「霊的」と言われると、何だか奥深い感じがする。一般信徒には理解しがたい何かがあるような気がする。だから「そうですか」と、肯定的にその話を聞くしかない。たとえ疑問を差し挟もうとしても、何がわからないかがわからない。だからあまり疑問も浮かばない。仮に疑問を持ったとして、かつ牧師に質問できたとしても、やはり「霊的」云々という返答をされて、やっぱりわからない。
「霊的」という言葉の危険性は、一応それらしく聞こえ、筋道が通っているように思えるところにある。検証できないのだ。
たとえばぺテロが水の上を歩く場面。ぺテロは「霊的」な意味では現在の私たち。水の上は「霊的」には、何の保証もないように見える現実を指す。という解釈をすると、「今主が、何の保証もないところに踏み出せと霊的に示しておられる」というメッセージになる。献身希望の人がこれを聞いたら、本当に仕事を辞めて献身してしまうかもしれない。
また別の解釈もできる。「ぺテロは船から出た結果、溺れかけた。これは霊的な教訓で、今、船に留まれと主が語っておられるのだ」
という訳で、転会を考えていた人が留まるよう説得されるかもしれない。
このように、自由自在だ。何とでも好きなように言える。しかも、それは違うとは簡単には言われない。
もちろん「霊的」なことも大切だ。けれどそれが方便として都合よく使われているとしたら、深刻な問題になる。言う方も言われる方も、この言葉には注意しなければならない。
ではどうやって本物と偽物を見分けたらいいのか、という話になるだろう。聖書の主張に矛盾しないとか、そこにはいろいろなハウツーがあるだろうけれど、そういうのも含めて、時間をかけて検証すべきだと私は思う。
しかし、教会で牧師から「これは主からの霊的な啓示だ」と言われたら、即座に応答しなければならない雰囲気になるだろう。そこで「検証します」とは、なかなか言えない。疑いを持っているように思われかねないからだ。その場で二者択一の判断を迫られることもある。
けれどそれは、ある一つの事実を示している。聖書は「霊」についてよく吟味するよう言っているのに、そういう余裕を与えないということは、聖書に反している、という事実だ。
聖書に反して突きつけられる「霊的」啓示が正しいかどうかは、誰の目にも明らかではないだろうか。
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