎるのでもなく、その子にとっての最善を常に検討し模索するというその姿勢は、私は良いものだと思う。

 では何が問題かと言うと、一つは、教育の全期間をホームスクール形態で過ごさせると初めから決めていて、変更の余地がないという姿勢にある。それはホームスクール至上主義、あるいは公教育完全否定主義とでも言うのだろう。初めから公教育を悪とし、有害とし、子どもを堕落させる害毒に満ちているとする。一方でホームスクールは神の召しであり、神が一緒にいるから親が不十分でも大丈夫で、かえって最高の教育を施す唯一の方法だ、と信じている。

 一つのことを堅く信じて疑わない姿勢そのもは大したものかもしれない。けれど、そこに何の変更の余地もないというのは、なんだか窮屈だし偏狭だ。信仰とも違う。

 それに、ホームスクールが最高の教育だという保証はどこにもない。実際に18年間か22年間やってみないとわからない。「そこは信仰だ、疑ってはいけない」というのは敬虔な発言に聞こえるけれど、話のすり替えでしかない。べつに疑うとかでなく、「これでいいのだろうか」「もっと良い方法はないのだろうか」といつも検討すべきだという話だからだ。
 だいいち、そこには子どもの一生が掛かっている。親なら安易な選択はできないはずだ。

 ホームスクールが困難になる一つの例を挙げると、学習面がある。中学校後半から高校にかけて、学習は明らかに高度になる。普通なら両親だけでは対応しきれない。父親が日中いない家庭も多い。それで通信教育を利用するにしても、モチベーションの問題もあるし、理解力の問題もある。進学の問題もある。それらの問題を全て解決できるケースは少ない。それに解決できたとしても、それが最善とは限らない。
「勉強は二の次、信仰が大事だ」と言う理屈で学習面を軽視するのは、子どもの可能性を狭めるだけだ。基礎的学力がないと、聖書もしっかり読めない。すると結局のところ、信仰さえ成長できないことになる。

 そういう諸々を考えると、公教育を利用するというのも十分にあり得る、効率的な、親にとって無理のない選択肢だということがわかる(だから公教育が絶対だという訳ではない)。なのにあくまでホームスクールに拘り、その形態を維持することに固執し、何が何でも公教育を排除するのが最優先なのだとしたら、それはもはや子どもの為というより、親のエゴでしかない。
 そしてその教育は、子どもの為でなく、親の為のものだ。

2014年5月6日火曜日

『教会と同性愛』を読んで思うこと・その2

 書籍『教会と同性愛』について、もう少し書きたい。前回は内容について全然触れなかったので。
 この本は前半は主に、「変更不可能な同性愛指向」が教会でどう扱われてきて(あるいは扱われてこなくて)、現在どうなのか、そして「同性愛」に対する(聖書解釈を含む)誤解について書かれている。
 私を含む普通のクリスチャンは、同性愛と聞くと、「聖書に書いてある通り罪なんだよね」と、あまり考えなしに捉えてしまう傾向があると思う。教会で明に暗に語られるいろいろなメッセージが、その傾向を助長しているかもしれない。
 しかし本書の指摘に基づいて聖書を読み直してみると、確かに、聖書が同性愛指向そのものについては何も言っていないことがわかる。
 また、特にレビ記18章から20章に書かれた諸々の律法についての言及には、なるほどと思わせられる。すなわち、そこには確かに男性どうしの性交を禁じる命令がある(女性のはない)けれど、同時にひげの端を剃ることも、二種類の糸で織った服を着ることも、血を含む肉を食べることも禁じられている。祭司になるには、肉体的欠けは、よじれた睫毛ですら許されない。しかしそういう諸々の律法は、私たちは「現代には合わない」とかの理由で、平気で無視している。そんなふうにある命令だけを選択的に強調するのはフェアでない、という訳だ。
 そういうふうに聖書を選択的に利用し、同性愛だけを殊更に非難しようとする傾向は、案外多いように思う。私もよく知らないうちはそんなふうに捉えていた。信仰熱心でよく聖書を読む人であっても、そこまで具体的な問題意識を持っていなければ、安易にそういう傾向に陥るのではないかと思う。
 ただ、それは単に無知なだけだ。問題は、無知を通り越している場合にある。つまり同性愛指向を殊更に嫌悪、憎悪している場合だ。
 憎しみにはほとんどの場合、理屈は通じない。話し合って解決できるものでもない。理性だけで了解しあえるなら、おそらく人類に争いは起きない。
 よく「生理的にムリ」とかいう表現を聞くけれど、これは同性愛指向に対しても向けられやすい敵意だと思う。「嫌いなものは嫌いなんだ」という気持ち自体はよく理解できる。けれど、それをストレートに表すのはあまりに大人げない。
 私は殊更に同性愛指向を擁護する立場ではない。けれどこうやって書くのは、本書のある一文が目に留まったからだ。私はこの一文をどうにも否定できない。最後に引用したい。
「私たちは、自分の性向に気づいたのであって、それを選んだわけではない。そして、それを変えることはできない」(『教会と同性愛』31ページ)
 
