『教会と同性愛』を読んで思うこと・その2

2014年5月6日火曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

t f B! P L
 書籍『教会と同性愛』について、もう少し書きたい。前回は内容について全然触れなかったので。
 この本は前半は主に、「変更不可能な同性愛指向」が教会でどう扱われてきて(あるいは扱われてこなくて)、現在どうなのか、そして「同性愛」に対する(聖書解釈を含む)誤解について書かれている。
 私を含む普通のクリスチャンは、同性愛と聞くと、「聖書に書いてある通り罪なんだよね」と、あまり考えなしに捉えてしまう傾向があると思う。教会で明に暗に語られるいろいろなメッセージが、その傾向を助長しているかもしれない。
 しかし本書の指摘に基づいて聖書を読み直してみると、確かに、聖書が同性愛指向そのものについては何も言っていないことがわかる。
 また、特にレビ記18章から20章に書かれた諸々の律法についての言及には、なるほどと思わせられる。すなわち、そこには確かに男性どうしの性交を禁じる命令がある(女性のはない)けれど、同時にひげの端を剃ることも、二種類の糸で織った服を着ることも、血を含む肉を食べることも禁じられている。祭司になるには、肉体的欠けは、よじれた睫毛ですら許されない。しかしそういう諸々の律法は、私たちは「現代には合わない」とかの理由で、平気で無視している。そんなふうにある命令だけを選択的に強調するのはフェアでない、という訳だ。
 そういうふうに聖書を選択的に利用し、同性愛だけを殊更に非難しようとする傾向は、案外多いように思う。私もよく知らないうちはそんなふうに捉えていた。信仰熱心でよく聖書を読む人であっても、そこまで具体的な問題意識を持っていなければ、安易にそういう傾向に陥るのではないかと思う。
 ただ、それは単に無知なだけだ。問題は、無知を通り越している場合にある。つまり同性愛指向を殊更に嫌悪、憎悪している場合だ。
 憎しみにはほとんどの場合、理屈は通じない。話し合って解決できるものでもない。理性だけで了解しあえるなら、おそらく人類に争いは起きない。
 よく「生理的にムリ」とかいう表現を聞くけれど、これは同性愛指向に対しても向けられやすい敵意だと思う。「嫌いなものは嫌いなんだ」という気持ち自体はよく理解できる。けれど、それをストレートに表すのはあまりに大人げない。
 私は殊更に同性愛指向を擁護する立場ではない。けれどこうやって書くのは、本書のある一文が目に留まったからだ。私はこの一文をどうにも否定できない。最後に引用したい。
「私たちは、自分の性向に気づいたのであって、それを選んだわけではない。そして、それを変えることはできない」(『教会と同性愛』31ページ)
 
 

QooQ