「祈り」について・その4(まとめ付)

2014年6月6日金曜日

「祈り」に関する問題

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 4回目になるが、「祈り」について書きたい。
 ちなみに今までの3回分をまとめると、だいたい次のようになる。

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#その1
 人前でする祈り(代表の祈り等)は、上手下手といった能力主義的な視点に移りやすい。結果、上手な祈りを披露しよう、聞かせようという偽善に陥りやすい。

#その2
 教会の指導にもよるが、教理的に正しいかどうかに固執してしまう。結果、正しく祈らなければ聞かれないという、神との無味乾燥な関係に陥りやすい。また逆に、こういう場合はこう祈れば聞かれるという、神を機械のように扱うことにもなる。

#その3
 周囲の様々な期待に応えたい、という動機で祈るようになってしまう。結果、正直でない、体裁だけ整えた祈りになってしまう。これはクリスチャン歴の長い人に多い気がする。
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 さて今回書きたいのは、「ファシズム的に煽られた祈り」である。これだけでは何のことだかわからないだろう。これはちょっと特殊な状況下でないと起こらない現象なので、まったく想像がつかない、という人が多いかもしれない。
 これはいわゆる「祈りの集会」で起こる。

「祈りの集会」と一口に言っても、その様相は教団教派によってイロイロだろう。私が知っているのは聖霊派のそれだけれど、まずその説明からしたい(聖霊派の中でも珍しいものかもしれない)。

 
 その集会は、プログラムがあってないようなものだ。基本的に司会もない。奏楽がずっと流れていて、集まった人々が各々祈っている。時折、誰かが「代表の祈り」のような形で祈る。それに同意する人が「アーメン」と言うことがある。その祈りに釣られるような形で、奏楽が盛り上がったり、逆に静まったりする。あるいは奏楽の方が先に盛り上がって、それに釣られる形で誰かが大声で祈ることもある。
 これだけ聞くと、秩序があるようなないような、「混沌」を感じるかもしれない。けれど一応のルールはあって、メンバーたちは心得ている。牧師はそれを「聖霊の流れ」「聖霊の自由な導き」「執り成しの霊の働き」等と呼ぶ。

 その集会の目標は、牧師いわく「打ち破り」である。この世は悪霊の支配下にあるので、その集会で、聖霊に導かれて祈ることで、その支配を打ち破っていく、という訳だ。それでどうやって打ち破るかというと、簡単な言うと、「祈りが盛り上がることによって」だ。
 その「盛り上がり」のプロセスに、私は「ファシズム的に煽られた祈り」があると考えている。

 たとえば集会が進む中、誰かが「この地域にリバイバルを!」と祈る。それを願う真面目な人たちは「アーメン!」と言う。すると奏楽が盛り上がって大きな音を出す。すると別の誰かも、「この地の悪霊を打ち破る!」とか祈る。ますます「アーメン!」が大きくなる。すると奏楽もますます大きくなる。さらに誰かが、「この地に神の国を!」とか祈る。周りがうるさいから、もはや怒鳴り声だ。すると「アーメン!」も怒鳴り声になり、奏楽は更に激しくなる。誰かが立ち上がると、それに釣られて大勢が立ち上がる。手を振り上げたり、軽く踊ったり、祈りも奏楽もヒートアップして止まらない。誰かが「イエスの勝利!」とか言うと、「イエスの勝利!」の集団連呼が始まる。そして気持ち的にも音量的にもこれ以上激しくできないポイントに到達して、勢いは急速に止んでいく。そして静寂。
 その流れを見て、メンバーの誰もが、「よし、今日も打ち破った」と確信する。

 この流れを「聖霊による打ち破り」ととるか、「集団ヒステリー」ととるかは個人の自由であろう。私はずっと前者だと思っていたけれど、今はイロイロあって後者だと思っている。私の分析はこうだ。
 そこには一時的な感情の盛り上がりが多分にある。奏楽のリズミカルで大きな音も影響している。「悪霊と戦う」という崇高な「使命」も動機づけとなっている。それに牧師から「毎回打ち破らなければダメ(不信仰・失敗)だ」と言われていることも大きい。毎回の「打ち破り体験」が習慣化している、ということもある。
 そもそも、「大きな音・大声=打ち破り」という図式には何の根拠もない。単純すぎる。じゃあ小さな声で祈ったら神様は働かれないのか、という話だ。
 しかも、仮に「打ち破り」が起こるとして、それをするのは神様だ。私たちではない。なのに「私たちが祈りで盛り上がらないと打ち破れない」というのは、神様を必要としない、自分たちでやります的な発想だ。律法主義とも言う。

 誰かが祈ったことに気持ちが高揚し、その流れで、更に高揚感を煽るような祈りをする。その連鎖が全体に広まり、全体として気分が高揚していく。その流れに反する祈りはもはやできない。その流れに沿った、しかも更に高揚させるような祈りしかできなくなっている。それはファシズム的に煽られた祈りであって、冷静に神様と一対一で向き合った結果生まれる祈りではない。

 こういう集会やそういう祈りについて全く想像できない、という人はいるだろう。しかし私が思うに、それを想像できないのは幸いなことだ。そしていつか、そういう場面に遭遇することがあったら、この記事を思い出して早々に立ち去ることを私は勧める。

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