牧師を非難してはいけないという「意見」について思うこと

2014年5月18日日曜日

キリスト教信仰

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「油注がれた者たちに触れるな」という聖書箇所を引用して、「だから問題がある牧師であっても非難してはいけない」という記事を書いている人がいる。彼がもう一つ根拠とするのは、旧約のサウル王とダビデの関係だ。
 
 サウル王はダビデを妬み、何度も殺そうとした。しかし追われる身のダビデが、逆にサウルの寝首をかく機会を得る。けれど、彼はそうしなかった。理由は、上記の「油そそがれた者たちに触れるな」(第一歴代誌16章22節・新改訳)にある。神が選んだ器に手をかけることは、神を侮り、逆らうことになる。それでダビデは何度も繰り返される迫害を、信仰をもって耐え忍んでいく。
 その後、サウル王は紆余曲折を経て戦死する。ダビデは後を継いで王となった。
 
 ダビデのケースはそれで良かったのだろう。では現代、問題ありの牧師に信徒が苦しめられていたら、どうすべきだろうか? その人いわく、「牧師自身が自分の問題に気づくように祈るのです」とのこと。
 ずいぶん悠長なことを言っている。本当にそれでいいのだろうか。
 
 ダビデが「主に油注がれた方に、この手を下したくはありません」と言ったのは、「殺したくありません」という意味だ。自分を殺そうとする相手でさえ、神の選んだ人なのだから殺したくない、という気持ちだ。これと、現代の牧師の間違いを指摘するのと、どう関係があるのだろうか。
 もちろん牧師を殺したいと言っているのではない。牧師の間違っている(と思う)ところを、間違っているんじゃありませんかと言いたいだけなのだ。ものすごく論理が飛躍しているのに気付かないのだろうか。
 
 だいいち、なぜ旧約からこういう限定的なケースを引っ張ってくるのだろうか。他の箇所を見ると、問題ありな王たちに反旗を翻すケースが少なからずある。その中で唯一「権威者に手を出さなかった」ダビデだけを引用するのは、そういうメッセージを意図的に強調し、牧師の権威を必要以上に高めたいからとしか思えない。
 それに、旧約聖書からしか引用しないのは、多くの場合バランスを欠くことになる。新約も見るべきだ。たとえばパウロはどうだろうか。大使徒であり大先輩であるペテロの正しくない姿勢を、彼は公に非難しているではないか。
 牧師を非難することが正しくないなら、パウロも正しくない、ということになる。
 
 こういう、聖書の一部分だけを引用して自分の主張を通そうとするのはフェアでない。というかズルい。
 それに、聖書がどう言っているかに関わらず、またクリスチャンかどうかに関わらず、苦しんでいる人に「祈ってればそのうち解決するよ」と平気で言えるのは、人の気持ちが全然わからない証拠だ。そういう人が神の愛云々とか書いても説得力がない。ただ牧師を擁護したいだけなのだろう。
 
 自分がひどく苦しめられ、のっぴきならない状況に陥った時、助けを求めた相手が「祈ってれば大丈夫だよ」と言ったらどうだろうか。それを想像してみることが、人の気持ちを理解する第一歩だと私は思う。
 
追記)
 現代は「万民祭司」の時代であり、「油注がれた者」は牧師やリーダーたちだけでない。全てのクリスチャンがそうだと言える。

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