体験主義的クリスチャンは、日常の良い出来事を、何でも「神の祝福」と捉える傾向にある。
たとえば宣教旅行に行くとき格安のチケットが偶然取れたとか、集会に遅れそうな時たまたま知人の車に拾ってもらえたとか、病院での手術が無事終わったとか、そういう自分にとって都合の良いことは全て神の祝福で、「神様感謝します」と言う。
それは非常にポジティブな姿勢で、何でもかんでも悲観的に取るより全然いい。感謝することも大切だ。それに神は「全てを益に変える」(ローマ8章28節)ことが可能だから、クリスチャンに起こることは広義には、全てが良いことになるはずだ。だから上記のように言うのは間違いではない。
しかしそういう体験主義者らを見てみると、「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」という図式に固執しているように思える。上記のチケットとか知人の車とかの例を見ても、そういうことはクリスチャンにだけ特別に起こることではない。多くの人がそういう「ラッキー」を日常的に体験しているし、そういうのをいちいち必然とは言わない。
それを「神の祝福」と呼ぶのは確かにクリスチャンの特権であるけれど、何でもかんでも「良いこと」「奇跡的なこと」「不幸中の幸い」に変換しようとするあまり、神からの特別なものと、そうでないものとを区別できなくなっているような気がする。
しかしそれならまだ可愛いほうだ。ひどい場合は、捏造してでも「良いこと」を作り出そうとする。
たとえばある牧師は「霊の戦い」が好きで、しょっちゅうあちこちで「悪霊追い出し」とか「場所のきよめ」とかをやっている。そして祈っていて風が吹いたら「聖霊の風だ」と言い、山中でワシが現れれば「勝利のしるしだ」と言い、林道を這っていくヘビを見たら「悪魔が逃げ出した」と言う。もはや何でもありではないか。
「良いこと」=「神の祝福」=「感謝」というのは基本的に間違っていない。けれど、じゃあ「良くも悪くもないこと」とか「自分の都合に合わないこと」、ひいては「悪いこと」は、神からのものでないのだろうか。ヨブが感謝したのは、物質的豊かさに対してだけだっただろうか。
私たちは良いも悪いも含めて神から受けているはずだ。自分の都合に合わないことや意に沿わないこともひっくるめて、全てを感謝して受けるのが信仰のはずだ。取捨選択による感謝は、単なるワガママでしかない。
もちろん体験主義者らも、苦難を通った証をする。しかし彼らの話はだいたいがハッピーエンドに終わる。「こんな苦難がありました、しかし、後にはこんなに祝福がありました。ハレルヤ」
しかしそれは苦難が解決されたから言えるのだ。あるいは、解決可能な苦難だから言えるのだ。
私たちが受ける苦難というのは、解決されるものばかりではない。パウロの「トゲ」のように、嫌でも生涯付き合わねばならないものもある。それに時に絶望しながらも生きていくのが、人生であり信仰なのではないだろうか。だからこそ、その「信仰」を「希望」と呼べるのだと私は思う。
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