2014年6月30日月曜日

什一献金について思うこと・その2

 前回に続き、什一献金について考えてみたい。
 
 什一献金とは、全収入の十分の一を神に返す、という趣旨の献金だ。その聖書的根拠は、マラキ書その他の旧約聖書にある(新約にはない)。
 これを捧げる先は多くの場合、所属する教会だ。つまり「神に返す」とは現在、「教会に捧げる」とイコールになっている。
 
 全収入の一割というのは、決して小さな負担ではない。特に小さな子どもがいる家庭や、介護を要する家庭などには、重い負担ではないかと思う。しかし同時に、それは教会にとって重要な収入源となっている。什一献金なしには教会会計が成り立たない、という教会は決して少なくない。
 と、いうようなことを前回書いた。
 
 ここで、献金の本質について考えてみたい。献金とは何だろうか。それはクリスチャンにとって神への感謝であり、善意であり、「信仰の測り」に応じたものであり、それぞれにできる範囲で(時にはそれ以上に)捧げる「心」であろう。「やもめの献金」からわかる通り、金額の大小は問題ではない。捧げたい、感謝を表したい、という心の行為である。どの教会でも「献金の勧め」で同じようなことが言われる。つまり、捧げたいと思う範囲で捧げるのが献金、ということだ。嫌々ながら捧げるのは祝福にならない、というのも背景にある。
 
 そういう本質から考えてみると、毎月必ず収入の一割を捧げることが決められているというのは、「捧げたい」から「捧げなければならない」への転換だと言える。個人の自由でなく、義務となっている。そしてそこには、「聖書を根拠にそう決められているから、払う以外にない」みたいな、若干「後ろ向き」な動機が生まれ得るだろう。
 
 ところで、クリスチャンの義務とは何だろうか。
 他者を愛することとか許すこととか、イロイロありそうだ。けれど、究極的な、絶対にこれだけはしなければ救われない、という意味での義務は、イエス・キリストを神と信じることであろう。教会員にならなければ救われないとか、伝道しなければ滅ぶとか、一定量の奉仕をしなければ地獄に落ちるとか、そういうことはない。その意味で、現代を生きるクリスチャンに課せられた義務は少ない。
 その点、旧約の時代は大変だった。律法というのがあって、その細かい規定を全て正しく行わなければダメだったからだ。つまり、山のような義務で「がんじがらめ」だった訳だ。
 
 そうやって旧約時代、新約時代と分けて考えてみると、なぜ旧約の什一献金の義務だけが現在も残っているのだろうかと、疑問に感じなくもない。逆に言うと、それならなぜ他の律法の義務は守らなくていいのだろうか、という疑問だ。
 
 それに、旧約聖書から什一献金を補強する箇所ばかりが取り上げられるのは、なんだかproof textingな気がする。なぜ新約の時代にふさわしく、新約聖書を使わないのだろうか。
 もっとも、什一献金について新約聖書は一切書いていないから、使いようがないけれど。
 
追記)
 ちなみに私個人は什一献金を否定するつもりはない。また献金自体はすべきだと思っている。新約聖書もそれを勧めている(命じていはいない)。捧げられるなら十分の一でも十分の二でも捧げたらいい。パウロも「心で決めたとおりにしなさい」と言っている(第2コリント9章7節・新改訳)。

2014年6月29日日曜日

什一献金(十分の一献金)について思うこと

 什一献金、つまり十分の一献金を制度化(義務化)している教団教派や教会はどれくらいあるのだろうか。
 私はほとんど福音派方面の事情しか知らないけれど、これを制度化していない教会というのは全然聞かない。多くの教会は教会員に専用の(氏名入りの)献金袋を渡し、マラキ書を開き、理路整然と説明して、什一献金を始めさせている。
 
 それが当然かどうか、良いか悪いかという話でなく、それはすでにシステム化されている。教会員が捧げる什一献金が、教会会計の主要な部分、あるいは無視できない部分を占めているという教会は少なくない。何かの収益事業をしていれば別だろうけれど、日曜礼拝や祈祷会を主な活動としている教会には、他に収入の当てもない。
 知人とそれについて話した時、「もしも什一献金がなかったら」と仮定したところ、「やってけないでしょ」という結論になった。そしてそれは、少なくとも私が知る教会では、まったく疑う余地のない事実であった。
 
 什一献金の根拠となる聖句は、マラキ書3章8~10節だ。つまり人の収入の十分の一は神のものであり、それを返さない者は盗人としてのろいを受け、返す者はあふれるばかりの祝福を受ける、という。
 それに対するもっともな反証もある。けれど、什一献金を制度化している教会では、そういう話はそもそも話題に上らない。当然すべきこと、自然なこと、皆がしていることとして話が進むからだ。言われた方は、盗人になりたくない、のろわれたくない、という気持ちが少なからずあって、それに応じることになる。
 
 什一献金云々の前に、その話の進め方は一方的ではないかと思う。けれどその辺はとりあえず譲る。私がもっと疑問に思うのは、什一献金なしに運営できない教会を、当たり前と考えていいのかどうか、という点だ。
 もちろん什一献金信奉者は、「そんなの当たり前でしょ、信徒は聖書の言う義務を果たして祝福を受けるのだし、教会はそれでさらに豊かになるのだから」というようなwin-win関係を持ち出すだろう。けれど収入、たとえば毎月の給料の、税金等が引かれる前の額(給与総額)の十分の一を献金し、それ以外にも礼拝献金とか、会堂維持献金とか、宣教献金とか、〇〇献金とかイロイロ捧げることが多いのだ(もちろん強制ではないはずだけれど)。そういうのを真面目にやろうとしたら、一体いくら捧げることになるだろうか。
 
 たとえば月給30万円の場合、什一献金で3万円、礼拝献金等で数千円から~数万円、それに税金等が引かれ、手元に残るのは20万円弱くらいだろう。若者の一人暮らしならまだ可能かもしれないけれど、それで家族を持ったらやっていけるのだろうか。仮にやっていけるとして、貯蓄まで手が回るだろうか。
 もちろん自ら進んで、喜んで捧げて満足しているならいいかもしれない。精神的満足を献金することで得た、とも言えるだろう。けれど、それにしても大きな代償のような気がする。そういう信徒らの決して小さくない代償の上に教会が成り立っているとしたら、それを当たり前と言っていいのだろうか。
 
 とは言うものの、それはすでに多くの教会でシステムと化している。什一献金をしていない教会の話を知人にしたら、「いったいどうやって運営してるんですか?」と聞かれたくらいだ。
 そういう什一献金で教会が成り立つのが当たり前のことなのか、あるいは実は異常なことなのか、なんとも判断しかねる。

2014年6月28日土曜日

"Fight church"に見られる歪んだ「強さ」について

 "Fight church"の牧師が言う「キリスト教主流派の教えは男性を女性化させる」について、また書きたい。

 けれどその前に「主流派」という言い方が気になっている。主流派とは何なのだろう。そして自分たちは主流ではないのだろうか。自分たちは正統的キリスト教からは外れている、つまり異端的だ、と認めているのだろうか。

 という問題はさておき、キリスト教は人を女性化させるのか、という話。

 この話題が上る背景には、前回書いたように、教会の男女比が少なからず影響しているだろう。そしてそれに加えて、キリスト教の中心メッセージである「愛と許し」も影響していると思う。そのメッセージは闘争的というより保護的、 男性的というより女性的な性質だからだ。その両者が相まって、上記のような「男性を女性化させる」というイメージが作られると思われる。

 しかし根本的には、女性が多かろうと、教理が保護的だろうと、男性が女性化する直接の理由にはならない。もしなるとしたら、それは環境や状況のせいでなく、その個人の問題が大きいように思う。
 たとえば男性クリスチャンが教会に殊更に「愛と許し」を求め、依存し、何でも最後は許されると打算しているなら、「男らしくない」「弱々しい」というような評価になるだろう。そしてそういう輩が多いと、「まったくクリスチャンの男どもは」という全体評価にもなり得る。

 けれど、それが「女性化」だとしたら、その考え方は女性差別である。女性が弱々しいとか、卑怯だとか、そういう話になってしまうからだ。そもそも、男性化とか女性化とか、よく意味がわからないけれど。

 その問題は百歩か千歩か譲るとしても、だから「逞しい男」を目指して総合格闘技に挑戦するというのは、何だか筋違いな気がする。逞しさとか強さとかって、筋骨の強さのことなのですか? という話だ。

 相手を打ち負かすのは強さと言えば強さなのだろうけれど、本当の強さは、打ち負かせる相手を打ち負かさず、主張できることを主張しない忍耐にある、と私は思う。

 もちろん総合格闘技でも何でもやったらいい。運動やスポーツは良いものだ。けれどそこに教会の男性化とか女性化とか、救世主には逞しい男が必要だとか、そういうメッセージは要らない。一個人がそう信じるのは勝手だけれど、教会で会衆に語る立場の人間が、そういう主張をいかにも神からのものとして語るのは、もはや暴力の域ではないかと私は思う。

2014年6月27日金曜日

"Fight Church"について思うこと

 "Fight Church”というアメリカのドキュメンタリー映画がある。
 
 「戦う教会」とでも訳すのだろうけれど、予告編を見る限り、戦うのは教会でなく牧師だ。筋肉ムキムキのマッチョ牧師たちが、総合格闘技MMAに挑戦し、教会では「戦いの教え」を語る。
 

 Fox Newsの記事によると、この映画は、「自らを愛するように隣人を愛しながら、その顔に思いきり膝蹴りを食らわせることができるのか?」と問いかけている、とのこと。
 
 これだけ聞くと、なんだかセンセーショナルなテーマな感じがする。アメリカでは賛否両論別れているようだ。
 けれど私がこの疑問に対して単純に思うのは、いやいや、単なるスポーツでしょ、ということだ。総合格闘技を楽しむ牧師や教会が少なからずあって、牧師とかクリスチャンとかいう肩書を前面に出して活動している、というだけの話ではないのだろうか。
 スポーツをする以上、あくまでそのルールに則ってプレイしなければならない。総合格闘技ならキックやパンチを相手に当ててポイントを稼ぐのがルールな訳で、隣人愛とか聖書とか、そもそも関係ないような気がする。これが何かの問題になるのなら、じゃあアメフトが好きな牧師がアメフトの試合に出たら「愛する隣人にタックルを食らわせられるのか?」とかいう話になるのだろうか。
 公式サイトが言う「宗教と暴力の結びつき」というのは、かなり大袈裟な気がしてならない。
 
 もっとも、制作者側はそういう問題提起として制作した訳でなく、あくまで客観的事実を語っているだけらしいけれど。
 
 この映画を制作したブライアン・ストーケル監督によると、総合格闘技を「男性向けの教会活動の一環」として取り入れている教会は多いという。教会内で教室を開いたり、観戦イベントを開いたり、敷地内で実際に試合をしたりしているそうだ。
 日本の教会にも、空手教室とかサッカー教室とかを開いているところがある。まあそれで地域に貢献できて、教会会計も潤うなら、問題ないのではないか。
 
 ただ私が問題に思うのは、予告編で一人の牧師が言う言葉だ。「キリスト教主流派の教えは、男性を女性化させるものだ
 確かに、特に日本の教会は男女比で言うと女性の方が多く、傾向として女性的文化が目立つのはあると思う。けれどそれを理由に「男らしさ」が殊更に強調され、逞しい男でなければならない、戦わなければならない、という体育会系なメッセージばかりになるとしたら、バランスを欠いている。礼拝の説教で「戦い」ばかりが語られたら、信徒としてはたまったものではない。
 教会は「癒しと回復」だけの場所でなく、「逞しさと戦い」だけの場所でもない。両者が程よく共存しているのが理想だろう。
 
 もっとも、日本の教会に「男性向けの活動」が少ないのは、個人的には頷ける。その意味で、格闘技教室とか観戦イベントとかがあるのは楽しいかもしれない。まあ、楽しいから教会に行くって訳でもないけれど。
 
追記)
 ちなみに、総合格闘技の試合や練習以外で、愛する隣人に膝蹴りを入れるのはもちろん許されない。しかし残念ながら、カルト化教会では許されてしまう。

2014年6月26日木曜日

All you need is kill【映画版】の感想(少しネタバレ)

