「不信仰」を許さないのは神か牧師か

2014年5月10日土曜日

キリスト教信仰

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 村上密先生のブログに、「不信仰」というタイトルの記事がある。

 ここで引用されている、松木治三郎氏の「不信仰」の定義に、目から鱗が落ちた。
 いわく、「不信仰は、信仰の否定より以上、むしろ信仰の拒絶、神の約束の放棄である」

 つまり、不信仰とは、その都度その都度の神の「導き」を信じるか信じないかという、神を信じているという前提に立った話でなく、この神を根本的に拒絶する、すなわち信仰を捨てる、という究極的な次元の話だということだ(と私は解釈した)。だからこの場合、「不信仰=クリスチャンを辞める」ということになる。

 この定義の是非はともかく、これは私にとって、今までにない視点だった。

 私が知っている教会では、この「不信仰」はよく使われていた。むろん、松木氏の言うような意味でではない。そこでは神様を確かに信じている人々が、この〇〇という神の「導き」を信じるか、この××という神の「語りかけ」を信じるか、という選択をしょっちゅう迫られている。そして信じないなら、「不信仰」の烙印を押されてしまう。

 確かに、神様を信じているのにその「語りかけ」を信じられない、というのは矛盾している。理屈から言えば「不信仰」と言われても仕方がない。けれど話はそう単純ではない。

 たとえば、その教会は日本を救うのに不可欠な存在であるとする(牧師がそう言っているとする)。するとその教会の一挙手一投足は、日本の未来に大きな影響を与えることになる。一つの活動でもしくじったら大変なことだ。1億2千万の民が、滅ぶことにもなりかねない。
 そういうプレッシャーを与えられた信徒らが、あれやこれやの活動に駆り出される。時には不本意なこともしなければならない。「何故これをするのですか」と尋ねると、「神の御心だからだ。従わないのは不信仰だ」とバッサリ。
「自分は神様を信じている。でも何故ここまで苦しまなければならないのだろうか」という疑問が信徒の頭に浮かぶ。けれど、それを表明することはできない。不信仰の烙印を押され、救いから漏れてしまう(と思う)からだ。

 神様を信じている。けれど、その言葉にはちょっと従いがたい。そういうことはクリスチャンなら誰しもあるのではないだろうか。献金する時とか、不慣れなことをする時とか、犠牲を伴う時とか、怖い時とか、勇気が出ない時とかに、聖書が推奨する行動を必ずしも取れないことがある。

 けれどそれで神様が怒るかというと、そんなことはない。怒るのは上記のような牧師だけだ。神様は同情してくれるし、手を差し伸べてくれる。決して私たちを見捨てない。たとえ私たちが不信仰であっても、神様は絶対に諦めない。
 ペテロは水の上を歩いたけれど、途中で沈みかかった。その時イエス・キリストがとった行動を見れば、それがわかるはずだ。

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