「教会債」について思うこと

2014年5月21日水曜日

キリスト教信仰

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教会債」なるものを聞いたことがあるだろうか。
 簡単に言うと「国債」の教会版みたいなものだ。教会運営や、何かで多額の必要がある時などに、信徒らに教会債を買ってもらってお金を集める手法だ。債権者には証書が渡され、教会が何年かかけて、返済していくことになっている。

 ある教会はこれをけっこう盛んに発行していて、信徒にとって日常的なものとなっている。発行数が多いというより、それだけ新しいことを次々始めているという感覚だ。それだけ教会の返済義務も膨らんでいく。けれど牧師に言わせれば、それだけ事業が増えるのだから、増収していくはずで、何ら問題ないということになる。
 理屈ではその通りだろう。

 しかし実際には、そうそう増収などしない。たとえば、教会債収入を頼りに新会堂を建てる。けれどそれに応じて信徒数が劇的に増える訳でもない。逆に維持費がかかり、かえって教会会計を圧迫することにもなる。ほかに新規事業を始めるにしても、素人集団が片手間でやって成功するほど、世の中あまくない。神からのビジョンだと言って始めた事業も結局のところ頓挫したり、尻切れトンボになったりする。後に残るのは、教会債の返済義務だけだ。

 もっとも、そのあたりは教会債というシステム自体の問題ではない。教会リーダーらの無計画、無謀な判断という問題だろう。

 私自身は教会債というシステムにはさほど否定的ではない。けれど教会がそれを扱う方法について、悪いケースばかり目にしてきた。
 たとえばある教会は、教会債を発行したはいいけれど、結局返済のメドが立たず、信徒に待ってもらっていた。すると何人かの信徒から、「あれは献金したことにします」という返済免除の申し出があり、完済となった。リーダーはすました顔で、「ハレルヤ。今回の教会債も主にあって無事に完済となりました」などと報告した。いやいや、そこには多くの犠牲があるでしょう、という話のはずだ。

 借りたものは返すという、人として当たり前のことができず、さらに迷惑をかけた人々に対して一言の謝罪もないとしたら、その教会の在り方には深刻な問題があるだろう。

 もう一つ、教会債というシステムそのものは、良くも悪くもないものだろう。けれど、今ないお金で何かを早急にしようとするのは、いわゆる借金、クレジットだ。そこまでしなければならないほど、それが重要で危急のことなのか、事前にもっと吟味すべきだろうと思う。リーダーの提案だからと鵜呑みにするのでなく、そういうことを考えられるのも、信徒の役割だろうと思う。

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