"Fight church"の牧師が言う「キリスト教主流派の教えは男性を女性化させる」について、また書きたい。
けれどその前に「主流派」という言い方が気になっている。主流派とは何なのだろう。そして自分たちは主流ではないのだろうか。自分たちは正統的キリスト教からは外れている、つまり異端的だ、と認めているのだろうか。
という問題はさておき、キリスト教は人を女性化させるのか、という話。
この話題が上る背景には、前回書いたように、教会の男女比が少なからず影響しているだろう。そしてそれに加えて、キリスト教の中心メッセージである「愛と許し」も影響していると思う。そのメッセージは闘争的というより保護的、 男性的というより女性的な性質だからだ。その両者が相まって、上記のような「男性を女性化させる」というイメージが作られると思われる。
しかし根本的には、女性が多かろうと、教理が保護的だろうと、男性が女性化する直接の理由にはならない。もしなるとしたら、それは環境や状況のせいでなく、その個人の問題が大きいように思う。
たとえば男性クリスチャンが教会に殊更に「愛と許し」を求め、依存し、何でも最後は許されると打算しているなら、「男らしくない」「弱々しい」というような評価になるだろう。そしてそういう輩が多いと、「まったくクリスチャンの男どもは」という全体評価にもなり得る。
けれど、それが「女性化」だとしたら、その考え方は女性差別である。女性が弱々しいとか、卑怯だとか、そういう話になってしまうからだ。そもそも、男性化とか女性化とか、よく意味がわからないけれど。
その問題は百歩か千歩か譲るとしても、だから「逞しい男」を目指して総合格闘技に挑戦するというのは、何だか筋違いな気がする。逞しさとか強さとかって、筋骨の強さのことなのですか? という話だ。
相手を打ち負かすのは強さと言えば強さなのだろうけれど、本当の強さは、打ち負かせる相手を打ち負かさず、主張できることを主張しない忍耐にある、と私は思う。
もちろん総合格闘技でも何でもやったらいい。運動やスポーツは良いものだ。けれどそこに教会の男性化とか女性化とか、救世主には逞しい男が必要だとか、そういうメッセージは要らない。一個人がそう信じるのは勝手だけれど、教会で会衆に語る立場の人間が、そういう主張をいかにも神からのものとして語るのは、もはや暴力の域ではないかと私は思う。
主流派というのは、所謂メインラインということでしょうか。それならば、プロテスタントの最初の3グループ、長老改革派、ルター派、聖公会で、拡大的にメソジストまで入れるという考え方も有ります。
返信削除そうすると、教義的には右から左までいろいろ有る状況になっていますから、何をもって正統とするかはまた別の問題になってくると思います。
結局、その言葉を使った人が何を念頭においてその用語を選んだかという個別の問題になると思います。
クリスチャンだからと、言葉遣いや行動が「いい人」を演じないといけなくて、自然と女性的になると言うことでしょうか。
返信削除何となくわかる気がしますね。
パウロは「男らしく」ありなさいと言い、旧約でも「強く、雄々しくあれ」と言っているのに、何が女性的ですか!
何処を読んだらそうなるのか?( ・∇・)
ありのまま、男は男らしくあるべきで、自然でダメですか?( ・∇・)
過去に、女みたいなしゃべり方の牧師がいましたが、気持ち悪いったらありゃしない!( ̄ヘ ̄メ)
それが、教会の大勢を占めるおんなどもの(大変失礼しました!)受けが良いと評判に!(´・ω・`)
あくまでも、男は男。女は女。それで良いでしょう?( ・∇・)