「献身」志望の子には何が必要か

2014年5月12日月曜日

キリスト教信仰 教育

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「神の召し」を早くから明確に持つ子がいる。中には、たとえば学生のうちから「神様に献身して生きます」と決心している子もいる。それはそれで良いかもしれない。旧約聖書の預言者サムエルみたいな例もある。

 しかしその子の意志もさることながら、それを導く周囲の大人たちのやり方も重要だ。やはり子どもなのだから、未熟な面もあるし、生かすも殺すも大人次第、みたいな面もあるからだ。

 それで、子どもが「献身したい」と言ってきたら、どうすべきだろうか。生半可な決心でなく、本当に心底それを願っているとしたら?

 一つのケースを挙げたい。ある教会の牧師は、そういう献身志望の高校生を歓迎し、学業はもういいから教会で訓練を受けなさい、みたいなことを言う。高校を卒業してからではない。在学中にだ。それで親が信仰熱心(?)だと、「お願いします」ということになる。その子は高校生活を中途で終わりにし、教会スタッフみたいな存在になる。

 そこには「鉄は熱いうちに打て」みたいな発想がある。早く神様の役に立つクリスチャンになれるように、吸収力が高い若いうちに訓練する、というような論理だ。それは確かに効率が良いかもしれない。しかしそういう子がどんな「訓練」を受けるかと言うと、中途半端で偏った神学モドキを学びつつ、教会奉仕に駆り出される、というようなものだ。彼らが時々垣間見せる、たとえば文章力とか、漢字力とか、計算能力には、悪い意味で驚かされることがある。

 もちろん学問が絶対必要だとは言わない。けれど、最低限持つべき学力水準というのはある。広い見識や歴史観は、人格形成に多大な影響を与える。そういうことを度外視して、祈っていれば必要なことは教えられるとか、信仰があれば大丈夫だとかいうのは、無責任ではないか。

 それにクリスチャンというのは、世に出て行く存在であろう。そして良い証を立てるべき存在であろう。なのにほとんど教会内のことしか知らず、世の学生らがどんな苦労をし、就活し、就職して勤労するかを全く知らないクリスチャンが、一体何の役に立つのだろうか。

 学歴は全てではないけれど、決してバカにはできない。何度か書いているけれど、「学歴なんて大して役に立たない」と言ってサマになるのは、学歴がある人だけだ。ない人が言っても何の説得力もない。お前に何がわかるんだよ、という話になる。

 子どもが「献身したい」と言ってきたら、大いに喜んであげるべきだし、励ましてあげるべきだと思う。しかし、「その前にやることはやれよ」と言ってあげるのが、まっとうな大人だと私は思う。

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