成長しないと怒るのは神か牧師か

2014年5月11日日曜日

キリスト教信仰

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 前回は「不信仰=神を根本的に拒絶すること」という定義について書いた。その定義に比べて、現在の(おそらく一部の)教会では、その都度その都度の神の「導き」を信じるか信じないかが信仰・不信仰の分かれ目になっていて、信徒は不信仰のレッテルを貼られないようにと恐れながら信仰生活を送っている、というのが前回の内容だ。

 今回はそういう信仰・不信仰の問題に関連のある「成長」について書きたい。

「教会成長」という運動が日本でも語られるようになって久しいけれど、依然としてそのような「成長」を目指して頑張っている教会が多いように思う。どんな成長を目指しているのかは教会によっていろいろあるだろうし、成長そのものは悪いものではない。だから「成長」を掲げる教会が良いとか悪いとか言うつもりはない。

 けれど私が知っている教会で言うと、「成長」というのはクリスチャンにとって「義務」である。そしてその義務を果たそうとしないことは、明確に「罪」だとされている。アダムとエバに与えられた神様からの命令、「埋めよ、増えよ、地を満たせ」は明らかに成長することを命じているではないか、という理屈が、そこにある。

 まあそういう解釈を個人がするのは自由かもしれない。けれど、それを信徒に押し付け、「成長しなければダメだ! 恐れていてはいけない!」とスパルタ的に教育(?)するのは教会としてどうなのだろうか。

「成長」と聞いて私が連想するのは、昨今のビジネス本の数々である。そこには社会人としての成長とか、どうやって成長するべきかとか、リーダーシップとは何かとか、そういうテーマが溢れている。最近の流行のような気がする。
 それらの書籍はビジネスマンには役立つものだろうし、読みたい人は自由に読んで実践すればいいと思う。

 けれど上記のような教会は、そういうビジネス・マインドを教会に持ち込んで、信徒を使って「キリスト教界のしあがり」を試みているような気がしてならない。
 たとえば若い信徒らが「訓練」と称する牧師の指導の下、営業マンみたいな格好をさせられ、プレゼンの練習をさせられ、しゃべり方やお辞儀の仕方を仕込まれ、そして教会の事業に駆り出されていく。一つのイベントが終わると「反省会」が開かれ、あれやこれやとダメ出しされる。怒られる。怒鳴られる。散々しごかれた後、「これも訓練なんだ。主のためだ。報いは大きい」と労られる。そして翌日、新たな「成長」目指して新たな活動が始まっていく。

 なんでそんな指導に従うんだ、という疑問があるかもしれない。しかしそこには「成長しないことは罪なのだ」という前述の理屈がある。信徒らは逆らえない。真面目であればあるほど。

 しかしそれは「成長の押し売り」でしかない。余計なお世話であろう。だいいちビジネスマナーを学んだところでクリスチャンとして成長する訳でもない。
 それに本当に成長しないことが罪であり、神に罰せられるとしたら、いったい誰が救われるのだろうか。少なくとも私は救われない。
 これもまた、牧師の自己実現にうまく付き合わせれているだけだ。

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