「ミニストリーがうまくいっている時こそ注意」と言う人には注意すべし、という話

2014年5月20日火曜日

キリスト教信仰

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「ミニストリーがうまくいっている時ほど注意しなければならない」と、ある種のクリスチャンらは言う。
「神に用いられた」という気持ちが傲慢を生み、その傲慢を悪霊に利用されるから、というのがその理屈だ。だからいつもへりくだって、悔い改めることから始めなければならない、という。一見もっともらしく思える。

 けれどこの発想の根本には、「どれだけ神に用いられたか・どれだけ目立ったか」という能力主義がある。だからこそ、「用いられ過ぎて傲慢になってしまった」「悪霊の攻撃の対象になるほど大きく用いられた」というようなアピールになるのだ。
 たとえばビジネスマンが、「今回これだけ大きな商談をまとめたよ。でもその分こんな苦労があったよ」と言えば、それは自慢したいのだ。上記のクリスチャンらのアピールも、本質的にはこれと同じだ。

 あるいは「成果を自慢して何が悪い」と言われるかもしれない。ビジネスの世界で偉業を成し遂げたのなら、もちろん自慢していいだろう。しかし若手のベンチャー企業の苦労人の社長なんかは、かえってそういう自慢話はしない。一代で会社をある程度大きくできたのだから、大いに自慢しても良さそうなものだけれど、なぜだろうか。

 それにクリスチャンとくれば、品性の問題もあるから、自慢話は避けなければならないだろう。
 また、仮に自慢をするとして、彼らクリスチャンは何を自慢するのだろうか。「祈っていたら天が開かれた」とか、「大勢の会衆にメッセージできた(だから?)」とか、「地域のために祈っていたら闇が打ち破られた(検証できないけどね)」とか、いまいち凄さがわからないものばかりだ。

 そういう自慢にもならない自慢話を、傲慢が云々、悪霊が云々というオブラートに包んでこれみよがしに語るのは、何とも痛々しい。それに気づいていないところが更に痛い。

 もちろん神に大いに用いられて、誰の目にも明らかな凄い奇跡の数々を起こしたとしたら、傲慢にもなるかもしれない。そういう時こそ、悪霊の攻撃を心配したらいいだろう。
 けれど、「誰の目にも明らかな奇跡」が起こったとしたら、それは神によるものであり、自分の力でないことも明らかなので、そもそも自慢しようということにはならないだろう。

「神に用いられた時」というのもそれと同じで、自分の力とか信仰とかによるのではない。だからそもそも自慢するとか、傲慢になるとか、そういう種類の話にはならないはずだ。だから彼らの「用いられた時こそ注意」という主張には、かなりの矛盾があるということになる。気づいていないようだけれど。

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