2014年6月24日火曜日

"Jesus Camp"に子どもを送る親が期待すること

 今回は"Jesus Camp"に子どもを送る親の心境について考えてみたい。そして"Jesus Camp"と同じような様態の教会や団体全般に子どもを預ける親の心境について、探っていきたい。

 紹介した動画を見るだけでも、「子どもにあんなことをさせるべきじゃない」と感じる人は少なくないだろう。あの様態は、昨今のカルト化教会のそれと変わらない。つまりリーダーの神格化、リーダーが主張する逸脱した教理への盲従、神への「奉仕」「訓練」と称された搾取の数々、そしてそれらを支える「感覚頼み」の「神体験」である(あの祈りの様はまさに集団ヒステリーの域だ)。
 大人でさえ徐々に騙されていくのだから、子どもはもっと酷いことになる。純真無垢なだけに、大人より熱狂的な信奉者になることもある。

 そういう場所に、なぜ子どもを送るのだろうか。その親がおかしいのだろうか。ある意味そうだろう。しかし親自身も同じように騙され(あるいはマインドコントロールされ)、良かれと信じて送るのが実情だろうと思う。親は基本的に子どもを愛するものだし、保護するものだからだ。子どもに害があるとわかっていて放置するはずはない(あくまで基本的にだし、そうとも言い切れない事件が昨今多いけれど)。

 ではその親が"Jesus Camp"に何を期待するかと言うと、子どもの「清め」だったり、クリスチャンとしての「霊的成長」だったりする。日本のクリスチャンにも、「子どもを霊的に敏感にしたい」とか言う人がいて、日々何やら「訓練」しているようだ。

 そういう親がめざす一つの成長モデルに、旧約聖書のダニエルがいると思う。
 ダニエルはバビロン捕囚の際、バビロンの王ネブカデネザルに仕えるために選ばれたユダ族の少年の一人だった。彼は律法をかたく守り、王の食事で身を汚すことをしなかった。そして3年間バビロンの教育を受けた結果、誰よりも優れた者と認められ、王に仕えることになった。ダニエルは夢を解き明かすこともできて、王に適切な助言を与えることができた。ダビデやソロモンのように晩年になって罪に陥ることもなかった。自分の子どもがダニエルみたいだったら、と願う親は少なくないだろう。

 ダニエルの優秀さの鍵は、律法をかたく守ったこと、つまり神様への忠誠にあると思われる。そのためバビロン捕囚の際は、まわりの子たちが食べる食事を食べず、野菜だけ食べることを選んだ。それは周りからしたらエキセントリックなことで、「普通の子と違う」「普通の子のように楽しまない」「どこか変わっている」という評価にもなる。
 このキーワードだけで見ると、"Jesus Camp"に登場する子たちと重なる。ハリーポッターを嫌悪し、世間一般の子が楽しむようなサマーキャンプに参加せず、泣きながら熱心に祈る。その特殊性、特異性は、ダニエルのような成長を期待させるだけの説得力を持っているのではないか(結果は別として)。
 だからそういう成長を願って我が子を"Jesus Camp"に預ける、という心情はあるだろう。そしてそれは日本でチャーチスクール、ホームスクールを利用する親の心情にも通じていると思う。

 しかし、当たり前の話ではあるけれど、たとえばダニエルが完全無欠の聖人だったはずがない。聖書に書かれていないだけで、普通の少年らしい一面もあったはずだし、いろいろ失敗したことも罪を犯したこともあったはずだ。「優秀さの象徴」みたいに殊更に祭り上げるべきではないだろう。
 それこそ、先日取り上げた映画「ノア 約束の舟」みたいに、今度はダニエルを大胆に解釈した青春映画でも作られて、その「優秀イメージ」がちょっと崩れるくらいが丁度いいのではないかと私は思う。

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