『教会と同性愛』を読んで思うこと

2014年5月2日金曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 縁あって、『教会と同性愛』(アラン・A・ブラッシュ著)という本を読んだ。

「同性愛」について、初めて読んだ本である。このテーマについては、今までの人生で、ほとんど触れる機会がなかった。唯一あったと言えば、映画『フィラデルフィア』を観たくらいだ(それでは触れたとも言えないけれど)。だからまったくの門外漢であり、軽々しく何かが言える立場には私はない。
 

 という前提で、思うことを書きたい。

 日本のキリスト教社会では、同性愛について話題に挙がることが少ないように思う。現に、私はその手の話が公にされるのを聞いたことがない。性教育と同じで、何となく恥ずかしいから、取り扱いにくいから、というような理由があるのかもしれない。
 そういえば高校時代、性教育のビデオを教室で見せられたことがあるけれど、どうにも恥ずかしくて、早く終わってくれないかな、とひたすら願っていたのを覚えている。

 それが日本人全体の傾向とは思わないけれど、また理由はわからないけれど、少なくとも日本のキリスト教社会では、同性愛について、あまり語られてこなかったと思う。

 そういう面がある一方で、同性愛に対する見方には、教団教派によっては相当厳しいものがある。ハナから罪だと断罪する教派もある。私が知っているある教会もそうで、明言はしていなかったけれど、断罪的な立場をとっていた。
 一方で、同性愛を容認する教団教派もある。しかしそれで両者が議論するかと言うと、そういう訳でもなさそうだ。

 断罪派の教会の言い分はとてもシンプルで、「聖書にそう書いてあるから」というようなものだ。たとえばユダの手紙7節の「不自然な肉欲」とか、第一コリント6章9節の「男色する者」とかを取り上げて、「神はそれを罪として禁じている」と主張する。

 それは一つの解釈としてはありだと思うし、信じるのは自由だけれど、私はちょっと腑に落ちない。というのは、同性愛の人が、神に反抗して、好き好んで同性を愛するようになったのでなく、あくまで自然なこととして、そうしていると思うからだ。

 私たちは実にいろいろなものを好きになるし、逆にいろいろなものを嫌いになる。ある人が心底好きなものを、ある人は心から憎む。たとえば電車好きな人は何時間でもホームの端で電車を撮影して飽きない(むしろ喜んでいる)けれど、そうでない人にはそれは拷問みたいなものだ。けれど、だからといって互いに批判し合うことはない。
 それと同じで、ごく自然な気持ちで、同性のことが特別好きになり、いつしか本気で愛するようになったのを、「それは罪だよ」と簡単に決めつけるのはどうなのだろうか。ぜんぜん愛がないように私には思える。

 ある教会では、同性愛者に向かって、「過去に何らかの傷を受けたからそうなったんだ。本来のあなたはそうではない」というような論理を主張する。
 そういうことはあるかもしれない。けれど、傷なんて誰にもある。みんな何らかの傷があって、多少の差はあれ、そのせいで生きるのに何らかの支障をきたしているのではないだろうか。そしてそれらが根本的に癒されるということは、現実的にはない。なのに、「それは本来のあなたではない」と言われても、困るだけではないだろうか。

 私は同性愛についての専門的な知識は何もない。けれど少なくとも、「どうしてもこういう感情を持ってしまう」「それがないと言えばウソになる」というような心情を、頭ごなしに否定するのは何の解決にもならない、ということだけは言えると思う。

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