ホームスクールに見られる親のエゴ

2014年5月7日水曜日

キリスト教信仰 教育

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「ホームスクール」について、私はどちらかと言うと批判的に書いてきた。しかしそれは、ホームスクールを根本的に否定したいからではない。基本的には肯定的に捉えている。

 ホームスクールの究極的な目的は、親がその子の教育の責任を持ち、最善と思われる行動を取る、という決意にあると思う。そしてその結果、公立の学校に通わせるという選択になることもあれば、ある期間をメドに、家庭で親が学習をみるという選択にもなる(これがいわゆるホームスクールという形態だ)。厳しすぎるのでなく、甘すぎるのでもなく、その子にとっての最善を常に検討し模索するというその姿勢は、私は良いものだと思う。

 では何が問題かと言うと、一つは、教育の全期間をホームスクール形態で過ごさせると初めから決めていて、変更の余地がないという姿勢にある。それはホームスクール至上主義、あるいは公教育完全否定主義とでも言うのだろう。初めから公教育を悪とし、有害とし、子どもを堕落させる害毒に満ちているとする。一方でホームスクールは神の召しであり、神が一緒にいるから親が不十分でも大丈夫で、かえって最高の教育を施す唯一の方法だ、と信じている。

 一つのことを堅く信じて疑わない姿勢そのもは大したものかもしれない。けれど、そこに何の変更の余地もないというのは、なんだか窮屈だし偏狭だ。信仰とも違う。

 それに、ホームスクールが最高の教育だという保証はどこにもない。実際に18年間か22年間やってみないとわからない。「そこは信仰だ、疑ってはいけない」というのは敬虔な発言に聞こえるけれど、話のすり替えでしかない。べつに疑うとかでなく、「これでいいのだろうか」「もっと良い方法はないのだろうか」といつも検討すべきだという話だからだ。
 だいいち、そこには子どもの一生が掛かっている。親なら安易な選択はできないはずだ。

 ホームスクールが困難になる一つの例を挙げると、学習面がある。中学校後半から高校にかけて、学習は明らかに高度になる。普通なら両親だけでは対応しきれない。父親が日中いない家庭も多い。それで通信教育を利用するにしても、モチベーションの問題もあるし、理解力の問題もある。進学の問題もある。それらの問題を全て解決できるケースは少ない。それに解決できたとしても、それが最善とは限らない。
「勉強は二の次、信仰が大事だ」と言う理屈で学習面を軽視するのは、子どもの可能性を狭めるだけだ。基礎的学力がないと、聖書もしっかり読めない。すると結局のところ、信仰さえ成長できないことになる。

 そういう諸々を考えると、公教育を利用するというのも十分にあり得る、効率的な、親にとって無理のない選択肢だということがわかる(だから公教育が絶対だという訳ではない)。なのにあくまでホームスクールに拘り、その形態を維持することに固執し、何が何でも公教育を排除するのが最優先なのだとしたら、それはもはや子どもの為というより、親のエゴでしかない。
 そしてその教育は、子どもの為でなく、親の為のものだ。

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