「自己犠牲」の陰にひそむ「自己実現」

2014年5月30日金曜日

キリスト教信仰

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 前回、「自分の都合の良いように神を利用する信仰」について書いたけれど、その中で、「従いがたいことに従う」姿勢について軽く触れた。今回はこの点を掘り下げてみたい。
 
「従いがたいことに従う」というのは基本的に、神からの語りかけがあって、しかしそれが自分にとって非常に都合の悪い、できれば避けたい事柄である時に必要とされる態度だ。だから自己犠牲的なことで、非常に敬虔な、献身的な姿と言える。自分の都合を優先することとは、正反対の態度であろう。
 
 たとえばある牧師が教会を開拓し、何年かで50人程度の群れができたとする。現在の日本では平均以上の規模の教会をつくれた訳だ。牧師としては苦労した甲斐があっただろうし、ずっと関わってきた信徒らには深い愛情を感じているだろう。しかしそこで、突然神様から、「教会を後任に委ねて新しい土地に行きなさい」と語られたとする。牧師は正直なところ、従いがたいはずだ。教会が今後どうなっていくか心配だろうし、新天地でも同じようにできるとは限らないからだ。その意味で、それに従うことは、自分の全てを失うような感覚かもしれない。
 そういう状況で「従います」と言うのは、前述した「従いがたいことに従う」信仰だと思う(その神の語りかけが本物かどうか、という点についてはここでは触れない)。自分の都合でなく、神の都合(言葉)を優先しているはずだからだ。
 
 しかし、それと同じような状況でありながら、この「従いがたいこと」が、実はそうでもない、ということがある。前回も書いた通り、従いがたい(と普通なら思われるような)ことに従うことで、自分の従順や敬虔のアピールになる、というような場合だ。
 これには例えば献金がある。「財布の中身を全部捧げるように語られて、正直苦しかったけれど、神様を信頼して全部捧げました」というのは、その真偽は別として、普通ならすごい信仰者だという称賛を受ける。しかしその人は、実は称賛されたくて捧げただけかもしれない。つまり、称賛を金で買おうとしたのだ(もっとも、自分がどういう献金をしたか人前で話す時点で、信仰的とは言えないけれど)。
 
 同じような例は沢山ある。誰もしたがらない奉仕を率先してするとか、舞台に上がる奉仕者に欠員があって代わりに出るとか、あえてでかい十字架を担いで日本中を歩くとか、そういう自己犠牲が求められる形であるなら、同時に、自己実現の目的も存在しえる
 それらに共通するのは、多少の不利益があっても人から尊敬されることを選ぶ、という承認欲求的心理だ。あるいは自分の信仰の凄さ(?)がアピールされるために、あえて不利益を被る、と言った方がわかりやすいかもしれない。いわゆる「苦労自慢」にも通じている。そしてその不利益が大きければ大きいほど、キリスト教界での知名度が上がりやすく、クリスチャンとして何者かになれるかもしれない。
 そういう心理は少なからず働いているだろう。
 
 もちろん、本当に真心から神様を愛し、ただただ仕えるためだけに自己犠牲を選ぶ人もいると思う。だからそれが真の自己犠牲なのか、あるいは自己実現の仮の姿なのか、その両者の見極めは難しい。
 その判断のポイントの一つは、誰にも知られず、何の見返りもなく、本当に不利益しか被らないような事柄であっても、するかどうか、だと思う。そしてもう一つは、それを誰にも言わずにいられるかどうか、だと私は思う。

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