 All you need is kill【映画版】の感想。今回はできるだけネタバレしないように書きたい。
 ちなみに【原作版】のネタバレ感想はこちらから。

■初の試写会
ぴあ映画生活」で試写会チケットをもらえたので、一般公開にさきがけて本作を鑑賞してきた。
 会場は神保町駅から徒歩5分の一ツ橋ホール。試写会に参加するのは初めてで、小規模なスペースでやるのかなと思っていたけれど、行ってみたら300人規模のホールだった。案内のハガキには身体検査するかもとか書いてあったけれど、全然ノーチェック。18時の開場に少し遅れて行ったら、すでにほぼ満員だった。


■総合的には・・・SFコメディ
 面白い。原作をうまくふくらませている。SFアクション+コメディ+少々恋愛と言ったところ。
 監督が『ボーン・アイデンティティ』のダグ・ライマンだから、シリアスでリアル志向かと思いきや、意外にもコメディ映画である。原作からだいぶ改変されているけれど、私はこっちの方が好き。

■原作との違い
・舞台が日本の房総半島から、ロンドンとパリになっている。ただしロンドンの基地では、けっこう日本語が聞こえてくる。
・主人公は志願兵でなくワケありの脱走兵。
・エイリアン(ギタイ)の外見が樽型からタコ型(?)になっている。
・ギタイのサーバーとかバックアップとかアンテナとかの設定がない。代わりに「アルファ」「オメガ」というタイプがいる。
・ループによる主人公のスキルアップの様子が、原作より存分に楽しめる(ここポイント)。
・後半のストーリーはまったく違う。舞台はビーチ以外が多くなる。
・原作のキャラは主人公(ケイジ)とリタ、ファレウ軍曹以外登場しない。
・その他にもいろいろ。

■見どころ
タイムループの優越感
 主人公ケイジ役のトム・クルーズはいつも強いヒーローばかり演じるけれど、本作では当初「戦いたくない」「指を切っただけでも失神してしまう」ほどの弱虫である。それが無理矢理出撃させられ、右も左もわからぬまま戦場をさまよい、敢えなく戦死。トム・クルーズに似合わない醜態を見られる。
 けれど逃れられないループに巻き込まれていると知り、勇敢に戦うリタとの出会いもあって、戦う覚悟を決める。そして何度死んでもやり直せるゲーム感覚で、あれこれ試行錯誤していく。その成長過程が見ていて楽しい。笑いの要素も多い。
 ループを重ねれば重ねるほど、ケイジだけが知る情報が増える訳で、それが起こす周囲とのギャップは本作の見所の一つだ。
 また面白いのは、当初はどうやって敵に勝利するか、どうやってループから抜け出すかが目的だった
ケイジが、最後はどうやってリタを生き残らせるかの方を優先している点だ。
 だからあるシーンでは、ケイジはリタにコーヒーを勧めたり、べつの話を持ち出したりして、なんとか彼女に「ある行動」をさせようとする。実はそれは何度も試行錯誤した後の話で、戦う限り、リタはどうやってもそこで死んでしまうのだった。つまりそこに至るまで、ケイジは敵を倒すことでなく、リタを生かしたまま敵を倒す手段を何度も模索していたことになる。これは私たち観客をも相手にしたループの優越感である。
 少しネタバレになってしまうが、私が一番痺れたのは、リタを生かすために「初めからあえて彼女に声をかけない」選択肢を選ぶところだ。このループではケイジは一人で戦いに行く。なんとも切なく、格好いいシーンだ。

・現実↔ループ(少しネタバレ)
 ループの最中、ケイジはいわば無敵の存在だ。何度失敗してもやり直せるからだ。その「捨て身のスキルアップ」は本作の見所の一つだとすでに書いた。けれど後半、ある事情から、ケイジはこのループから抜け出してしまう。するともう死ねない。最終決戦は予測不能、やり直しの効かない一発勝負となる。この現実、ループ、また現実という転換が生み出す心境の変化も面白い。

・結末
 原作の結末だと、結局リタは死ななければならず、ケイジの戦いはまだまだ続いていく。映画版は後半から原作を離れていくけれど、この2点については、最後までどうなるかわからない。これは是非、劇場で確かめていただきたいと思う。
 また最後の最後に「どんでん返し」的な展開が待っている。これをどう取るかは意見が割れそうだ。私は良くも悪くもいかにもハリウッド的だなと思った。原作の桜坂洋氏がどう思われたのか、是非聞いてみたいところだ。

2014年6月25日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第35話

 母との電話を終えたキマジメくんは、しばらく机の上を眺めていた。よく見ると、全体にうっすらホコリが積もっている。置きっぱなしのノートをどかしてみる。するとノートの形をした綺麗な部分が現れた。
 教会で忙しいからな、とキマジメくんは思った。長いこと、机など使っていなかった。大学の勉強もしていない。というか部屋にもほとんどいない。大学が終わったら教会に直行しているし、時には講義をサボって朝から行くこともある。部屋でゆっくりする時といえば、夜遅くに帰って寝る時くらいだ。
 教会の仕事は沢山あった。ポスター作りは毎月あるし、他にも週報作りとか、ホームページの更新とか、撮った写真の整理とか、雑多な事務仕事が山ほどある。それ以外にも溝田牧師から毎日のように何かの仕事を言いつけられるから、溜まる一方だ。夜遅くまで働いていも、翌日に持ち越すのが日常になっていた。
 それに加えて「ダビデの幕屋の回復」の祈り会もある。キマジメくんの担当の時間枠は今のところ週1回だけれど、担当以外の枠にもできるだけ参加するよう言われている。
 もっと時間がほしかった。神様のために働くには、時間が全然足りない。その意味で、大学を辞めるのは至極現実的な選択だった。それに数年内に艱難時代が始まるとしたら、大学など何の役にも立たない。
 母との電話を思い返す。確かに大学を中退するのは、両親からしたら心象の悪いことかもしれない。しかし事情が変わったのだ。神様のために働くべきだし、もう残された時間はあまりないのだ。問題は、そういう真理を両親にシェアできないことだ、とキマジメくんは思った。正しいことが何かわかっているのに、それを伝えることができない。ひどいジレンマだった。
 
 キマジメくんは部屋を出た。街中を歩いた。日曜の夕暮れ。買い物帰りの親子連れや、若いカップルや、走り回る子どもたちとすれ違った。誰も、この世がもうすぐ終わるなんて思っていない。神を信じないがゆえに悲惨な目に遭うなど、想像もしていない。それは実際に起こるのだ、とキマジメくんは心の中で叫んだ。しかしそれを今叫んだところで、狂人と思われるのは目に見えている。どうすればいいのだろう。
 
 いつの間にか教会の前まで来ていた。毎日通っているものだから、無意識に足が向いたのかもしれない。会堂にはまだ明かりが点いていた。キマジメくんはどうするというプランもなく、階段を上がって会堂に入った。そこには溝田牧師がいた。
「おや、キマジメくん、どうしたんだい」
「ああ、先生」
 キマジメくんは母との電話の件を、細かく牧師に話した。牧師はウンウン頷きながら聞いてくれた。牧師は時折キマジメくんの肩に手を置き、労わるようにさすってくれた。
「そうか、それは辛かったろう」牧師に言う。「キマジメくんもよく頑張ったね」
「はい」キマジメくんは涙を流した。牧師はそっとハグしてくれる。しばらくそのまま、泣き続けた。落ち着いたところで、牧師は言った。
「キマジメくんね、今の君に何が必要か、私にははっきりわかるよ」
「何ですか」
聖霊様の力だ」牧師は毅然として言う。「君はまだ聖霊様の満たしを経験していないだろう。それは聖霊のバプテスマとも言う。福音書でイエス様が明言し、ペンテコステの日に弟子たちに成就した現象だよ。その満たしがキマジメくんを強くするんだ、ペテロがそうであったように」
「はい」確かにその箇所は読んだことがある。使徒の働き2章だ。二階座敷で祈っていた弟子たちに炎のような舌が現れ、皆が聖霊に満たされ、異言で語り出した、という箇所だ。
「そんなことが可能なのでしょうか」
「もちろんだとも。聖書に書いてあるからね。うちの主要な教会員は皆経験しているし、異言も語っている。君も知っているだろう。もっとも何人かの不信仰で頑なな信徒には、与えられていないがね。まあ、それは彼ら自身の不信仰の結果だがね」
「どうすればいいのでしょうか」
「祈り求めることだよ。祈って求める者には聖霊を賜る、と聖書に書いてあるからね。ただし少しも疑わずに、信じて求めるなら与えられる。キマジメくん、しばらく断食して、聖霊様を祈り求めてみなさい。今君にはそれが絶対必要だと思うね。聖霊様の力なしに、この局面は打ち破れない。主が今、私にそう示しておられるよ」
 それから断食の諸注意や、聖霊様の求め方を聞き、キマジメくんは教会を出た。別れ際、溝田牧師に「祈っているよ」と声をかけられた。キマジメくんは深く頭を下げた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年6月24日火曜日

"Jesus Camp"に子どもを送る親が期待すること

 今回は"Jesus Camp"に子どもを送る親の心境について考えてみたい。そして"Jesus Camp"と同じような様態の教会や団体全般に子どもを預ける親の心境について、探っていきたい。

 紹介した動画を見るだけでも、「子どもにあんなことをさせるべきじゃない」と感じる人は少なくないだろう。あの様態は、昨今のカルト化教会のそれと変わらない。つまりリーダーの神格化、リーダーが主張する逸脱した教理への盲従、神への「奉仕」「訓練」と称された搾取の数々、そしてそれらを支える「感覚頼み」の「神体験」である(あの祈りの様はまさに集団ヒステリーの域だ)。
 大人でさえ徐々に騙されていくのだから、子どもはもっと酷いことになる。純真無垢なだけに、大人より熱狂的な信奉者になることもある。

 そういう場所に、なぜ子どもを送るのだろうか。その親がおかしいのだろうか。ある意味そうだろう。しかし親自身も同じように騙され(あるいはマインドコントロールされ)、良かれと信じて送るのが実情だろうと思う。親は基本的に子どもを愛するものだし、保護するものだからだ。子どもに害があるとわかっていて放置するはずはない(あくまで基本的にだし、そうとも言い切れない事件が昨今多いけれど)。

 ではその親が"Jesus Camp"に何を期待するかと言うと、子どもの「清め」だったり、クリスチャンとしての「霊的成長」だったりする。日本のクリスチャンにも、「子どもを霊的に敏感にしたい」とか言う人がいて、日々何やら「訓練」しているようだ。

 そういう親がめざす一つの成長モデルに、旧約聖書のダニエルがいると思う。
 ダニエルはバビロン捕囚の際、バビロンの王ネブカデネザルに仕えるために選ばれたユダ族の少年の一人だった。彼は律法をかたく守り、王の食事で身を汚すことをしなかった。そして3年間バビロンの教育を受けた結果、誰よりも優れた者と認められ、王に仕えることになった。ダニエルは夢を解き明かすこともできて、王に適切な助言を与えることができた。ダビデやソロモンのように晩年になって罪に陥ることもなかった。自分の子どもがダニエルみたいだったら、と願う親は少なくないだろう。

 ダニエルの優秀さの鍵は、律法をかたく守ったこと、つまり神様への忠誠にあると思われる。そのためバビロン捕囚の際は、まわりの子たちが食べる食事を食べず、野菜だけ食べることを選んだ。それは周りからしたらエキセントリックなことで、「普通の子と違う」「普通の子のように楽しまない」「どこか変わっている」という評価にもなる。
 このキーワードだけで見ると、"Jesus Camp"に登場する子たちと重なる。ハリーポッターを嫌悪し、世間一般の子が楽しむようなサマーキャンプに参加せず、泣きながら熱心に祈る。その特殊性、特異性は、ダニエルのような成長を期待させるだけの説得力を持っているのではないか(結果は別として)。
 だからそういう成長を願って我が子を"Jesus Camp"に預ける、という心情はあるだろう。そしてそれは日本でチャーチスクール、ホームスクールを利用する親の心情にも通じていると思う。

