神様を「王」として迎える信仰、「僕」として使う信仰

2014年5月25日日曜日

キリスト教信仰

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 神様との「親しさ」をアピールするクリスチャンがいる。
 たとえば、「探し物がどこにあるか祈ると、神様が必ず教えてくれる」とか、「わからないことがあると、神様がすぐに教えてくれる」とか、「神様が食卓を整えてくれる(幻じゃね?)」とか、そんな具合だ。そして「神様ってホント優しい方」と言う。それはそれで間違いではないけれど。
 
 しかしそういうアピールは、「探し物を見つけてくれる」という言い方の通り、神様を都合のいい「召し使い」と思っている気がしてならない。それは「親しさ」と言えるのだろうか。昔「アッシー君」というのが流行った(?)けれど、そんな風に都合よく使える男の一人として、神様が存在しているみたいではないか。
 
 聖書を読むと、確かにイエス・キリスト自身が、「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」に生まれたと言っている(マルコ10章45節・新改訳)。ヨハネの福音書の最後のシーンには、キリストが弟子たちのために食事を整えるという描写がある。
 しかしこの「仕える」というのは、根本的には、人の紛失物を探したり、困った時に何かしたりという「アッシー君」になる為ではない。同じ文脈にある通り、「自分のいのちを与えるため」だ。
 
 人間よりはるかに高次の存在が、人間より低くなって下さり、仕えて下さった。そこに神の愛がある。しかしそれは神の一側面でしかない。2000年前、キリストは確かに「僕」として来られたけれど、今度は「王」として来られる。しかし彼らは、毎週神を礼拝しているようだけれど、いまだにこのキリストを「僕」として扱っている。しかもそれを神との「親しさ」だと勘違いしている。「探し物が見つからない。神様どこにあるの?」
 
 神は「十字架にかかる」という苦しみを通して、私たち人間の都合に合わせるという姿勢を見せて下さった。しかしそれは、私たちもそれに倣って自分自身を神に捧げたり、自分の都合より誰かの都合を優先したり、という生き方ができるようになる為だ。いまだに神を十字架にかけ続け、自分たちの都合に合わさせ、思い通りに動かす為ではない。そういう大きな勘違いが、この「探し物を見つけてくれる」という発言の背景にあるような気がしてならない。
 
「今日は神様とデート」みたいな言い方で、彼らは今日も妙な「リア充自慢」をしている。そう言われている神様ご自身はどう思っておられるのだろうか。もちろん「僕」として扱われても、人の都合に合わさせられても、神様はあたたかい目で見ておられるだろうけれど。

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