「肯定」のスパイラル。「人民寺院」の集団自殺について。

2014年6月14日土曜日

カルト問題

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 アメリカに、ジム・ジョーンズが設立した「人民寺院」(Peoples Temple)というキリスト教系新興宗教団体があった。今では「破壊的カルト」の先駆け的存在として知られている。同教団は1978年、ジョーンズ自身と1000人近い信徒の集団自殺により、消滅した。

 同教団は1974年に拠点をサンフランシスコから南米のガイアナに移し、同時に1000人以上の信徒がそこに移住した。教祖の名をとった「ジョーンズタウン」という自給自足のコミュニティが形成され、表向きはそこで「地上のユートピア」を再現していたようである。しかしその背後に暴力的・非人道的支配があったことが、1978年、連邦議会の視察によって明らかになった。帰途に着く視察団を多数殺害し、後に引けなくなった教祖は、そのまま信徒を巻き込んで集団自殺を決行した。

 この集団自殺で亡くなったのは信徒900人前後で、内300人前後が未成年だったという。後の調査で明らかになったのは、全員が自ら死を選んだのでなく、自殺を拒んで殺害された人も多かったということだ。逃げ出したところを背後から撃たれた人もいた。

 非常に痛ましい事件である。自ら進んで死んだ人も、殺された人も、同様に被害者だ。こんなことがあってはならない。けれど宗教関係の集団自殺は他にも沢山の例がある。

 私がこの事件について言及できるとしたら、この自ら望んで死んでいった信徒たちの心境についてだ。彼らは最期までジョーンズを信じ、尊敬し、その言葉に従い通した。何故こんなことが起こるのだろうか。

 端から見る限り、カルト化教会の牧師やリーダーを信奉する人の心理は、全然理解できないかもしれない。自分の権利を放棄し、言われるまま従い、死にまでも従うなんて普通じゃない、と。しかしそういう人たちが特別おかしな人、変わった人だった訳ではない。どちらかというと「マトモ」な人が多いと思う。少なくとも最初は正常で合理的な判断力を持っていた。だからそこには何らかの理由がある。

 ジム・ジョーンズは当初、「人種差別撤廃」を訴えて活動していた。黒人を擁護し、無料の医療サービスや給食サービスを展開し、マスコミに大々的に取り上げられた。黒人信徒の中には家賃を肩代わりしてもらえたとか、親身になって相談に乗ってくれたとか、ジョーンズを心底称賛する声が少なくなかった。彼らにとってジョーンズは、まさに「聖人」だったろう。自分を無にして人々のために働き、愛し、仕える「神の人」に見えただろう。この聖人に一体どんな悪いところがあるだろうか。彼らはジョーンズを最大級に好意的に、肯定的に見ていたはずだ。

 だからジョーンズの言行に違和感があっても、最大限ポジティブに、彼の側に立った解釈でそれが処理されるのは当然だった。彼の信徒に対する暴力も酷い扱いも、すべては(今で言えば)「訓練」みたいなものに変換された。であるなら、誰もそれを「悪い」とは思わない。むしろ「良いもの」「必要なもの」となる。

 そういう「肯定」のスパイラルに入り込むと、究極的にはどんなことでも肯定されてしまう。最終的には「自殺」もそうだ。それはジョーンズいわく「革命的自殺」「別世界への出発」であった。それが肯定された背景には、キリスト教的「殉教精神」もあったかもしれない。

 だからジョーンズに導かれるまま死を選んだ信徒らにとって、それは絶対的正義だった。そしてその正義の始まりは、ジョーンズが最初に始めた慈善活動にまで遡る。
「人種差別撤廃は良いこと」=「それを始めたジム・ジョーンズは良い人」=「彼が言うことは良いこと」=(細かな肯定の連続)=「集団自殺は良いこと」
 そんな図式があったのではないだろうか。

 人の価値観や正義、真実は、一たびズレだすと、最終的にはとんでもなく大きくズレてしまうことがある。最初とは似ても似つかないものに変わり果てていることがある。そしてその変化が緩徐であればあるほど、自分では気づけない。
 それに気づいて立ち返るには、相応の衝撃がなければならないと私は思う。無理矢理引っ張られて転ぶくらいの強いショックがなければ、立ち止まれないし、戻れない。

 しかし人民寺院の集団自殺は衝撃が大きすぎた。死んでしまっては、立ち止まることも戻ることもできない。彼らの死について、私たちはよくよく考え、確かな教訓としなければならない。でないと彼らの死が、本当に無駄なものになってしまう。

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