"Fight church"に見られる歪んだ「強さ」について

2014年6月28日土曜日

キリスト教信仰

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 "Fight church"の牧師が言う「キリスト教主流派の教えは男性を女性化させる」について、また書きたい。

 けれどその前に「主流派」という言い方が気になっている。主流派とは何なのだろう。そして自分たちは主流ではないのだろうか。自分たちは正統的キリスト教からは外れている、つまり異端的だ、と認めているのだろうか。

 という問題はさておき、キリスト教は人を女性化させるのか、という話。

 この話題が上る背景には、前回書いたように、教会の男女比が少なからず影響しているだろう。そしてそれに加えて、キリスト教の中心メッセージである「愛と許し」も影響していると思う。そのメッセージは闘争的というより保護的、 男性的というより女性的な性質だからだ。その両者が相まって、上記のような「男性を女性化させる」というイメージが作られると思われる。

 しかし根本的には、女性が多かろうと、教理が保護的だろうと、男性が女性化する直接の理由にはならない。もしなるとしたら、それは環境や状況のせいでなく、その個人の問題が大きいように思う。
 たとえば男性クリスチャンが教会に殊更に「愛と許し」を求め、依存し、何でも最後は許されると打算しているなら、「男らしくない」「弱々しい」というような評価になるだろう。そしてそういう輩が多いと、「まったくクリスチャンの男どもは」という全体評価にもなり得る。

 けれど、それが「女性化」だとしたら、その考え方は女性差別である。女性が弱々しいとか、卑怯だとか、そういう話になってしまうからだ。そもそも、男性化とか女性化とか、よく意味がわからないけれど。

 その問題は百歩か千歩か譲るとしても、だから「逞しい男」を目指して総合格闘技に挑戦するというのは、何だか筋違いな気がする。逞しさとか強さとかって、筋骨の強さのことなのですか? という話だ。

 相手を打ち負かすのは強さと言えば強さなのだろうけれど、本当の強さは、打ち負かせる相手を打ち負かさず、主張できることを主張しない忍耐にある、と私は思う。

 もちろん総合格闘技でも何でもやったらいい。運動やスポーツは良いものだ。けれどそこに教会の男性化とか女性化とか、救世主には逞しい男が必要だとか、そういうメッセージは要らない。一個人がそう信じるのは勝手だけれど、教会で会衆に語る立場の人間が、そういう主張をいかにも神からのものとして語るのは、もはや暴力の域ではないかと私は思う。

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