ここで引用されている、松木治三郎氏の「不信仰」の定義に、目から鱗が落ちた。
いわく、「
つまり、不信仰とは、その都度その都度の神の「導き」を信じるか信じないかという、神を信じているという前提に立った話でなく、この神を根本的に拒絶する、すなわち信仰を捨てる、という究極的な次元の話だということだ(と私は解釈した)。だからこの場合、「不信仰=クリスチャンを辞める」ということになる。
この定義の是非はともかく、これは私にとって、今までにない視点だった。
私が知っている教会では、この「不信仰」はよく使われていた。むろん、松木氏の言うような意味でではない。そこでは神様を確かに信じている人々が、この〇〇という神の「導き」を信じるか、この××という神の「語りかけ」を信じるか、という選択をしょっちゅう迫られている。そして信じないなら、「不信仰」の烙印を押されてしまう。
確かに、神様を信じているのにその「語りかけ」を信じられない、というのは矛盾している。理屈から言えば「不信仰」と言われても仕方がない。けれど話はそう単純ではない。
たとえば、その教会は日本を救うのに不可欠な存在であるとする(牧師がそう言っているとする)。するとその教会の一挙手一投足は、日本の未来に大きな影響を与えることになる。一つの活動でもしくじったら大変なことだ。1億2千万の民が、滅ぶことにもなりかねない。
そういうプレッシャーを与えられた信徒らが、あれやこれやの活動に駆り出される。時には不本意なこともしなければならない。「何故これをするのですか」と尋ねると、「神の御心だからだ。従わないのは不信仰だ」とバッサリ。
「自分は神様を信じている。でも何故ここまで苦しまなければならないのだろうか」という疑問が信徒の頭に浮かぶ。けれど、それを表明することはできない。不信仰の烙印を押され、救いから漏れてしまう(と思う)からだ。
神様を信じている。けれど、その言葉にはちょっと従いがたい。そういうことはクリスチャンなら誰しもあるのではないだろうか。献金する時とか、不慣れなことをする時とか、犠牲を伴う時とか、怖い時とか、勇気が出ない時とかに、聖書が推奨する行動を必ずしも取れないことがある。
けれどそれで神様が怒るかというと、そんなことはない。怒るのは上記のような牧師だけだ。神様は同情してくれるし、手を差し伸べてくれる。決して私たちを見捨てない。たとえ私たちが不信仰であっても、神様は絶対に諦めない。
ペテロは水の上を歩いたけれど、途中で沈みかかった。その時イエス・キリストがとった行動を見れば、それがわかるはずだ。
教会生活の長い方に一部見られる想像力の欠如は目に余るものがあります
返信削除クリスチャンが他人に向かって「不信仰だ」と言い放つのは
「殺すぞ」と言い放つのと同義なのです
そういう意味で、昨今の境界には殺人者が潜んでいるといえます
想像力の欠如。これは教会に籠もりがちなクリスチャンに多く見られると思います。
削除確かに想像力の欠如は同感するところもあるが、クリスチャンが他人に向かって「不信仰だ」と言い放つのは「殺すぞ」と言い放つのと同義と言い放てる、不信仰だと言い放つ人=殺人者と言い放つあなたも少し怖い。
削除他人に向かって不信仰だと言い放つクリスチャンは間違いなく殺人者です
削除重要なことですから何度でも言いますが
クリスチャンはこいつなら不信仰だから殺して構わない、という姿勢を
有史以来絶えず実行してきた
歴史が証明している
そして今、携挙マニアどもが声を大にして神によるジェノサイドを心待ちにするような発言をしきりに連発している
RAPTや吉田大悟などが典型例