「油注がれた者たちに触れるな」という聖書箇所を引用して、「だから問題がある牧師であっても非難してはいけない」という記事を書いている人がいる。彼がもう一つ根拠とするのは、旧約のサウル王とダビデの関係だ。
サウル王はダビデを妬み、何度も殺そうとした。しかし追われる身のダビデが、逆にサウルの寝首をかく機会を得る。けれど、彼はそうしなかった。理由は、上記の「油そそがれた者たちに触れるな」(第一歴代誌16章22節・新改訳)にある。神が選んだ器に手をかけることは、神を侮り、逆らうことになる。それでダビデは何度も繰り返される迫害を、信仰をもって耐え忍んでいく。
その後、サウル王は紆余曲折を経て戦死する。ダビデは後を継いで王となった。
ダビデのケースはそれで良かったのだろう。では現代、問題ありの牧師に信徒が苦しめられていたら、どうすべきだろうか? その人いわく、「牧師自身が自分の問題に気づくように祈るのです」とのこと。
ずいぶん悠長なことを言っている。本当にそれでいいのだろうか。
ずいぶん悠長なことを言っている。本当にそれでいいのだろうか。
ダビデが「主に油注がれた方に、この手を下したくはありません」と言ったのは、「殺したくありません」という意味だ。自分を殺そうとする相手でさえ、神の選んだ人なのだから殺したくない、という気持ちだ。これと、現代の牧師の間違いを指摘するのと、どう関係があるのだろうか。
もちろん牧師を殺したいと言っているのではない。牧師の間違っている(と思う)ところを、間違っているんじゃありませんかと言いたいだけなのだ。ものすごく論理が飛躍しているのに気付かないのだろうか。
だいいち、なぜ旧約からこういう限定的なケースを引っ張ってくるのだろうか。他の箇所を見ると、問題ありな王たちに反旗を翻すケースが少なからずある。その中で唯一「権威者に手を出さなかった」ダビデだけを引用するのは、そういうメッセージを意図的に強調し、牧師の権威を必要以上に高めたいからとしか思えない。
それに、旧約聖書からしか引用しないのは、多くの場合バランスを欠くことになる。新約も見るべきだ。たとえばパウロはどうだろうか。大使徒であり大先輩であるペテロの正しくない姿勢を、彼は公に非難しているではないか。
牧師を非難することが正しくないなら、パウロも正しくない、ということになる。
こういう、聖書の一部分だけを引用して自分の主張を通そうとするのはフェアでない。というかズルい。
それに、聖書がどう言っているかに関わらず、またクリスチャンかどうかに関わらず、苦しんでいる人に「祈ってればそのうち解決するよ」と平気で言えるのは、人の気持ちが全然わからない証拠だ。そういう人が神の愛云々とか書いても説得力がない。ただ牧師を擁護したいだけなのだろう。
自分がひどく苦しめられ、のっぴきならない状況に陥った時、助けを求めた相手が「祈ってれば大丈夫だよ」と言ったらどうだろうか。それを想像してみることが、人の気持ちを理解する第一歩だと私は思う。
追記)
現代は「万民祭司」の時代であり、「油注がれた者」は牧師やリーダーたちだけでない。全てのクリスチャンがそうだと言える。
聖書それも、旧約聖書から引っ張って来るのは、十分の一献金問題も言えますね。面白い事に、問題のある事は大抵、旧約聖書からなんですね。決して新約聖書からではないし、そこは違いますと言われる。
返信削除要するにご都合主義なんですよ。あっちからこっちから断片的に聖句を引っ張り出して、自分の主義主張に無理矢理合わせて作り上げる。
出てきた神学校や狭い業界の内部資料しか見ないから、当然堅物人間になるしかない。どうしようもない。
反対意見になんか耳を貸さない、それでいて自分は正しく、神の御心を行っていると思い込んでいる。
馬鹿につけるクスリはありません!
万人祭司は出エジプト記においてレビ系の祭司が任命される前から示されています。その時点では男性(家長)を念頭に置いたものですから、油注ぎは関係有りません。
返信削除勿論我々は皆聖霊の内住をいただいており、その意味で皆油注がれた者であります。しかし、このことの背景として万人祭司は関連が薄いことです。
以前のブログで「メンター」のことが書いてあった。この「メンター」なる人が、「油注がれた者に触れるな」というメッセージをしていた。そこには牧師が正しくなくとも牧師に意見を言うことは罪であるーと人の心に恐怖と混乱を陥れ、コントロールしようとする悪の力が働いている。また別の旧約聖書の箇所を引用し、民が指導者に逆らった為、神が蛇を送られ多くの民が噛まれて死に、青銅を仰ぎ見たら生き返ったーとメッセージしていた。ここでも逆らうと死ぬと恐怖を植え付け、権威に従うよう人々をコントロールしようとする力が働いている。「メンター」である人が、人を見る目や良識、神を通して人の苦しみ、罪をみれるなら、また神を恐れているなら、愛があるなら、牧師を悔い改めに導くことができるはずです。全ての「メンター」がそうではないと思われますが、やはり「メンター」は謝礼金を頂いているわけで、神に仕えているといいながら、人間的で悪を裁く実行力も指導力もない。それは聖書に書いてあるとおりです。「牧者ではなく、また、羊の所有者ではない雇い人は、、狼がくるのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことに心をかけていないからです。」
返信削除信仰による虐待で人々が苦しんでいるのに、神が悲しまないでおられないわけはないはずです。毒麦の例え話があるように、神は主を信じた私達を通して悪の働きを阻止したいと願っておられると信じます。それは聖書にこう書いてあるとおりです。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いて下さいます。」アーメン。