 しかし、当たり前の話ではあるけれど、たとえばダニエルが完全無欠の聖人だったはずがない。聖書に書かれていないだけで、普通の少年らしい一面もあったはずだし、いろいろ失敗したことも罪を犯したこともあったはずだ。「優秀さの象徴」みたいに殊更に祭り上げるべきではないだろう。
 それこそ、先日取り上げた映画「ノア 約束の舟」みたいに、今度はダニエルを大胆に解釈した青春映画でも作られて、その「優秀イメージ」がちょっと崩れるくらいが丁度いいのではないかと私は思う。

2014年6月22日日曜日

"Jesus Camp" に思う、クリスチャンの「質」の大切さ

 前回紹介した"Jesus Camp" 関連でもう少し書きたい。

 このキャンプを主催する「キリスト教福音宣教会」は、教派としては(一応)ペンテコステ派に属するとのこと。そして統計的データはないけれど、アメリカではペンテコステ派は多いようだ。だから、あのドキュメンタリーにも「アメリカを動かす」という大それた副題が付けられていると思われる(もちろんペンテコステ派の全てがあんな様態なはずはないと思うし、ああいう団体がアメリカを動かしているはずもないと思うけれど)。

 アメリカはキリスト教国だから教会もクリスチャンも多くて、大統領も公式のスピーチで"God bless America"とか言うし、さぞクリスチャンにとって住みやすい環境ではないかと、私などは想像している(あくまで想像だ)。かたや日本はクリスチャン人口1%未満と言われ、場合によってはクリスチャンだと表明するのも勇気がいる。マイノリティゆえに肩身の狭い思いをする機会は、決して少なくない。

 しかしもし"Jesus Camp" のような有様が結構な比率で存在するとしたら、クリスチャンが多数派だからと安心してもいられない。キリスト教国である、クリスチャンが多数派であるというのも大切だけれど、その場合その「質」は更に重要だ。たとえば仮に大多数が新興宗教的、カルト的団体だとしたら、そのキリスト教国は非常に危険な状態だろう。

 そう考えると、クリスチャン人口1%未満であっても、まだまだ希望はあるような気がする。少数でも質の高いクリスチャンがちゃんと存在していて、周囲とも良い形で折り合いをつけているなら、クリスチャンが殊更悪く言われることもないだろう。むしろ良い印象を持たれて、「クリスチャンもいいもんだ」と思ってもらえるかもしれない(実はそれが一番の伝道方法ではないかと思う)。
 ただ問題は、少数かつ低質である場合だ。数が少ない上に質が悪く、いろいろ非難されているとしたら、それは救いようのない絶滅危惧種みたいなものだ(必ずしも今の日本がそうだと言っているのではない)。

追記)
 クリスチャンの質の高さとは何か、というのも一つの議論になるだろう。私が確信しているのは、どれだけ聖書に通じているかより、どれだけ人格的に成熟しているかの方がはるかに重要である、ということだ。

2014年6月20日金曜日

"Jesus Camp" 紹介。反面教師としてだけれど。

 "Jesus Camp" というドキュメンタリー映画がある。2006年のアメリカのものだ。邦題は「ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~」となっている。アメリカの福音派団体がクリスチャン子弟向けに開催したキャンプに、密着して撮影したもののようだ。たまたま知ってダイジェスト版を観たけれど、非常に衝撃的だった。

→"Jesus Camp" ダイジェスト版

このダイジェスト版でよくしゃべっている女性は、「キリスト教福音宣教会」の代表、ベッキー・フィッシャーとのこと。映画「ハリーポッター」を「神の敵」と呼び、カメラの前で堂々と「異言」を語り、子どもたちに「聖霊によって」手を置いて祈っている。祈られた子たちは恍惚状態で、両手を挙げて天を仰ぐ。泣いたり叫んだりしながら祈る子どももいる。
 他にも、「清め」と称してペットボトルの水で子どもたちに手を洗わせ、陶器を悪魔に見立ててハンマーで割らせる。いわゆる「預言的アクション」だ。子どもたちはいたって真剣に、「イエスの御名によって」泣きながら手を洗い、陶器を割る。湧き上がる歓声は子どもたち自身のものだ。フィッシャー女史は「これは(霊的)戦いだ」と叫び、この世という悪から清められること、勝利することを強調する。
 幼い少女が号泣しながら祈る。彼女の口からは「ユダの獅子」という言葉が出る。
 最後は、ボーリング場でボーリングを楽しむシーンだ。と思いきや、少女は投げる前に跪いて祈っている。そして隣のレーンの客に、伝道のパンフレットを渡す。

 何が衝撃的だったかと言うと、上記の映像そのものでなく、それが私の知っている教会とまったく同じ雰囲気だったことだ。見てすぐに強烈な既視感を覚えた。その映像の中の空気や音を、肌で感じられるくらいだった。
 もちろん陶器を割るとかいうディティールは違うけれど、リーダーの導き方とか、しゃべり方とか、使う言葉とか、それに対する信徒の応答の仕方とか、全体の雰囲気とか、本当に似ている。同じと言ってもいいかもしれない。

 副題にある通り、その様相はまさに「原理主義」と言えるものだろう。子どもたちはおそらく真剣に「神様を愛している」のだろうけれど、それは「神に対する真摯さ・純粋さ」というより、「やりすぎ」「狂信」に近いだろうと私は思う。

 小学生のうちからこういう原理主義にどっぷり浸かった子どもが、将来どう育っていくのか、見たいような見たくないような、という感じだ。子どもたちはリーダーの言うことを100%信じるだろうから、その方向に育っていく他ないような気がする。親はどう思っているのだろうか。おそらく親も同じ信仰なのだろうけれど。

 ちなみにこの動画はYoutubeに上げられている。「高評価」より「低評価」の方が多いのが、せめてもの救いだ(2014年6月20日現在)。

2014年6月19日木曜日

映画「ノア 約束の舟」に過剰反応するクリスチャンについて

 ハリウッド映画「ノア 約束の舟」が日本でも公開され、一部で論議(?)になっているようだ。一部というのはキリスト教界の一部だ。
 私は未見なので内容に関してイロイロ言えないけれど、いくつかの予告篇と映画情報誌を見ただけで、何が問題なのか大体わかった気がした。
 
 本作に批判的なのは、一部のクリスチャンや教会だ。「聖書に反している」「反キリスト的だ」「未信者に誤解を与える」というのが彼らの主張だ。
 未見なのでその主張の正当性について判断できない。けれど、その批判は根本的なところで筋違いではないかと私は思っている。なぜなら本作は、設定の段階で聖書をかなり脚色し、改変を加えているからだ。以下、前情報でわかる範囲の改変部分を記す。
 
・ノアの3人の息子たちが独身になっている。
・ノアに養女がいることになっている。
・次男がノアを裏切ろうとする。
・洪水の最中の方舟に侵入者がいる。
 
 これだけ見ただけでも、ハナから聖書とは違うことがわかる。つまり作り手は、聖書に忠実な宗教映画を作ろうとしたのではない。それに監督は「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキーである。屈折した人間描写で有名な人(誉め言葉)だ。そういう人に真面目な宗教映画・聖書映画を期待するのは、お笑い芸人に笑いを取るなと言うのと同じくらい筋違いだ。

 つまりそもそも聖書通りでない映画なのだから、監督なりの「方舟」解釈というか、可能性の拡大というか、そういうのを純粋に楽しむのが正しい見方だと私は思う。
 なのに聖書と違うという点だけ挙げて、反キリストだとか悪魔的だとか言うのは、融通の効かない頭でっかちに思えてならない。それに「未信者に誤解を与える」と本気で心配しているなら、自ら誤解を解くべく伝道したらいいだろう。端から見ていて口だけ出すのは「パリサイ人」だと聖書は言っているのだから。
 
 映画は、興味のある人が自分なりの見方で楽しむものだ。そして「これは面白い」「これはつまらない」という評価を出しあって、そういうことを共有できる人どうしでああだこうだと話すのが楽しいのだ。
 なのに訳のわからない言いがかりをつけて、「この映画は悪魔のものだから見ない方がいい」とか言うのは、花火をしようとしている子供たちに「危ないから」と水をぶっかけるようなものだ。
 
 もちろん、どう映画を判断するかは個人の自由なので、自分の中でいくらでも批判してダメ出ししたらいい。とはいえ、洪水後ノアが息子たちにヘビの皮でできた物をあげるシーンがあると聞いているけれど、それを「悪魔の儀式だ」とか言う人がいて、閉口してしまった。
 そこまで悪魔を意識して普段から生活しているのかどうか知らないけれど、ずいぶん窮屈な考え方だと思う。他人事ながら気の毒である。
 
 上記のようなクリスチャンの過剰反応が気になったので今回の記事を書いたけれど、私はべつに本作を推している訳ではない。ここまで書いたからには見なきゃいけない気がするけれど、そういう動機でもなければ見に行かないかな、と個人的には思っている。

2014年6月18日水曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・奉仕篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第5~7話の解説。
 本文はこちらから。
→第5話
→第6話
→第7話

 入信したての平和(?)に過ごせる時期が過ぎ、キマジメくんにも「奉仕」の季節が訪れる。「教会は客船でなく戦艦だ」という牧師の主張のもと、信徒全員に何らかの奉仕が課せられ、キマジメくんはポスター作りを選ぶ。

 この牧師の主張は、「全員が自分の能力を生かして神に仕えるべきだ」という、一見もっともで平等なものに思える。けれど裏を返すと、役に立たない者に居場所はない、ということになる。奉仕と言ってもイロイロあるけれど、根本的には能力主義の話だ。

 これは、奉仕とは何かという問題を含んでいる。この牧師に言わせると、教会運営に直接関わる仕事か、教会の事業に関わる仕事が奉仕ということになる。つまり教会に役立つことでなければ奉仕にならない。
 しかしそれだけが神への奉仕かと言うと、もちろんそんなことはない。たとえばただ礼拝に出席するだけでも、献金するだけでも、あるいは教会外で困っている人を助けることも、神への立派な奉仕だ。
 神への奉仕が教会内の奉仕を含んでいるのであって、その逆ではない。だから前述の牧師の主張は、突き詰めれば、神の教会から神を閉め出すことになる

 それを如実に示すのが、溝田牧師のキマジメくんの扱い方だ。キマジメくんの都合や時間を無視してとんでもない負荷をかけ、遂行するまで許さない。しくじったりスムースでなかったりすると露骨に苛立ち、皆の前でも叱責する。そしてそれを「神の御心」、「訓練」と言い張る。まるでブラック企業のようだ。
 それは神の為でなく、牧師の為の奉仕だ。牧師のお気に召すことが「素晴らしい奉仕」となる。神はほとんど(まったく)関係ない。

 またそこには差別がある。リッチ兄弟のような「上客」と、キマジメくんのような貧乏学生とでは扱いが異なる。前者は有力な「金づる」で、必然的に丁重に扱われる。後者は都合よく使えるコマで、雑に扱われる。
 もっとも、牧師に利用されるという点はどちらも同じだけれど。

 またそういう教会の「奉仕」の本質を考えてみると、結局のところ神に関係あるかどうか怪しい。集会に人を集めることやイベントを「成功」させること、教勢を増すこと、メディアに露出すること、豊かになること等が殊更強調されている気がするからだ。
 もちろんどんな動機であっても、キリスト教が広まるのは良いことだ。しかしその背後で信徒が奉仕の名のもとに搾取されていて、そういう牧師支配の体質までもが伝えられていくとしたら、その福音はかなり混ぜ物入りの福音なのではないだろうか。

2014年6月17日火曜日

人生を二元論に陥れる思考停止。「人民寺院」の集団自殺について・その3

「人民寺院」は最終的に集団自殺にまで至ってしまった。その様態は今で言う「破壊的カルト」の典型例を示している。つまり、

①教祖(牧師)の神格化と信徒の盲従
②信徒の囲い込みと情報統制(暴力と搾取も)
③独自の真理(教理)に基づく救世観と終末観

 である。
 前2回の記事では、この信徒の側の心理について書いた。つまり「肯定のスパイラル」と「本物と偽物の共存」である。今回は信徒のもう一つの心理状態について書きたい。すなわち「思考停止」についてだ。