 

2014年5月4日日曜日

自分はダメだと気づくからこそ再出発できる。映画「そして父になる」を観て。

 人間、生きていれば苦しいこともあって、失望することもある。「もう自分はダメだ」と落ち込むこともある。けれど案外そういう時こそ、いろいろ見直したり改めたりする、良い機会にもなると思う。

 先のカンヌ映画祭で審査員賞を受賞した、『そして父になる』を観た。微妙にネタバレになるけれど、感想を書きたい。
 6歳の息子が、実は新生児期に取り違えられた他人の息子だった。そんな事実をある日突然突き付けられる父親(福山雅治)の物語である。

 重いテーマながら物語は淡々と進んでいく。問題はただ一つ、6年間過ごした親子関係を取るか、血のつながった親子関係を取るか、あるいは別の選択肢があるのか、だ。二組の夫婦がどんな結論に至るのか、ずっとハラハラしながら観た。
 6年間育ててきた他人の子・慶多は、当然ながら本当の息子に見える。けれど6年間その存在すら知らなかった本当の子・琉晴にも、顔立ちや性格に主人公・良多の面影があり、やはり本当の子だと思わせられる(そのあたりの見せ方は本当にうまいと思う)。どちらを取るべきか。統計的には、血のつながりを取るらしい。けれど、やはり迷う。

 この難しい選択が映画の中心だと私は思っていた。けれど、違った。もちろんそのテーマも大きい。しかしこの映画は題名の通り、主人公が本当の意味で「父」になっていく物語だ。

 細かいシーンに、登場人物たちのキャラが鮮やかに描写されている。たとえば相手方の父親役
のリリー・フランキー。ジュースを飲む時ストローを噛むとか、子どもがケガしても気にしないとか、病院に請求できるからって食事をガツガツ注文したりとか、とにかくガサツで卑屈なところが積み重なって強調されていく。と同時に、できるだけ子どもと一緒に時間を過ごそうとする、優しくて懐の深い父親という姿も見えてくる。
 そんなふうに、登場人物たちがそれぞれどんな人なのか、物語が進むにつれクッキリと見えてくる。

 それで、主人公役の福山雅治である。彼は一流企業の第一線でバリバリ働くエリートで、高級マンションに住み、何の不足もないように見える。慶多に対しても良い父親ぶりを見せている。けれどところどころ、子ども(というか周囲の人間)に対する冷徹さ、不寛容さが顔を出す。そしてそれは次第に、はっきりとした歪みとなって現れる。
「自分はぜんぜんダメな父親だった」
 最期にそう気づくことが、実は彼にとって再出発になったのだと私は思う。そして彼はその瞬間、本当の意味で「父」であることを知ったのだと思う。

 子を持つ親の方々には、ぜひ観ていただきたい一本である。

2014年5月2日金曜日

『教会と同性愛』を読んで思うこと

 縁あって、『教会と同性愛』(アラン・A・ブラッシュ著)という本を読んだ。

「同性愛」について、初めて読んだ本である。このテーマについては、今までの人生で、ほとんど触れる機会がなかった。唯一あったと言えば、映画『フィラデルフィア』を観たくらいだ(それでは触れたとも言えないけれど)。だからまったくの門外漢であり、軽々しく何かが言える立場には私はない。
 

 という前提で、思うことを書きたい。

 日本のキリスト教社会では、同性愛について話題に挙がることが少ないように思う。現に、私はその手の話が公にされるのを聞いたことがない。性教育と同じで、何となく恥ずかしいから、取り扱いにくいから、というような理由があるのかもしれない。
 そういえば高校時代、性教育のビデオを教室で見せられたことがあるけれど、どうにも恥ずかしくて、早く終わってくれないかな、とひたすら願っていたのを覚えている。

 それが日本人全体の傾向とは思わないけれど、また理由はわからないけれど、少なくとも日本のキリスト教社会では、同性愛について、あまり語られてこなかったと思う。

 そういう面がある一方で、同性愛に対する見方には、教団教派によっては相当厳しいものがある。ハナから罪だと断罪する教派もある。私が知っているある教会もそうで、明言はしていなかったけれど、断罪的な立場をとっていた。
 一方で、同性愛を容認する教団教派もある。しかしそれで両者が議論するかと言うと、そういう訳でもなさそうだ。

 断罪派の教会の言い分はとてもシンプルで、「聖書にそう書いてあるから」というようなものだ。たとえばユダの手紙7節の「不自然な肉欲」とか、第一コリント6章9節の「男色する者」とかを取り上げて、「神はそれを罪として禁じている」と主張する。

 それは一つの解釈としてはありだと思うし、信じるのは自由だけれど、私はちょっと腑に落ちない。というのは、同性愛の人が、神に反抗して、好き好んで同性を愛するようになったのでなく、あくまで自然なこととして、そうしていると思うからだ。

