日本で子どもに「クリスチャン教育」をする難しさ

2014年5月23日金曜日

キリスト教信仰 教育

t f B! P L
 クリスチャンの親であれば、子どもに「クリスチャン教育」を受けさせたいと願うのは、自然なことであろう。イエス・キリストを神と信じれば天国に行ける、というキリスト教教理を子どもがしっかり身に着け、良い人生を送り、いずれは天国に行く、それを親は願うからだ。そういう、子どもにも自分と同じ信仰を持ってほしい、その信仰に留まってほしい、という思いが、自ずと親を「クリスチャン教育」へ向かわせるのだと思う。
 
 事実、十数年前に日本各地で少数ながら「チャーチスクール」が始まった頃、遠隔地にも関わらず子どもを入学させる親が少なくなく、学校見学に訪れる家族も後を絶たなかった。一部のキリスト教メディアには「日本の教育界に革命をもたらす」等と取り上げられ、関心の高さがうかがわれた。信仰の継承を願うクリスチャンにとって、チャーチスクール興隆の流れはまさに朗報であったろう。
 
 そういう親の心情は想像に難しくない。子どもの将来を想う、純粋な愛だ。しかし今にして思うのは、(結果論かもしれないけれど)その流れに飛び付く前に、十分な検討が必要だったのではないか、ということだ。
 
 これは一口に語れるほど簡単な話ではない。チャーチスクールは言うなれば、日本でまだ全然確立されていない「クリスチャン教育」を始めようという、それ自体にパイオニア的精神が必要なチャレンジだった。それだけに検討すべき課題が沢山あった。そしてそれに負けない勢いというか、希望みたいなものは確かにあった。けれど、それらの課題についてよくよく検討しないまま、「クリスチャン教育」というイメージだけに賛同する人が多かったように思う。
   
 それらの課題の一つを挙げるとしたら、クリスチャン教育の本質とは関係ないけれど、当時の状況として(今も全く変わっていないけれど)「マイノリティであること」がある。
 
 日本のクリスチャン人口は、総人口の1%未満だと言われている。つまりそれだけ超少数派ということで、その子弟らがスクールに集まっても、ものすごい小規模になる。実際、「大きい」と言われるチャーチスクールでも総生徒数50名程度、1学年にすると数名とか、1名だけとかにもなる。小さいところだと全生徒で数名だ。
 そういう少人数制が一概に悪い訳ではない。けれど、いわゆる「マイノリティであること」に、キリスト教独特の信仰も絡んで、そこはある種「特殊な世界」となる。その世界に身を置けば置くほど、そこから受ける影響は大きなものになる。
 具体的に、どんな世界なのだろうか。
 
■狭い世界
 まず、そこはとても「狭い世界」だ。親や教師が公立学校や周辺地域を「この世」と呼んで隔離気味にしてしまうことが、その原因でもある。
 子どもらは「井の中の蛙」みたいになってしまい、外の世界で何が起こっているのか、同世代がどんなふうに過ごしているのか、良いも悪いも含めてほとんど知ることがない。教えられるのは、自分たちがどれだけ恵まれているか、どれだけ守られているか、どれだけ特別かという、優越感を助長するような事柄ばかりだ。するとどうしても、情報統制的な環境になってしまう。子どもらは「この世」の中に生きているのに、どこか別世界、一般人にはわからない特別な世界の住人だと思うようになる。そして変に「この世」を蔑んだり、上目線で見たり、逆に恐れたりするようになる。そうなると、将来自分達が出ていくべき、生きていくべき「この世」にうまく適応できなかったり、大きなギャップに苦しんだりするようになる。
 
■甘い世界
 次に、そこはとても「甘い世界」だ。と言っても、指導が厳しくないという意味ではない。中には厳しい教師もいるだろう。しかしチャーチスクールは、少なくとも現段階では、根本的に生徒に厳しくしきれないようになっている。少人数であるから、そしてキリストの愛を実践すべき場所であるから、生徒らは一人一人が非常に注目され、可愛がられ、丁寧に保護される。そしてよっぽどのことがない限り、何をしても許される。
 そこでは多くの場合、「厳しさ」も限定的だ。たとえばテストの結果がいつも悪いとか、遅刻や欠席ばかりで出席日数がぜんぜん足りないとか、そういう理由で退学になることはまずない。なぜならそういう客観的な数字や基準で一律に評価されるのでなく、「この子は〇〇だから」という個別対応に流れてしまいやすいからだ。そしてその子の頑張れない背景とか、過去の傷とか、そういうものが必要以上に考慮され、「癒しが必要だ」とか、「今は勉強など後回しだ」とか、「ありのままでいいんだ」とか、そういう話になる(それはそれで正論だけれど)。その結果、学業の不足や、学校生活の破綻が見過ごされてしまう。
 それでその子は進級できたり卒業できたりするのだけれど、その子の将来を考えるなら、あまり良いことではない。一般社会は、多くの場合、個別対応などしてくれないからだ。
 
 これはもちろん極端な例だけれど、同様の「甘い」構造は、どの子に対しても当てはまる。
 
 もちろん子どもと言っても様々で、一概には言えない。現にチャーチスクールのような環境が必要な子は確かに存在する。けれど、少なくとも現段階の日本では、絶対的にチャーチスクールの方が教育成果が上がるという子は、そう多くはないと私は思う。
 
 こうは言っても、「クリスチャン教育」そのものが問題なのではない。言うなれば、現在の日本がそれに適していない、ということだと思う。クリスチャンが超少数派であり、かつチャーチスクールが法的に認められていない状況の中、あえてそれを選ぶのは、大変な逆境に身を投じることだ。しかもその結果が、上記のような「この世に適応しづらい人間」を育ててしまうことになるとしたら、本末転倒であろう。
 
 マイノリティであることは何も悪いことではない。けれど苦労があるのは確かだ。そして大人が自ら進んでその苦労に飛び込んでいくのは、まったくの自由だ。けれどその苦労に、何の選択権もない子どもを投じるのは、いかがなものだろうか。

QooQ