 変な話だけれど、もし牧師がカルト化教会として成功したかったら、「カリスマ性」が必要となる。これは外見云々というより、人を惹きつける何かだ。たとえば感動的なスピーチの才能とか、大きなビジョンを掲げて人々を扇動する大胆さとか、それに人々を従わせる求心力とかだ。そして取り分け重要なのが、幅広い知識と確かな判断力だ。
「こういう時は○○するのが一番だ」と自信を持って言えて、それが概ね正しいことが必要だ。そうでないと「神格化」までいかない。なぜなら信徒らの「牧師先生の言う通りだった」という経験の積み重ねが、牧師の権威を増す方法だからだ。これに成功すれば、人々は牧師の言いなりになったも同然だ。「先生の言う通りにしていれば間違いない」「先生の判断が一番正しい」となるからだ。

 それは信徒が自分の意思・判断を自ら放棄することになる。自分でどれだけ考えても、結局牧師の判断の方が良さそうだったり合理的だったりするなら、ことあるごとに「先生に聞いてみよう」という発想になる。それが習慣化すれば、はじめから考えること自体放棄して、牧師の判断を仰ぐことになる。

 そうなってしまう原因の一つには、昨今の日本人に多いと言われる、自信のなさがあるかもしれない。
 自分の判断に迷いがある時、牧師から「それじゃダメだよ、こうだよ。簡単なことだよ」とか自信満々に言われ、それがもっともに聞こえると、「やっぱり自分の判断じゃダメだ」となる。
 そういう体験の繰り返しが、牧師の神格化と信徒の盲従という図式を生む。しかしそれこそが信徒の思考停止だ。

 またそこには、間違えたくない、いつも正解したい、そして可能な限りの祝福を受けたい、という信徒の側の貪欲もあるだろう。

 しかし現実の物事は、数学のように明確な答えが出るものばかりではない。時には多くの並列した選択肢がある。どれも一長一短で選びがたいこともある。その中で牧師の判断が一番良いように思えても、それが必ずしも最善とは限らない。だいいち何が正解で何が間違いかなんて、誰に判断できるだろうか。クリスチャンであるなら、聖書に反しない範囲で、自分の心にかなう選択を自由にしていいはずではないか。そもそも明らかな間違いであれば、間違いだとわかる。わからないのは、とりたてて間違っていないからだ

 なのに牧師の判断が唯一の正解で、あとは全て間違っているとするのは、行き過ぎた二元論だ。自分自身を束縛し、窮屈にさせるだけだ。そんな奴隷制みたいな教会生活を送る必要はない。それにそんな教会は教会とは呼べない、と私は思う。

2014年6月16日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第34話

 鮨屋からまっすぐ家に帰った。キマジメくんは鞄を置くと、一つ溜め息をついた。無意識だった。そして次の瞬間、自分が溜め息をついたことに気づき、慌てて祈った。「いつも喜んでいなさい、とあります。神様、溜め息をついたことを許して下さい」
 それは溝田牧師から常々言われていることだった。「溜め息が何を表すかわかるかい?」と牧師はふんぞり返って言った。「不平不満、そして不幸だよ。だからクリスチャンは溜め息などついてはいけない。もし溜め息をついたなら、その場で悔い改めなさい。でないと祝福を失うことになる」
 気を取り直して机に向かう。そして受話器を取った。すぐに実家の母が出た。
「どうしたの。珍しいじゃない」
「ちょっとね」
 母とのどうでもいい会話がしばらく続く。ちゃんと食べてるのか、寝てるのか、寝坊してないのか、お金はあるのか、等々。子供じゃないんだからと思う。そうこうしているうちに、大学の話になった。チャンスだ。キマジメくんは母の言葉をさえぎって言った。「あのさ、大学なんだけど」
「何?」
 母の口調が変わる。キマジメくんは一瞬躊躇した後言う。「辞めようと思うんだ」
「はあ?! 何言ってんの?」
「何って文字通りだよ。中退しようと思うんだ」
 母はしばらく沈黙する。といっても数秒だったはずだ。ずいぶん長く感じられた。
「なんでまた?」
「いや、働こうと思って」
「働く? 就職なら卒業してからでいいじゃない。なんで急ぐの?」
「それは、えっと、教会に行ってるんだ」
「教会って、教会?」
「そう」
「キリスト教の?」
「そう」
「じゃあ何かい、学校辞めて教会で働こうってことかい?」
「うん、まあそうなる」
 母は長く唸る。これもまたずいぶん長く感じた。「やっぱりよくわからないんだけど、なんで今すぐ大学を辞めなきゃならないの?」
「そりゃ」世界が終末を迎えるからだよ、と言いかけたが、やめた。どうせ信じてもらえないだろう。『これは特別な啓示だから一般人には理解できない』と溝田先生が言っていたのを思い出す。終末が近いのは本当なのに、聖霊様に目が開かれていない人には、愚かなことにしか思えない、と。両親とて、それは例外ではないのだ。
「時間がないからだよ」
「何の時間?」
「今すぐやりたいことがあるんだ」
「どんなこと?」
「そりゃ、教会の仕事だよ」
 また母が唸る。キマジメくんは受話器を置きたくなった。母は続けた。
「どうしてもわからないんだけどね、その教会の仕事ってのは、学生が、今すぐ学校を辞めてまでしなきゃいけないことなの? そんなに教会は人手不足なの?」
「人手の問題じゃないけど」
「じゃあどういう問題?」
「あの、うまく言えないけど、いろいろ事情があるんだよ」
「ああそう・・・」母がまた沈黙した。どう考えても納得していない。キマジメくんは心の中で神様に祈った。どうか母の心を変えて下さい、真理に開かれるようにして下さい、と。
 しばらく待つと、母がまた言った。
「キマジメ、とりあえずさ、一回帰ってきなさい。しばらく顔見せてないんだから、たまにはいいでしょ。お父さんも心配してるし。帰ってきて、ゆっくり話聞かせてよ。決めるのはそれからでもいいでしょう」
「う、うん・・・」
 キマジメくんは不承不承返事をした。それからまた何か言われたけれど、頭に入ってこなかった。カレンダーを見ていた。帰るとしたらいつがいいだろうか。
 その時気づいたのは、日曜の礼拝をはじめ、ほとんど毎日教会に行っているということだった。祈り会やら奉仕やら、休めないものばかりだ。これを休んで実家に帰るなど、溝田牧師に言えるだろうか。言うのは言えるだろうけれど、何を言われるかわからない。「電話で済む用件だろう。もう子供じゃないんだから」とか言われそうな気がする。
 そういうことを考えていたら、とても母の話を聞ける気分でなくなった。母はまだ何か言っていたけれど、キマジメくんは無理矢理遮って「じゃあまた」と電話を切った。
 受話器を置いて部屋に静寂が戻ると、キマジメくんはまた溜め息をついていた。しかし次の瞬間それに気づいて、また悔い改めの祈りをした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年6月15日日曜日

本物と偽物の共存。「人民寺院」の集団自殺について・その2

 前回の記事で、「人民寺院」の集団自殺の背景には「肯定のスパイラル」があると書いた。教祖ジム・ジョーンズの慈善事業を「肯定」した信徒らは、同様に彼の教理や言行の「ズレ」を肯定し続け、最後は集団自殺までも肯定することになった。
 それと同じ構造が現在のカルト化教会にも見られる。素晴らしいと思って始めたことに、次第に苦しめられていく。
 
 この構図を見て、「そんなバカな」と思う人がいるかもしれない。けれど、オレオレ詐欺のニュースを見て「私は騙されない」と豪語する人が被害に遭ってしまうことがある。つまり自分がそれを実際に体験するまで、人は何とでも言える。
 
 このスパイラルに陥ってしまうのは、そこに罠があるからだ。「本物と偽物の共存」という罠だ。「正と不正の混在」と言い換えてもいい。
 
 人民寺院で言えば、当初の目的であった人種差別撤廃運動そのものは、多くの人にとって良いこと、必要なこと、正しいことであった。救われた(入信したという意味でなく)人が大勢いた。その運動は良いものだった。
 しかしそのプロセスにおいては、不正が混じっていた。立場を利用した暴力、不当な扱い、「神のために」という大義名分にカモフラージュされた数々の搾取。それは悪いものだった。
 多くの良いものの陰に隠れた、悪いもの。
 その運動が発展していく過程で、いつしか両者の比率が逆転した。最後は大部分が悪いものになってしまった。
 
 こうした「本物と偽物の共存」は、カルト化教会にも共通している。そこには良いもの、喜ばしいもの、人のためになるもの、感動、美談が溢れている。不自然なくらいに。少なくとも初めのうち、悪いものが全然見えない。
 けれどそこに所属し、長くいることで、違う景色が見えてくる。それは「ちょっとした違和感」として始まる。これでいいのかと考えることもある。けれど確かに溢れている数々の良いもの、もともとあったリーダーへの尊敬と信頼、仲間との連帯感などがそれを妨げる。
 これが、「肯定し続けることで最後はとんでもないものまで肯定してしまう」現象につながる。
 
「カルト化教会にひっかかるなんてバカだ」と言う人もいるだろう。それは結果だけ見ているからだ。しかしそういう教会がはじめから明らかに悪ければ、誰も近づかない。すごく良いもの(他者への善行など)が沢山あるから、近づくのだ。意地汚く金儲けに走って騙されたのとは違う。
 
 こういう話で引き合いに出される聖句に、ピリピ1章18節がある。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(新改訳・抜粋)
 つまり動機が悪くても、やり方が悪くても、福音の真髄は変わらず、それが伝えられるのは良いことだ、プロセスでなく結果を喜ぶ、ということだ。
 しかしそれは伝道に関する話であって、長期に渡る教会形成には適用しかねるだろう。次第に福音が歪められ、信徒らが疲弊し追いつめられていくのを喜ぶべきとは思えない。それを喜ばねばならないとしたら、教会は生き地獄と同じだ。
 
 もちろん何にでも本物と偽物は共存している。完璧に正しい、あるいは完璧に悪いというものはない。
 だから私たちが警戒すべきは、それらが共存していることに対してでなく、あたかも悪いものなど何もない、すべてが良いものだと見せかけている姿に対してだ。

2014年6月14日土曜日

「肯定」のスパイラル。「人民寺院」の集団自殺について。

 アメリカに、ジム・ジョーンズが設立した「人民寺院」(Peoples Temple)というキリスト教系新興宗教団体があった。今では「破壊的カルト」の先駆け的存在として知られている。同教団は1978年、ジョーンズ自身と1000人近い信徒の集団自殺により、消滅した。

 同教団は1974年に拠点をサンフランシスコから南米のガイアナに移し、同時に1000人以上の信徒がそこに移住した。教祖の名をとった「ジョーンズタウン」という自給自足のコミュニティが形成され、表向きはそこで「地上のユートピア」を再現していたようである。しかしその背後に暴力的・非人道的支配があったことが、1978年、連邦議会の視察によって明らかになった。帰途に着く視察団を多数殺害し、後に引けなくなった教祖は、そのまま信徒を巻き込んで集団自殺を決行した。

 この集団自殺で亡くなったのは信徒900人前後で、内300人前後が未成年だったという。後の調査で明らかになったのは、全員が自ら死を選んだのでなく、自殺を拒んで殺害された人も多かったということだ。逃げ出したところを背後から撃たれた人もいた。

 非常に痛ましい事件である。自ら進んで死んだ人も、殺された人も、同様に被害者だ。こんなことがあってはならない。けれど宗教関係の集団自殺は他にも沢山の例がある。

 私がこの事件について言及できるとしたら、この自ら望んで死んでいった信徒たちの心境についてだ。彼らは最期までジョーンズを信じ、尊敬し、その言葉に従い通した。何故こんなことが起こるのだろうか。

 端から見る限り、カルト化教会の牧師やリーダーを信奉する人の心理は、全然理解できないかもしれない。自分の権利を放棄し、言われるまま従い、死にまでも従うなんて普通じゃない、と。しかしそういう人たちが特別おかしな人、変わった人だった訳ではない。どちらかというと「マトモ」な人が多いと思う。少なくとも最初は正常で合理的な判断力を持っていた。だからそこには何らかの理由がある。