 私たちは実にいろいろなものを好きになるし、逆にいろいろなものを嫌いになる。ある人が心底好きなものを、ある人は心から憎む。たとえば電車好きな人は何時間でもホームの端で電車を撮影して飽きない(むしろ喜んでいる)けれど、そうでない人にはそれは拷問みたいなものだ。けれど、だからといって互いに批判し合うことはない。
 それと同じで、ごく自然な気持ちで、同性のことが特別好きになり、いつしか本気で愛するようになったのを、「それは罪だよ」と簡単に決めつけるのはどうなのだろうか。ぜんぜん愛がないように私には思える。

 ある教会では、同性愛者に向かって、「過去に何らかの傷を受けたからそうなったんだ。本来のあなたはそうではない」というような論理を主張する。
 そういうことはあるかもしれない。けれど、傷なんて誰にもある。みんな何らかの傷があって、多少の差はあれ、そのせいで生きるのに何らかの支障をきたしているのではないだろうか。そしてそれらが根本的に癒されるということは、現実的にはない。なのに、「それは本来のあなたではない」と言われても、困るだけではないだろうか。

 私は同性愛についての専門的な知識は何もない。けれど少なくとも、「どうしてもこういう感情を持ってしまう」「それがないと言えばウソになる」というような心情を、頭ごなしに否定するのは何の解決にもならない、ということだけは言えると思う。

2014年5月1日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第28話

 リッチ兄弟の苦労話がなおも続く中、やっと溝田牧師が現れた。牧師は階段をゆっくり降りながら、「お、キマジメくん」と声をかけてきた。
「先生、お疲れ様です。もし先生の都合が良ければ、少しお話したいのですが」キマジメくんはお辞儀しながら言う。
「ああ、いいよ」牧師は機嫌がいいようだった。「リッチ兄弟、ちょっと待っててくれるかな。じゃあキマジメくん、会堂で聞こうか」
二人は教会につづく階段を上がった。
 キマジメくんは最近の、ヨシュア記1章9節がいろいろな形で繰り返し示されていることや、今夜の聖会での出来事を、涙ながらに話した。牧師はウンウン言いながら聞いてくれた。全部話し終える前に、牧師は口を開いた。
「キマジメくん、素晴らしいよ。神様が君を、確かに献身へと導いている。詳しいことは話さなくても、私の霊が全てを察しているよ。大丈夫、うん、全部わかってる」
 そう優しく言われ、キマジメくんはまた泣き出した。さらに牧師は続けた。
「キマジメくん、献身の道は、本当に素晴らしい、この世のどんな仕事よりも価値ある仕事だよ。いや、これは仕事とは言えない。ライフワークだよ。私たちの人生の全てが、神様のために捧げられているのだから、仕事とかプライベートとか、そういう別け方は意味をなさないからね。私たちは24時間365日、神様のために働くんだよ。
 その一方でね、厳しいこともあるよ。特に経済に関してだね。働き人は教会から報酬を受けるべきだけれど、現状の教会会計だと、なかなか厳しいものがあるな。キマジメくんに毎月払えるのは、たぶん、数万円になると思う。
 そこで、どうするか。ここが信仰の使いどころだよ。これは私の考えだけどね、神様のために働けるなら、多少の貧乏くらい、喜んでするべきだね。だって私たちが天で受ける報いは、それだけ大きくなるんだから。
 もちろん、それでも毎月の支払いとかがあるから、最低限の収入は確保しないといけない。それで、私の提案だけど、当面はアルバイトか何かして、教会の仕事はパートタイムでしたらどうだろうか。教会からの報酬と、バイトの給料で、なんとか生活できるようにバランスを取ったらいいと思うよ。それで少し様子をみてもいいんじゃないかな。
 あ、その前に、大学は辞めるってこと?」
「はい、そのつもりです。もう、世の終わりが近いと思いますから」
「うん、それは賢い選択だよ。今の日本の大学を卒業したって、時間の無駄だからね。就職だって厳しいし。それに4年後の世界がどうなっているか考えてみたらね、のんびり卒業論文なんか書いていられる状況じゃないと思うよ。そんなことより、やがてくる主の再臨のために今から備えるべきだよね。そういうことを知らない、悟らないこの世の人々は、本当に哀れだよ。彼らが救われるように祈るばかりだ」
 そこまで話して、溝田牧師は立ち上がる。
「ちょっとこれから用事があるから、また近いうちに話そうか。それまで、キマジメくんもよく祈って、生活のことで主から知恵を得たらいいよ。大丈夫、私なんて教会から一円ももらってないからね。キマジメくんの不安はわかるけど、私と君は運命共同体、心配することはない」
「はい、ありがとうございます」キマジメくんも立って、丁寧にお辞儀する。
「じゃあ、私はこれで。キマジメくん、戸締まり頼むよ」
 そして溝田牧師は玄関を出ていった。下からリッチ兄弟の声がする。「先生、店の予約の都合がありますから・・・」
 どうやらこれから食事に行くようだ。
 キマジメくんは会堂内を見回り、窓やドアの戸締まりを確認してから教会を出た。階段を下りると、すでにリッチ兄弟の車はなかった。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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