「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」という図式に固執するクリスチャンがいる、と前回書いた。
その問題の根本には、「良いものしか受けたくない」という思いがある。そう思うのは人間として当たり前だけれど、神への信仰という点では正しくない。(自分にとって)良いものは当然のように受け、そうでない場合は神を責め、あるいは良いものであるかのように捏造する。常に良いもの、更に良いものを求め続けるその姿勢は、「繁栄の神学」(この表現は嫌いだけれど)にも通じる。
この信仰の在り方について突き詰めると、「自分にとって都合の良いように神を利用する」という姿勢にたどり着く。自分にとって良いこと(だけ)を語ってほしい、預言してほしい、という姿勢については、聖書は複数箇所で警告しているけれど。
あるいは、「従いがたいことを語られた」と言うかもしれない。不本意だけど語られたから従順するしかない、と。しかし、それが立派な信仰かどうかは、案外判断が難しい。その「従順」が、実は本人にとってまんざらでもない選択かもしれないからだ。または「従いがたいことに従う自分」をアピールすることが目的かもしれないからだ(「すごい信仰ですね」と称賛されたいのだ)。
体験主義信仰者らがよく言うのは、「自分の思いでは動かない。神の言葉によってのみ動く」というような台詞だ。それは自分自身や後輩らへの教示として語られる。いかにも敬虔に聞こえる。
けれど彼らが「神の言葉」と呼ぶものは、結局のところ「自分の思い」であることが多い。「そう心に強く感じた」とか「そう語られた(気がする)」という感覚頼みが、彼らの語られる方法だからだ。あるいは「ある聖書箇所が示された」と言うこともあるけれど、それにしたって感覚頼みであることに変わりはない。多くの聖書箇所を知っているのは素晴らしいことだけれど、その知識は「こう語ってほしい」という無意識的な願望に、強く影響されるからだ。
そして、そういう感覚頼みで「語られる」のは、やはり心が根本的に欲している事柄に他ならない。つまり自分の思い・願望・欲望などだ。彼ら自身はそんなこと決して認めないだろうけれど。
一個人、あるいは一般信徒がそのような信仰を持つのは、「残念でした」ということで済むかもしれない。けれどこれを教会のリーダーが持ってしまうと悲惨だ。教会政治の在り方にもよるだろうけれど、教会全体がリーダー個人の願望に振り回されるからだ。そしてそれに歯止めが効かないとしたら、行き着くところまで行くしかない。そしてその結末は、確実に誰かを不幸にする。私たちの心にある隠れた願望が全て実現したらどうなるかを考えれば、誰もそれを否定することはできないだろう。
体験主義信仰に、自分の都合の良いように神を利用する信仰。間違いには間違いが重なるものなのかもしれない。
「患難が忍耐をうみだし、練られた品性が希望を生み出すと私達は知っているからです。この希望は失望におわることがありません。なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
返信削除信仰による虐待を受けていた教会をでて、次の教会を探していた時、ある教会で礼拝での賛美の中で、聖霊が、「使徒信条をいう教会に行きなさい」と語って下さいました。このことは全てのクリスチャンに当てはまるかは私にはわかりませんが、私に対して示されたことかもしれません。その指示に従った今は、教会での集まりや家庭にも平和が取り囲むようになってきています。