 ジム・ジョーンズは当初、「人種差別撤廃」を訴えて活動していた。黒人を擁護し、無料の医療サービスや給食サービスを展開し、マスコミに大々的に取り上げられた。黒人信徒の中には家賃を肩代わりしてもらえたとか、親身になって相談に乗ってくれたとか、ジョーンズを心底称賛する声が少なくなかった。彼らにとってジョーンズは、まさに「聖人」だったろう。自分を無にして人々のために働き、愛し、仕える「神の人」に見えただろう。この聖人に一体どんな悪いところがあるだろうか。彼らはジョーンズを最大級に好意的に、肯定的に見ていたはずだ。

 だからジョーンズの言行に違和感があっても、最大限ポジティブに、彼の側に立った解釈でそれが処理されるのは当然だった。彼の信徒に対する暴力も酷い扱いも、すべては(今で言えば)「訓練」みたいなものに変換された。であるなら、誰もそれを「悪い」とは思わない。むしろ「良いもの」「必要なもの」となる。

 そういう「肯定」のスパイラルに入り込むと、究極的にはどんなことでも肯定されてしまう。最終的には「自殺」もそうだ。それはジョーンズいわく「革命的自殺」「別世界への出発」であった。それが肯定された背景には、キリスト教的「殉教精神」もあったかもしれない。

 だからジョーンズに導かれるまま死を選んだ信徒らにとって、それは絶対的正義だった。そしてその正義の始まりは、ジョーンズが最初に始めた慈善活動にまで遡る。
「人種差別撤廃は良いこと」=「それを始めたジム・ジョーンズは良い人」=「彼が言うことは良いこと」=(細かな肯定の連続)=「集団自殺は良いこと」
 そんな図式があったのではないだろうか。

 人の価値観や正義、真実は、一たびズレだすと、最終的にはとんでもなく大きくズレてしまうことがある。最初とは似ても似つかないものに変わり果てていることがある。そしてその変化が緩徐であればあるほど、自分では気づけない。
 それに気づいて立ち返るには、相応の衝撃がなければならないと私は思う。無理矢理引っ張られて転ぶくらいの強いショックがなければ、立ち止まれないし、戻れない。

 しかし人民寺院の集団自殺は衝撃が大きすぎた。死んでしまっては、立ち止まることも戻ることもできない。彼らの死について、私たちはよくよく考え、確かな教訓としなければならない。でないと彼らの死が、本当に無駄なものになってしまう。

2014年6月13日金曜日

勝手に東京名所「代官山」

 唐突ですが私事です。

 ブロガーのイケダハヤト氏が「イケダハヤトは高知県に移住します」という記事を書いていて、ブログタイトルも「まだ東京で消耗してるの?」に変えたようです。それはそれで良いと思います。けれど私個人は東京暮らしの利便性を捨てるのは(今のところ)ちょっと無理かなと思います。というのも私は地方出身で、地方に暮らす不便さ(同時に良さもですが)をある程度知っているからです。両者を総合的に考えて、東京の方が合っているかな、と私個人は思っています。

 それで今日は、本当に個人的にですが、東京暮らしで良かったな、と思うシーンを写真で紹介したいと思います。名付けて「勝手に東京名所」

 5月下旬に「代官山」に行きました。
 目的は二つ。一つは重要文化財である「旧朝倉家住宅」を観ること。もう一つは、本格的にお茶を点てられると話題のカフェ「楚々」に行くことです。
 どちらも東急東横線「代官山」駅から歩いてすぐのところにあって便利です。
 ではさっそく旧朝倉家住宅から。

①旧朝倉家住宅の正面。大正8年建築。総面積約5500㎡。
 数々の惨禍による消失を免れ、現在に至るそうです。

②庭門。気温がグッと下がった気がします。
 

 ③前庭。マイナスイオンたっぷり。東京都心とは思えない風景。というか現代とは思えない風景。かなり広いです。


④屋内。部屋によって和洋折衷な造りになっています。縁側に座ってノンビリしていると、『Always 三丁目の夕日』の世界にいる気になれます。寝るのは禁止ですが。

⑤庭先のきれいなお花。名前は知りませんが。

 続いて「お茶を点てられる」カフェ、『楚々』です。代官山駅東口から徒歩1~2分で着きます。

①メニューはいろいろありますが、今回は「お茶を点ててみたい」と思って行ったので「お点前(てまえ)セット」を注文。抹茶、お湯の入った釜、茶せん、そして説明書が付いてきます。

②本日の和菓子は「栗ようかん」でした。ほどよい甘さであっさりした感じ。

③茶せん。普段なかなか見る機会がないですよね。

 今回、生まれて初めてお茶を点ててみました。敷居が高い気がしていましたが、説明書を見ながらやれば至極簡単。1回やれば慣れてしまいます。しかも、普段飲むお茶(ペットボトルのとか急須で入れたのとか)より、味の深みが全然違います。苦くもありません。日本人で良かったな、と心底思うひと時でした。
「お茶を点てる」体験ができるだけでも、行く価値ありです。べつに宣伝する訳ではありませんが。
 ちなみに「お点前セット」を注文できるのは、14:30~17:00の時間限定です。

→旧朝倉家住宅のホームページ(渋谷区)

→楚々のホームページ

2014年6月12日木曜日

「インナーヒーリング」が主張する「神の無能さ」

「インナーヒーリング」について3回目。

 私が考えるインナーヒーリングの問題点の3つ目は、いわゆる精神疾患にはまったく対応できない点だ。
 何らかの精神疾患を抱えた人が教会に来ると、遅かれ早かれ、周囲はそれを認識する。統合失調症やうつ病の人を前にして、どうにも対応に困る場面が出てくるからだ。それで牧師がどう対応するかというと、大抵は「専門的な援助が必要だ」と判断する。その判断自体は間違っていない。けれどインナーヒーリングの有用性を主張し、「聖霊の洞察によって過去の傷を癒す」と豪語する割には、ずいぶん弱腰だ

 そういう牧師らは普段から、一般の心理療法やカウンセリングを軽視する傾向にある。「彼らには霊的な視点がない」とか、「彼らが扱えるのは魂の表層だけだ」とか言うのを実際に聞いたことがある。つまり自分のカウンセリングやインナーヒーリングの方が、一般のそれより優れている、と言う訳だ。
 であるなら、一般の専門家でも苦慮するような精神疾患を堂々と扱ったらいい。けれどそうしないのは、できないとわかっているからだ。

 もちろん特別な精神疾患のない人間相手のカウンセリングも重要だ。精神的健康を維持するために行われるカウンセリングもある。けれど、より危急かつ深刻なニーズを抱えた人々に手を差し伸べられない「ヒーリング」は、本当に有用なのだろうか。

 それに「聖霊の洞察を得て、イエス・キリストの御名によって過去の傷を癒す」のであれば、どんな病でも癒されなければおかしい。そうでないと神様は無能だということになってしまう。一般のクリスチャンにはインナーヒーリングを大々的に売り込む割に、専門的な精神疾患には指一本触れようとしないのは、全知全能の神様が、精神疾患に対しては何もできないと言っているのと同じではないか。

 現在、日本で臨床心理士になろうとしたら、大学院まで卒業しなければならない。そこまで専門的な学習を長期間しなければ、人の心は扱えないという訳だ。けれど、このキリスト教界のインナーヒーリングはどうだろうか。その「治療者」はどんな学習を、どれだけしたのだろうか。ちなみに私が知っている「インナーヒーリング牧師」で言えば、専門的な学習など一切していない。

 もちろん学習や学歴が全てと言うつもりはない。けれど、それらをバカにしてはいけない。たとえば、インナーヒーリングを受けたら余計にバランスを崩した、より悪い状態になった、という人も少なくない。私の友人にもいる。そういうケースの場合、治療者は「より深く大きい傷があって、それが痛み出したのだ」とか言う。ものは言いようだ。そういう精神療法の危険性を知らない素人が、不用意に手を出してしまったとしか、私には思えない。そしてそれは「勉強不足でした」では済まされないレベルだ。

 そういうインナーヒーリングの「安易さ」が、いろいろな弊害を生み出していると思う。たとえば以前取り上げた同性愛嗜好の人をつかまえて、「過去の傷があなたをそうしたのだ」とか言う。それは異性愛嗜好者に対して、「過去の傷があなたをそうしてしまったのだ。あなたは本当は同性愛嗜好だ」と言うのと変わらない。全然的外れな話だ。
 しかしそういう的外れを、いかにも真剣な顔で、もっもとらしく話す。だから真に受けてしまう人がいる。そうなるとインナーヒーリングはもはや、百害あって一利なしだ。

2014年6月11日水曜日

「インナーヒーリング」に見られる反聖書性

「インナーヒーリング」について続き。
 
 前回書いたけれど、インナーヒーリングの問題点は、効果を実証できない点にある。本人も覚えてない「幼少期の傷」を指摘されるけれど、それが本当かどうか確認できず、治療効果も明確でない。そして効果がない理由として「過去の別の傷」を挙げられても、やはり検証できない。結局のところ、終わりのない「過去への旅」をさせられる羽目になる。というのが前回のまとめだ。
 
 インナーヒーリングに熱心になる人々には、共通点があるように思える。大雑把に言うと「自己啓発」タイプだ。
 彼らは長い間、自分の性格や在り方に葛藤を覚えてきた。そしてどうにかして変えたい、変わりたい、より良い人間でありたい、とずっと願っている。その為にいろいろ行動を起こしてきた。けれど、やっぱり変われない現実に何度もぶち当ってきた。そういう人たちだ(その傾向は多少の差はあれ誰にでもあるだろうけれど)。
 
 そういう長い「心の旅路」を経て、幸か不幸かインナーヒーリングにたどり着く。その新しく見える療法は、効果があるように思える。
「幼少期の傷を聖霊によって探り当て、そこに主の癒しを受ける。長く痛んでいた自分の『内なる人』が癒され、解放される」
 そのキャッチコピーは非常に魅力的だ。是非とも受けたいと思う。そして受けた結果、前回書いたようなループに迷い込むことになる(もちろん全員が全員そうという訳ではないだろうけれど)。
 
 タチが悪いのはやはり、効果があるようなないような、結果が判然としない点である。この場合、インナーヒーリングの是非はともかくとして、本人には「治療を受けた」という事実がある。その思い入れは何らかの効果を生む可能性がある。たとえば医学的に言うところの「プラセボ効果」だ。ただの生理食塩水を注射された患者が「症状が良くなった」と認めるのと同じで、インナーヒーリングの体験者が「過去の傷が癒された。自分は変わった」と感じる(思い込む)ことは、十分あり得る。しかしそれはインナーヒーリングの効果でなく、言うなれば自己治癒能力だ。

 もちろん インナーヒーリングが自己治癒能力を発揮する一つのキッカケとなったのなら、それはそれで悪いことではない。けれど、だからと言ってインナーヒーリングそのものが肯定される訳でもない。
 
「過去の心の傷を癒す」というフレーズは響きが良く、映画的で、メルヘンチックだ。実際に精神分析の分野でも長く論じられている。だからクリスチャンがそれに取り組むのも良いことと思われるかもしれない。けれどクリスチャンが規範とすべき聖書は、それについてどう言っているだろうか。
 
 たとえば第二コリント6章17節は、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(新改訳)と言っている。またローマ6章は「私たちの古い人は死んだ」と言い、ピリピ3章13節は「うしろのものを忘れ」たと言っている。過去に戻って癒されなければならないとか、傷があっては不十分だとか、そんなことは言っていない。精神分析なら精神分析で自由にやったらいいけれど、クリスチャンは新しく生まれ変わったはずなので、いちいち忘れた(死んだ)過去を掘り起こす必要などない。それが聖書に立った生き方だと私は思う。
 
追記)
 個別のケースにおいては、過去の出来事が重要となることもあるかもしれない。しかしそれは重篤な精神疾患とか、危機的な精神状態とか、そういう専門的な援助を要するケースにおいてであって、短期の講習を受けただけの牧師がふりかざす「インナーヒーリング」ではどうにもならない。
 
追記2)
 今回の内容については、下記のページを参考にさせていただいた。
 

2014年6月9日月曜日

「インナーヒーリング」に見られる自分第一主義

 日本のキリスト教界に「インナーヒーリング」なるものが入ってきて久しい。「内なる癒し」とも呼ばれ、積極的に取り入れている教派や教会もある。クリスチャン個人がブログ等で、「インナーヒーリング受けてすっごく解放されました」とか書いているのも少なくない。

 インナーヒーリングは、自分でも覚えていないような過去の悲惨な出来事が、現在の自分に大きな(負の)影響を与えていると思われる場合、その過去の傷を癒さなければ精神的に健全になれない、というのが前提となっている。だからそういう過去の傷を聖霊に探ってもらう必要があって、そのためには専門的な学び(?)や訓練(?)を受けた人に関わってもらう必要がある、という訳だ。
 そしてインナーヒーリングを受ける過程の中で、たとえばこんなふうに言われる。「あなた自身は覚えてないけれど、幼少期に実の父から虐待を受けたことがあります。その傷が今、あなたの〇〇という問題として現れているのです」
 それで想像の中でその当時に戻り、イエス・キリストの御名によって癒しを受ける、という流れになる。「癒された」人は大喜びで、先のブログのような報告をすることになる。

 それが各教会や教団でどういう形で紹介されているのかよく知らないけれど、「新しい癒しの手法だ」とか、「真理の回復によって回復された聖霊による癒しだ」とか、何か新しいもののように扱われるのは間違っている。なぜならインナーヒーリングでやっているのは、フロイトの「精神分析」をキリスト教的に味付けしたものだからだ。精神分析学自体は、19世紀末に始まっている。

  いわゆる心理療法は現在、おおまかに4つに分類されていて、フロイトの精神分析はそのうちの1つに位置付けられている。そして4つの中で唯一、「過去」に重きを置いている。誰が始めたのか知らないけれど、その過去志向の精神分析を、キリスト教教理に絡ませたのが「インナーヒーリング」だ。そして、本人も覚えていない過去の傷を聖霊の洞察によって探るという点が、キリスト教が精神分析を補強できる点だ(本当に補強できているかどうかは別として)。

 この「インナーヒーリング」の問題点の一つは、効果を実証できない点にある。
 本人が覚えていない、まったく記憶にない出来事を「本当にあったこと」として指摘されるのだけれど、その療法にすがりたい人は、言われたことを無条件に信じるしかない。本当かどうか、という検討はできない。だいいち幼少期のある期間肉親から虐待されたとか、第三者から酷い目に遭わされたとか、傷つけられたとか、そういう可能性は誰にでも「ありそう」だ。それに覚えていないのだから、「そんなことはない」と否定もできない。「そう言われればあったのかもしれない」となるだろう。むしろ援助者(牧師など)に好意的な場合は、「やっぱり、そういうことだろうと思っていました」とか言うことになりそうだ。

 また、そうやって「聖霊に探り当てられた」過去の傷に対して、イエス・キリストの御名によって「癒し」を宣言する。それで一連のヒーリング活動は終わるのだけれど、その結果どうなったかは、本人の気持ち次第だ。
 経験者の方々に聞くと、「解放されたように感じます」「ずいぶん変わりました」などという答えが返ってくる(あくまで肯定的な人の場合だ)。けれどそれは感覚頼みであって、本人がその「治療」についてどう思いたいか、という主観が大いに混じっている。当然、時間と労力、場合によっては費用をかけたのだから、効果があったと思いたいはずだ。しかしそれは治療効果云々の話ではない。

 それに、イマイチ解放されなかった、というケースも多い。そういうケースは、牧師に言わせると、「まだまだ深い所に傷が残っている」「さらに過去に遡って傷を癒さなければならない」「他にもっと深い傷がある」ということらしい。けれどそんなこと言い出したらキリがない。次が癒されたら次、という具合に、過去をどんどん掘り返していかなければならなくなる。それに「まだまだ癒されなければならない傷が隠れている」と聞かされるだけで、人によっては絶望的な気分になる。いつ終わるのか、解決するのか、全然見通しが立たないからだ。

 それは結局のところ、人を「過去」に執着させるだけだ。あるいは「傷」に執着させるだけだ。そして一歩も前に進めなくさせる。他者に心を向けるのでなく、自分の内面にばかり目を向け、まだこの傷がある、まだこれが癒されなけばならない、という「自分第一主義」に陥ってしまうからだ。それは聖書の言っていることに反している。
「いや、人々に向かうためにまず自分が癒される必要があるのだ」とインナーヒーリング信奉者は言うだろう。しかしそういう傷が治るのを待っていたら、死ぬまで他者には向かえない

2014年6月8日日曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・帰郷篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第3~4話の解説。
 本文はこちらから。
→第3話
→第4話
 
 これは、「日曜の礼拝を休んで帰郷する」というエピソードである。
 キマジメくんは祖父の三回忌の為、週末に実家に帰ることになる。けれど教会には(というより牧師には)「礼拝を休むなんてもってのほか」という雰囲気があって、言いづらい。そこで先輩のノンビリ兄弟に相談してみると、予想外に「大丈夫でしょ」と言ってもらえる。ここに、「教会全体としては〇〇だけど、個々人に聞いてみるとそうでもない」という現象が垣間見られる。
 
 それで安心したキマジメくんが牧師に相談してみると、やっぱり礼拝は休むなと言われる。そしてスケジュールを根掘り葉掘り聞かれて、結局、三回忌は土曜日だけで済むのだから、日曜には影響しない、だから礼拝を休む理由はない、と結論づけられてしまう。それは正論と言えば正論なので、キマジメくんには返す言葉がない。しかし理不尽さを感じずにはいられない。
 
 ここには、日曜礼拝を休むかどうかの以前に、牧師の信徒に対する過干渉がある。信徒自身がどう考え、どう決めるかよりも、牧師の「こうすべきだ」「こうしないとあなたはダメだ」という一方的な押し付けがあり、信徒の側の考えや、考える行為そのものが否定される。見方を変えると「自分で考えなくていい」という楽さはあるが、それは信徒の思考停止にもつながって危険だ。
 
 また牧師の言う通りにせず、自己判断で行動した結果、思わしくない事態に陥ったとする。すると牧師はしたり顔で言う。「だから言っただろう」「私にはこうなるとわかっていた
 それで信徒が「自分が間違っていた」と思ってしまうと、やはり思考停止の方向に流れてしまう。
 しかし、決断と行動には失敗が付き物だし、その結果が思わしいか思わしくないかは、一概には言えない。一見成功に見えることが実はそうでないこともある。あるいは牧師の言う通りにしていたら、もっと悪い結果になっていたかもしれない。それは誰にもわからないのだ。重要なのは、いろいろ助言を聞くとしても、最終的には自分で決め、自分で責任を取る、という姿勢だ。余談だけれど。
 
 このエピソードの第二の問題は、牧師の日曜礼拝に対する態度にある。
 作中、キマジメくんは日曜の朝に寝坊してしまい、礼拝を休むことになる。それに対して溝田牧師は激怒して、「悔い改めなさい!」と叱責する。
 これは言い換えると、「日曜礼拝を休むのは罪だ」というのと同じだ。しかも他の教会のことを異端扱いして、自分の教会で礼拝しなければ祝福されない、安息日を守ったことにならない、とする。これは神のことを思っての発言というより、「牧師自身の王国」の見栄えを思っての発言だ。しかし言われた方は、寝坊した自分が悪かった、神様を悲しませてしまった、という罪責感に苛まれることになる。
 
 日曜に礼拝を守るのはクリスチャンとして正論だし、牧師がそれを勧めるのも正論だ。しかし、絶対にそうでなければならない、一度でも破れば祝福されない、というのは窮屈すぎるし、ファンダメンタリズムのそしりは免れない。なぜならこの姿勢を突き詰めると、たとえ高熱があっても、病気でも、家族が死んでも、絶対に礼拝を休んではならない、という極論に行き着くからだ。
 
 ちなみに、作中の「祖父の三回忌で実家に帰る」というごく自然な申し出に対して、牧師は「死人のことは死人たちに任せなさいと書いてある」と答える。これはマタイ8章22節の引用であるが、「家族のことなんか放っておけ」という意味合いで使うのは、明らかにおかしいと私は思う。

2014年6月7日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第33話

「じゃあみんな、いいかい」溝田牧師は締めくくりに言う。「来週の礼拝は、更に打ち破っていこう。私たちは神の兵士、God's armyだよ、みんなそれに恥じない奉仕をするように!」
「はい!」と若者たちが元気よく返事して、解散となった。奉仕者らはどこかホッとした顔つきで、言葉数も少なく、会堂を出ていく。
 溝田牧師も席を立ったので、キマジメくんはすかさず声をかけた。「先生、ちょっと」
「おお。キマジメくん」牧師は笑顔を見せた。「何だい」
「できれば、これから献身のことでお話ししたいのですが」
「ああ、いいよ」溝田牧師はちらりと腕時計を見て、「良かったら、食事でもしながら話そうか」

 30分後、2人は駅前の鮨屋に入っていた。キマジメくんの好みではない。牧師に何を食べたいか尋ねられ、特にないと答えたら連れて来られたのだ。初めて入る店だった。廊下をしばらく歩き、奥の立派な座敷に腰を下ろした。キマジメくんは回転鮨でさえほとんど利用したことがない。鮨を食べる時どういうマナーが必要だったか、必死になって考えてみた。が、何も思い浮かばなかった。
「献身についてはどうだい」溝田牧師に聞かれ、キマジメくんはお茶を置いた。「はい、もう大学も辞めて、両親にも報告しようと思います」
「そうか、それは主が喜んでおられるよ」牧師は満面の笑みで言う。「今はもう終わりの時、来たるべき大収穫に備えて、更に働き人が必要となっているからね。私なんて毎日てんてこ舞いで、猫の手も借りたいくらいだよ」
 それからしばらく、牧師の苦労話が続いた。早朝2時間の祈祷に始まり、毎日届く膨大なメールを処理し、教会のリーダーたちから事業報告を受け、助言や指導をし、近隣の神学校に出向いて講義し、信徒宅を訪問する。夜はまた「ダビデの幕屋の回復」のために祈りの集会をし、必要なら信徒のカウンセリングもする。牧師いわく「秒単位のスケジュール」だそうだ。
「キマジメくんがスタッフになってくれたら、本当に助かるよ」牧師はお茶をすすりながら言う。「まさに天の助けだね」
 牧師が笑い、キマジメくんも笑った。しかし次の瞬間、牧師の顔が険しくなった。
「でもね、キマジメくん。献身には戦いが付き物だよ」
「はい」キマジメくんも顔を引き締めた。
「まずね、ご両親に話すってことだけど、もうそこから戦いが始まっているよ。何故ならね、ご両親はまだ救われてないんだよね? ってことはご両親は、この世の支配下、悪魔の支配下にあるってことだよ。悪魔に思いをくらまされているんだね。だから、神の尊い働きに関しては特に理解を示さないだろうよ。むしろ強く反対してくるだろう。神の働きを止めるためにね。でもね、キマジメくん、そこが踏ん張りどころだよ。歴史的にもね、多くの神の働き人が、誰にも理解されない中で、自分の働きを始めているんだよ。本当に尊いこと、真実なこと、価値あることは、だいたい初めは理解されず、かえって妨害されるものなんだ」
「はい」キマジメくんは湯呑の底を漂う茶葉を見つめながら答えた。「おそらく、両親は反対すると思います」
「だろう? でもね、今日のメッセージでも語らされたけど、時には神のために、私たちは多くを失う覚悟が必要なんだよ。あの御言葉の通り、家族さえもね。でも大丈夫。たとえ一時的に家族を失うことになっても、それは神のため。必ず、神がそれを返して下さる」
「はい、そう信じます」
 ちょうどキマジメくんが答えた時に、注文した鮨が届いた。
「キマジメくん、大丈夫だよ」溝田牧師はまた笑顔になった。「私が付いている。困ったら、何でも相談しなさい。じゃあ、食べようか。ここの鮨、本当にうまいんだ」

 会計の前に来ると、牧師が小声で言った。「キマジメくん、先に出ていなさい」
「あ、はい。ご馳走様でした」牧師の奢りだと気づいて、キマジメくんは頭を下げた。「では、お手洗いに行ってから出ます」
 トイレで用を済ませると、会計ではまだ溝田牧師が何やら話している。こちらに背を向けている。キマジメくんはその後ろを素通りして玄関を出ようとした。が、その時話し声が耳に入った。
「うん、領収書を頼む。宛名は『〇〇教会』。但し書きは、そうだな、『講師接待』にしといて」
 キマジメくんは一瞬、聞いてはいけないことを聞いたような気がした。けれど教会の会計のことはよくわからないし、いろいろ考えがあってのことだろうから、無関係の者があれこれ詮索すべきでないとも思えた。自分にいろいろ配慮してくれる牧師なのだから、きっと、いろいろ知恵を持って適切にやっているはずだ。
 キマジメくんは気づかれないように、そっと店を出た。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年6月6日金曜日

「祈り」について・その4(まとめ付)

 4回目になるが、「祈り」について書きたい。
 ちなみに今までの3回分をまとめると、だいたい次のようになる。

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#その1
 人前でする祈り(代表の祈り等)は、上手下手といった能力主義的な視点に移りやすい。結果、上手な祈りを披露しよう、聞かせようという偽善に陥りやすい。

#その2
 教会の指導にもよるが、教理的に正しいかどうかに固執してしまう。結果、正しく祈らなければ聞かれないという、神との無味乾燥な関係に陥りやすい。また逆に、こういう場合はこう祈れば聞かれるという、神を機械のように扱うことにもなる。

#その3
 周囲の様々な期待に応えたい、という動機で祈るようになってしまう。結果、正直でない、体裁だけ整えた祈りになってしまう。これはクリスチャン歴の長い人に多い気がする。
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 さて今回書きたいのは、「ファシズム的に煽られた祈り」である。これだけでは何のことだかわからないだろう。これはちょっと特殊な状況下でないと起こらない現象なので、まったく想像がつかない、という人が多いかもしれない。
 これはいわゆる「祈りの集会」で起こる。

「祈りの集会」と一口に言っても、その様相は教団教派によってイロイロだろう。私が知っているのは聖霊派のそれだけれど、まずその説明からしたい(聖霊派の中でも珍しいものかもしれない)。

 
 その集会は、プログラムがあってないようなものだ。基本的に司会もない。奏楽がずっと流れていて、集まった人々が各々祈っている。時折、誰かが「代表の祈り」のような形で祈る。それに同意する人が「アーメン」と言うことがある。その祈りに釣られるような形で、奏楽が盛り上がったり、逆に静まったりする。あるいは奏楽の方が先に盛り上がって、それに釣られる形で誰かが大声で祈ることもある。
 これだけ聞くと、秩序があるようなないような、「混沌」を感じるかもしれない。けれど一応のルールはあって、メンバーたちは心得ている。牧師はそれを「聖霊の流れ」「聖霊の自由な導き」「執り成しの霊の働き」等と呼ぶ。

 その集会の目標は、牧師いわく「打ち破り」である。この世は悪霊の支配下にあるので、その集会で、聖霊に導かれて祈ることで、その支配を打ち破っていく、という訳だ。それでどうやって打ち破るかというと、簡単な言うと、「祈りが盛り上がることによって」だ。
 その「盛り上がり」のプロセスに、私は「ファシズム的に煽られた祈り」があると考えている。

 たとえば集会が進む中、誰かが「この地域にリバイバルを!」と祈る。それを願う真面目な人たちは「アーメン!」と言う。すると奏楽が盛り上がって大きな音を出す。すると別の誰かも、「この地の悪霊を打ち破る!」とか祈る。ますます「アーメン!」が大きくなる。すると奏楽もますます大きくなる。さらに誰かが、「この地に神の国を!」とか祈る。周りがうるさいから、もはや怒鳴り声だ。すると「アーメン!」も怒鳴り声になり、奏楽は更に激しくなる。誰かが立ち上がると、それに釣られて大勢が立ち上がる。手を振り上げたり、軽く踊ったり、祈りも奏楽もヒートアップして止まらない。誰かが「イエスの勝利!」とか言うと、「イエスの勝利!」の集団連呼が始まる。そして気持ち的にも音量的にもこれ以上激しくできないポイントに到達して、勢いは急速に止んでいく。そして静寂。
 その流れを見て、メンバーの誰もが、「よし、今日も打ち破った」と確信する。

 この流れを「聖霊による打ち破り」ととるか、「集団ヒステリー」ととるかは個人の自由であろう。私はずっと前者だと思っていたけれど、今はイロイロあって後者だと思っている。私の分析はこうだ。
 そこには一時的な感情の盛り上がりが多分にある。奏楽のリズミカルで大きな音も影響している。「悪霊と戦う」という崇高な「使命」も動機づけとなっている。それに牧師から「毎回打ち破らなければダメ(不信仰・失敗)だ」と言われていることも大きい。毎回の「打ち破り体験」が習慣化している、ということもある。
 そもそも、「大きな音・大声=打ち破り」という図式には何の根拠もない。単純すぎる。じゃあ小さな声で祈ったら神様は働かれないのか、という話だ。
 しかも、仮に「打ち破り」が起こるとして、それをするのは神様だ。私たちではない。なのに「私たちが祈りで盛り上がらないと打ち破れない」というのは、神様を必要としない、自分たちでやります的な発想だ。律法主義とも言う。

 誰かが祈ったことに気持ちが高揚し、その流れで、更に高揚感を煽るような祈りをする。その連鎖が全体に広まり、全体として気分が高揚していく。その流れに反する祈りはもはやできない。その流れに沿った、しかも更に高揚させるような祈りしかできなくなっている。それはファシズム的に煽られた祈りであって、冷静に神様と一対一で向き合った結果生まれる祈りではない。

 こういう集会やそういう祈りについて全く想像できない、という人はいるだろう。しかし私が思うに、それを想像できないのは幸いなことだ。そしていつか、そういう場面に遭遇することがあったら、この記事を思い出して早々に立ち去ることを私は勧める。

2014年6月5日木曜日

「祈り」について・その3

「祈り」について。3回目。
 
 前2回で、祈りにおいて陥りやすい間違いについて書いてきた。端的に言うと「祈りが形骸化する」「教理に固執しすぎる」といった種類の間違いだ。これは私自身も陥りやすいものだし、多くの人にとってもそうだと思う。人間誰しも、人からどう思われるか、多少の差はあれ気になるものだ。
 
 こういった間違いに陥りやすく、かつそれを修正しづらいのは、実はクリスチャン歴の長い人たちだ。クリスチャンになったばかりの人の方が、ものを知らない分、純粋に祈れるし、間違いを認めやすい。そうできないのは、いわゆるクリスチャンのベテランに多い(と私は思っている)。
 
 クリスチャン歴の長い人たちは、その信仰生活がどうであれ、教会内では必然的に「先輩」になっていく。新しく教会員になる人は皆「後輩」だから、先輩としていろいろ教えたり、指導したりする機会が自然と増えてくる。また長い分、教会学校の先生とか、ある奉仕のリーダーとか、そういう立場に就く可能性も高い。大小の集まりで、「代表の祈り」をする(させられる)ことも多いだろう。

 だからどうしても、ちゃんとした聖書知識を持っていなければとか、模範的な信仰生活を送っていなければとか、そういう言外のプレッシャーに晒されることになる(その結果立派な信仰生活を送れるとしたら、そういうプレッシャーも決して悪くはないけれど)。また、特に男性なら、プライドみたいなものもあるだろう。
 
 そして、そのプレッシャーは当然「祈り」にも現れる。たとえば後輩が大勢いる中で代表の祈りをするとなったら、先輩としては当然、立派な、あるいは感動的な、あるいは御言葉に溢れた、あるいは的確な、「良い祈り」(?)をしなければと思うだろう。だからそうなるように、頑張って祈ることになる。
 しかしそういう視点で祈ること自体、すでに「形骸化」が始まっている。神に祈ることよりも、その祈りが人々にどう受け入れられるかを気にしているからだ。
 とは言っても、だからその祈りはまったくの嘘だ、と言うつもりもない。そこには真実な思いも少なからず含まれているだろう。けれど、そうでないものが多分に混じっているし、それは祈った本人が一番自覚している。

 この自覚をどう扱うかが、一番重要だと私は思う。すなわち、その自覚に向き合い、祈りや信仰の形骸化に危機感を覚え、どうにか真実な心に立ち戻ろうとするか、あるいは無視するか。
 その自覚を無視しても、周囲にはわからない。自分の祈りが「人目を気にした祈り」であると知っているのは、自分自身だけだからだ。そしてそれを上手に続けられるなら、その人はいつまでも「祈りがすごいですね」とか、「祈りの人ですね」とか、「立派な信仰ですね」とか言われ続ける。

 その路線で行くのは全然かまわない。けれど、すごく虚しいのではないかと思う。
 たとえば牧師が「この地にリバイバルを!」とか叫ぶタイプだとしたら、自分としてはさほどそれを願っていなくても、泣きながら「リバイバルを!」とか祈らなければならなくなるからだ。
 そして一度そうすると、「熱く祈る人」「信仰の人」というようなイメージが付いて尊敬される。その尊敬に応えるためには、そしてそのイメージを崩さないためには、更に熱い祈りをしなければならなくなる。自分はそんなこと、さほど願っていないにもかかわらず。

 そういう蟻地獄みたいなスパイラルに陥るのは大変気の毒だけれど、端から見ると「道化」みたいだ。周囲の期待に応えて、泣いたり叫んだり、神妙になったりして、敬虔なクリスチャンを演じるからだ。そして更に気の毒なのは、その祈りはもはや演技であり、神様とはほとんど何の関係もないということだ。

2014年6月4日水曜日

「祈り」について・その2

「祈り」について2回目。

 前回の内容をまとめと、
 人前で祈る(人に祈りを聞かせる)ことによって、「祈り」を能力主義的に評価する傾向が現れる。そしてその評価はクリスチャンとしての上下関係(?)を形成し、挙句には「素晴らしい祈りを人前で披露する」という偽善を正当化するに至る。
 というようなことになる。
 今回は、もう少し具体的に突っ込んで書きたい。

 前回「祈りは自由だ」と書いたけれど、人前で祈る時点で、その自由はかなり阻害される。神様と一対一でなら気にしなくていい諸々、たとえば順序とか整然さとか簡潔さとかを、気にしなければならないからだ。そしてそれ自体はごく自然なことだ。けれど、どこまで気にするかについては注意しないと、上記のような問題にもなり得る。

 その教会の雰囲気というか文化によっても違うと思うけれど、ある種の教会では、その祈りが教理的に正しいかどうかが重視される。たとえば「○○については天の父なる神様に」「△△については御子イエス様に」「××については助け主なる聖霊様に」、それぞれ相手を使い分けなければならなかったりする(それが本当に教理的に正しいかどうかは別問題だけれど)。
 また、「癒し」についてもある。たとえば病人のために祈るとき、「癒して下さい」と祈るのはNGとなる。なぜなら「聖書にはそのような祈りはない。癒しは命じるものだ」からだ。だから癒しを願う時は、「癒されよ!」と命じなければならない。

 もちろん、間違えたからといってその都度注意されたり叱責されたりする訳ではない。けれどそれを聞いている牧師が「アーメン」と言うか言わないかを、信徒らはかなり気にしている。教理的におかしい、あるいは意に沿わない祈りの場合、牧師は「アーメン」と言わないからだ(そしてそれは「不信仰」とか「失格」とかを意味する)。

 しかしそういう雰囲気は当然ながら、祈りをより不自由なものにする。まるで地雷だらけの危険地帯を恐る恐る進むかのようだ。

 たとえば誰かの癒しを願う時、「癒して下さい」という言葉が出てくるのは、ごく自然なことではないか。たとえそれが教理的でなくても、それを聞く神様には私たちの気持ちや意図がわかるはずだ。私たちが多少間違えたからといって、その祈りを無視したり無効にしたりするとしたら、その神様とはどれだけ器量が狭いのだろうか。まるで融通の効かない審判のようではないか。

 またその発想は、神様を道具のように使うのと同じだ。「こういう場合はこう祈れば聞かれる」というような、ハウツーとして祈るからだ。そこにあるのは使用者(私)と被使用者(神)の関係であって、心の通い合う関係ではない。神様はそんな関係を願っておられるだろうか。

2014年6月3日火曜日

「祈り」について

「祈り」について。
 
 クリスチャンが神様に「祈る」のは、日常的なことであろう。
 祈りには最低限のルールみたいなもの(『イエス・キリストの御名によって~』とか)はあるけれど、基本的には何をどう祈っても自由だし、何も気負うことはない。何も要らないし、ちょっとした隙間時間でもできる。もちろんじっくり時間をかけて祈ってもいい。自分の為にも他人の為にも祈れる。何なら全人類の為に祈ってもいい。
 
 そのように自由な「祈り」だけれど、案外自由でない時がある。人前で、代表して祈るような時だ。
 もちろん、まわりに誰がいようが関係なく、自由に自分らしく祈れるという人はいるだろう。けれど多くの人(私も含めて)は、そうではないと思う。どうしても、「どう聞かれるか」「どう思われるか」「内容が十分かどうか」等が気になってしまう。だからギコチない、借り物みたいな祈りになってしまうことがある(そういう経験がある人は少なくないだろう)。
 
 そして、そういうことが気になるのは、自分が祈る時だけではない。他人が祈っている時も、私たちは意識的にか無意識的にか、同じような基準でそれを聞いていることがある。だから人の祈りの流暢さとか、力強さとか、的確さとか、御言葉を引用しているかどうかとか、そういう基準で「あの人の祈りはすごい」とか、「あの人は祈りの人だ」とかいう評価を私たちは自然にしているのではないだろうか。
 
 どれだけ祈れるかには、もちろんクリスチャン歴も関係するだろう。他にも聖書をどれだけ読み込んでいるか、どれだけ暗唱しているか、そしてその祈る内容についてどれだけ知っているか、どれだけ思い入れがあるか、といったことも関係すると思われる。けれどそういう経験や姿勢の差がどれだけあったとしても、人目を気にしないで祈ることとは直接的には関係がない。というか経験的には、何年クリスチャンをやっていてもその辺は変わらない気がする。
 
 そしてそういう評価は、やはり能力主義的な基準に基づいている。「どれだけできたか」とか、「これだけできれば十分だろう」とか、「あの人よりはマシだろう」とか、そういう「行い」に視点がズレてしまっていると言わざるを得ない。いわゆる律法主義だ。
 
 しかし、人はもともと表面的なものに左右される存在だ。かくいう私もそうだから、何もエラそうなことは言えない。
 時々「就職活動に顔採用はあるのか」というテーマがテレビなどで取り上げられる。それを検証する実験も複数あるけれど、どれも「顔採用はある」という結論に達しているようだ。
 ある実験では、本物の就活生の中に、同年代の男女の現役モデルを混ぜていた。そして経歴的にはほとんど変わらない就活生群をつくり、そのうち2割はモデル、という構成にした。そして実験の趣旨を教えていない採用担当者らに模擬面接をさせたところ、2割しかいないモデル群の採用率が、明らかに高かったという。
 その実験の再現性がわからないから断言できないけれど、そういう結果になるのは、想像に難しくない。それだけ人は、見えたり聞こえたりする情報に左右される、という傾向があるのだと思う。だから祈りにおいても、「どれだけ上手に祈れたか」が、自分を含むクリスチャンに対する評価になりやすいのだろう。

 繰り返すが、それはある程度は仕方のないことである。しかしそういう能力主義的な視点のズレに気づかず、あるいはそれが正しいと思い込むことによって、どんどん能力主義に傾いていくのは問題ありだ。なぜならその最終形態は、「どれだけ素晴らしい祈りを披露できるか」だからだ。そしてそれは、「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈る」偽善者たちの姿だ(マタイ6章5節・新改訳)。

2014年6月2日月曜日

All you need is kill の感想(ネタバレあり)

 桜坂洋のライトノベル "All you need is kill" がハリウッドで映画化され、日本では7月公開予定となっている(2014年5月現在)。主演はかのトム・クルーズ。原作は「時をかける少女」の筒井康隆にも絶賛されており、気になって読んでみた。私個人としては初のライトノベル体験である。

 読んで感じたのは、「ライトノベルという文化」が存在するということだ。文章だけ見るならば、どう贔屓しても稚拙感を否めない。むやみな改行やスラングの連打が多くて、正直辛い。けれどそこには何かパワーというか、勢いというか、そういう御託を言わせない何かがある。これはライトノベルという、一つの文化でありジャンルであるのだろう(と私は思った)。

 それに、本作は発想が面白い。あらすじはこんな感じ。

■あらすじ
 近未来、地球はギタイと呼ばれる異星生物の侵攻を受けている。日本では「統合防疫軍」が戦線を守っているが、苦戦を強いられている。主人公キリヤ・ケイジは初年兵としてその戦闘に参加するが、戦闘開始早々に戦死してしまう。しかしその瞬間、出撃前日に戻っていることに気づく。
 キリヤは自分が死ぬ度に出撃前日に戻るという、タイムループに囚われていることを知る。そこから逃れられないと悟った彼は、しかし記憶だけは蓄積されるという利点を生かして、「何度でもやり直せるゲーム感覚」で戦闘訓練を始める。死ぬ度に彼は新しい知識と戦略を得、前回よりも多く、長く、戦えるようになっていく。
 そんな中、圧倒的戦闘力を持つリタ・ブラタスキという少女に出会う。実は彼女も自分と同じく、タイムループに囚われた存在だった。二人はこのループから抜け出すべく行動を始める。果たして二人に明日はくるのだろうか。

 いわゆる「ループもの」で、古くからある物語類型である。けれど「失敗しても解決するまでやり直せる」というゲーム感覚は新鮮であろう。映画「ミッション:8ミニッツ」に通じるものもある。
 ループもので面白いのは、前回の失敗を踏まえて次回はより良い行動を選択できるという、世界に対する圧倒的優越感であろう。しかし本作では、その辺はあまり描かれていない。強くなっていく過程自体はあるけれど、さらりと書かれている。そこは映画版に期待したい。

■ネタバレ
 物語の核心部分を簡単に説明する。未読の方は注意。設定を若干読み違えているかもしれないので、あしからず。

・ギタイには「サーバー」という特殊な種類がいて、過去の自分自身に対して、危機となる情報を送っている。だからギタイらはある程度の未来を知っており、常に最善の戦略を選択してくる。
・サーバーを殺した人間には、その能力が付加される。その人間が死ぬと、そこまでの記憶を過去の自分自身に送信することになる。だからサーバーを殺した人間にはループが起こる(キリヤは最初の戦死前に、期せずしてサーバーを殺していた)。
・そのループから抜け出すには、「アンテナ」と「バックアップ」を破壊してからサーバーを殺さなければならない。
・しかしループを繰り返す人間は、自身の脳がアンテナの役割を持つようになってしまう。
・だからキリヤかリタか、どちらか一方の「アンテナ」が死ななければ、もう片方がループから抜け出すことはない。
・それを知っているリタは最終局面でキリヤに戦いを挑む。が、逆にキリヤに殺される。
・リタの死後、キリヤはサーバーを殺してループから脱出する。ギタイのループはもう起こらない。リタを失い傷心のキリヤ。しかし戦いは続く。

 本文を読んでいてよくわからない設定が散見されたけれど、だいたい上記の内容で間違いないとは思う。もともとタイム・ループものとかタイム・トラベルものには、何らかの矛盾や逆説があるようだから、あまり細かいところを突っ込むのも無粋であろう。それより人物の描写や物語の展開を単純に楽しむのが、SFの読み方だと思う。
 しかしそうは言っても、キリヤとリタ以外の登場人物がけっこう雑に扱われていて、可哀想だった。最初の方に登場する栄養士のレイチェルなど、物語に関わってきそうな雰囲気はあったけれどまったく出番がなく、最後は登場する間もなく死んでしまう。

 タイトルの"All you need is kill"は、「殺しがすべて」みたいな意味だろう。当初は侵略者=ギタイの群れを殺しまくるのがすべて、という意味に取れる。けれどおそらく本当は、戦いの中で愛するようになった少女・リタを殺さねば明日はない、というこの物語のキモとなる部分を暗示しているのだと思う。ちなみに映画版の原題は "Edge of tomorrow" である。

 

 

2014年6月1日日曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・公園伝道について

「キマジメくんのクリスチャン生活」第1~2話の解説。
 本文はこちらから。
→第1話
→第2話

 ここでは、教会に通いはじめたキマジメくんが初めて「公園伝道」に参加する場面が描かれている。
 伝道は、いろいろ定義があるかもしれないが、ノンクリスチャンに福音を語ることである。ここでは知り合いに話すというより、公園で出会った人にランダムに声をかける、というスタイルが取られている。
 これは案外ハードルの高い行為だ。単に話しかけるのとは違うし、営業マンがそれにふさわしい場所で営業をするのとも違う。いわば「宗教勧誘」である。その必要性をまったく感じていない(しかも初対面の)相手に向かって、「神の愛」とか「悔い改め」」とか、「罪の許し」とかを語るのだ。もちろん多くの場合、いきなりそんな話はできない。別の切り口から会話を始めて徐々に核心に触れるという、話術的なスキルが求められる。
 そういう芸当を素人がやるのは、結構無理がある。もちろん何人に話せたかというノルマがある訳ではない(と思う)けれど、だからと言って皆が皆、率先してやりがたるものでもない。人には得手不得手があるから、伝道においても適材適所、自分にできることで関与すべきだと私は考えている。

 ここでの問題点は、そういう個人の得手不得手に関係なく、「クリスチャンなら公園伝道くらいして当然だ」という牧師の言い方にある。その背景には「伝道しないのは不信仰だ」、もっとすると「罪だ」くらいの考え方がある。
 信徒の方はそういう強迫的な雰囲気を感じ取るので、公園伝道が苦手でも、そうは言えない。伝道が好きな人はそうでもないけれど、苦手は人は我慢してそれに取り組むことになる。しかも喜んで、感謝してそうしているように見せなければならない。

 更なる問題は、伝道がうまくできなかった時に起こる。クリスチャンの側の不手際とか落ち度とかで、伝道がスムースでなく、結果的に効果的でなかった、と思われるような時だ。物語の中では、伝道用のトラクトをキマジメくんが持っておらず、溝田牧師に叱責される場面がそれに当たる。
 現在の日本の牧師には、この手の準備不足や段取りの悪さ、非効率や結果の出ないやり方に対して腹を立てる、いわゆるビジネスマン・タイプが少なくない。まるでプレゼンで失敗した部下を必要以上に叱る上司のようだ。ビジネスマンなら給料をもらっている以上、ある程度の責任はあるだろう。けれどこういう伝道をするクリスチャンらは完全なるボランティアであり、善意で行っているだけだ。そういう相手に、どこまで要求すべきだろうか。

 これに対する牧師の言い分は、「主が先に(十字架で)犠牲を払って下さったのだから、私たちも犠牲を払うべきだ」というようなものだ。つまり無償で最大限の努力をしろ、ということだ。それを言われたら信徒の側は何も言えない。
 けれどよくよく考えると、私たちが感謝して仕えるべき相手は神様ご自身であって、牧師ではない、ということがわかるはずだ。

 さらに、伝道の結果その人が救われる(信じる)かどうかは、私たちの責任ではない。もし結果の責任まで問われるなら、恐ろしくて誰も伝道できないだろう。
 だから、私たちの伝道のアプローチが完璧で素晴らしかったから救われたのだ、というのは、律法主義でしかない。アプローチが素晴らしくても悪くても、神が働かれるならその人は信じる。それを「私たちの行い」という視点に変換しようとするのは、やはりビジネスマン的な考え方がそこにあるからだ。